小夜子の話
我慢して半日ほど過ごしたが、もう限界らしい。明日は休日だから、きっと歯医者は休みだ。今行かなければ、しばらくの間はこの痛みが続くだろう。
昨日の夜からの痛みだったので、あらかじめ保険証を会社に持ってきていた。
課長の方を見やると、机の上のノートパソコンに向かっていた。電話は金曜日のせいか少なかったし、二、三十分席を外したところで何か言われるようなことはなさそうだった。
「あの、課長……」
「何か」
パソコンから目を上げると、課長は私を見た。
「この辺に、歯医者さんてありましたっけ」
「ええ、……一本向こうの道路沿いにあります。いいですよ、行ってらっしゃい」
「向こうの道路、ですか?」
通りに面している広い窓から下を覗き込むと、確かに〈林歯科〉という看板が見えた。聞き覚えのある名前だった。思い出そうとしながら口紅を拭き取り、カーディガンを羽織ってエレベーターに乗り込んだ時、林歯科という名前をどこで聞いたのかを思い出した。同時に恋人だった西野の顔を思い出してしまう。
一年くらい前、彼がトラック事故で亡くなるまで通っていた歯医者だった。
〈林歯科〉は歩道から階段を降りた地下にあった。
ドアを開けると、チャイムが鳴り響いた。子供のころに通っていたピアノの先生の家もこんなチャイムだったと思いながら、中に入った。
今は他に診察を受けている人は居ないようだった。案の定、受付の女性にすぐ名前を呼ばれ、二つある診察台の左側で、こちらですと言われた。
思わず、足が止まる。
西野が座ったことのある診察台だ。二ヶ月もの間歯医者通いをしていた彼は、どちらにも身を横たえて、診察を受けたに違いなかった。どうぞと促されて座り、前掛けやタオルを着けられたのだが、私はもしも座ったのが西野であれば腕の位置はここ、腰の位置はここなどと思い巡らせていた。気になって仕方がない。しばらくすると、医者が横にある椅子に座ったようだったので、ぼんやりとそちらを見た。
「今日はどうしましたか」
何か聞かれたようだ。ええと、何しに来たのだっけ。
「奥歯が痛むので……」
「口を大きく開けてください」
医者がライトを引っ張った所為で、まともに光が入りそうになり、目をつむる。口を開けてしばらくすると、虫歯を突付かれたらしい。声は声にならなかった。
「すいません、痛かったですか」
小声で医者が、受け付け兼助手の女性に指示しているのを聞き、そのまま目をつむっていることにして、私は続きを想像し始めた。
私のつま先がここなら、彼のつま先はもう少し遠くにあるだろう。縁からはみ出しているかもしれない。スリッパは脱いだだろうか。たぶん、履いたままにして子供のように踵をスリッパにぶつけて、鳴らして遊んでいただろう。
夢中で想像していた。治療してもらっていることも、遠くの出来事のようだったが、口をゆすぐように言われて幾度か中断した。すこし痛みますよ、と声をかけられた後、歯茎にちくりという痛みを感じ、それがひどく抓られるような痛みに変わった。たぶん麻酔だろう、と頭の隅で気がつきながら、この診察台にかつて彼の背中が押し付けられたことを思う。彼の背中と私の背中が、ようやく接点を見つけたのだ。
初めて会った時から、西野の背中には翼が生えているように思えてならなかった。いつかこの男は飛ぶに違いないと、不思議に私は確信していた。飛んでいくのを見てみたいとずっと思いながら、一緒に過ごしていた。けれども、何度も疑問に思ったことだが、なぜ、そのように思ったりしたのだろう。西野は割といいかげんな男だった。時々、はっきりとしない言い分で面倒な事を引き起こしてしまう、困ったひとだった。この男は頭が悪い、そんなふうに私は彼のことを見くびっていた。同時にそれは彼を強く愛するきっかけとなり、救われたと感じられる瞬間を作ったりした。普段、誰かを見くびっていると、そのひとが正しい時には自分を見つめるきっかけになるものだと、彼によって私は思い知らされた。……だが、それらは彼が飛べると確信する理由ではない。確かになにかのイメージがあったはずなのだ。あれは、あれは何だったのだろう。
「はい、もういいですよ。口をゆすいでください。治療はこれで終わりです」
医者の声がした。
のろのろとうがいを済ませると、受付の女性が前掛けやタオルを取ってくれる。
「おつかれさまでした」
「ありがとうございました」
会計を済ませると礼を言い、階段を昇って地上に出た。光が急に自分に集まってきたように感じ、なんとなく空を見上げた。高いビルとビルの間、地上での道路の分と同じだけ、空が長く続いている。青さが雲によって分けられて見える。そのように見ていると、西野のあるイメージを思い出した。
この雲は空の階段になっていて、それを彼は軽々と一段飛ばしに昇っていく。そして一番遠くにある、夏の入道雲のまだ先へと翼を広げて飛んでいくのだと。そして心のなかにある、夏の空への焦がれるような思いに気がついた。そういえば、西野のイメージと夏とを重ねるのは容易いことだ。忘れ物を届けるため、イヤリングをなくすほど夢中で走ったこと。道路から立ち昇る熱気に、彼の忘れ物やイヤリングなどどうでもいいことだろうと笑われ、ただ素直に頷くしかなかった夏。あの時私は、この気持ちのままでいようと自分に誓った。なぜならそれを、それまででもっとも清々しいことのように感じたからだった。
幻想や憧れを、まだ捨てきれずにいた。入道雲などはその最たるものだったし、飛ぶことは自分でも可能のような気さえしていた。……今だからわかることだが、きっとそんなことは誰にでも可能なのだ。このように思うかどうかに違いない。彼にはそのように抽象的な、つまり何の役にも立たないことを考える余裕はなかっただろう。けれども、彼に翼が生えていたことを、私は知っていた。わかっていた。彼はあっけなく死んでしまったが、今でも、信じているのかもしれなかった。
空を見上げるのをやめると、後ろを振り返えってから会社のほうへ歩いた。
背中に日の光が当たっているせいか、とても暖かだった。