雨の景色
運転手によく見えるように停留所番号の札を掲げてから、銀の硬貨を穴のある物とない物一枚ずつと、銅の硬貨の穴のない物を一枚と一緒に支払い口に入れてバスを降りる。折りたたみの傘はなかなかうまく開かない。二回ほどお猪口になってからようやくうまく広がった。その間に細い雨が袖や背中に降りかかったが、香夏子はさほど気にしなかった。ひっきりなしに行き交う車のライトは雨にぼやけて糸を引く。目を閉じたり、開いたりするだけでその糸が伸び縮みするのを彼女はよく知っていた。さまざまなものに対して傍観者になることができた。
雨が降ると、それだけで嬉しくなるのだった。雨が激しければ激しいほど、気持ちは浮き立った。傾斜のある道を通る時なら、少なからず雨に濡れながら流れる水の様子をじっくりと観察してしまう。艶やかな黒に見える水が厚みと皺を形取りながら道路を次々と滑って行く。また雨はさしている青い傘に当たって弾けて音をさせ、道路の水の上で再び小さく跳ね上がった。夜の海のなかに似ているはずだとぼんやりと思い、傘の下から手を差し出して雨にふれ受け止めてから確信した。もっと隙間なく雨が降れば足元も三十メートルほど先のタバコ屋も海のなかだ。しかも夜の。この考えは彼女を楽しませた。しかも夜の、というところが気に入ってその言葉を繰り返しながら、外灯の白い光に照らされる所為でてらてらと黒光りする水溜りを見つめる。そのような水溜りが点在する雨の夜は、まるでこの世の果てのように見えた。それで香夏子は、いっそ清々しいような気持ちになるのだった。敬に会ったらこのことを話そうと思い、事細かに科白まで用意してその時を待っているのだったが、結局のところ用意していたことさえもすっかり忘れて二度ほど機会を逃している。
バス停から少し歩くと敬の部屋に着く。今日はスーパーに寄って夕食の材料を買ってから来たので十五分くらいかかった。驚かせようとして、鍵の掛かっていないドアをそっと空けても彼は部屋の中にはいなかった。
「けいちゃん? どこに居るの」
問いかけながら靴を脱いでいると、背後に気配があった。
振り返ると敬が苦笑いをして立っている。その体を片手で軽く抱きしめてから顔をあげた。
「……どうしてあとから入ってくるの? あなたの部屋なのに」
「どうしてあとからって……、それはこっちが聞きたいよ」
言いながら、きつく抱きしめ返される。
素っ気無い言葉とは裏腹で、この男の力は優しく使われるのだと、香夏子は改めて思った。会えないでいた間の寂しさが込み上げてきて、甘えた鳴き声で訴える。
どうした? と優しく聞き返しながら、敬は香夏子に唇を押し付けた。彼女のかすかな声を操りながら、両頬を両手で挟んで続ける。
手に持っていたスーパーのビニール袋を香夏子が取り落とした音でようやく敬は、腕の力を抜いた。靴を脱いで上がると、脱力している香夏子を片腕で抱えて引き摺ったまま、ビニール袋を台所のテーブルの上まで運んで行く。それから彼女を寝室のベッド脇に連れて行った。香夏子は腕を弛められたので敬の顔を見ようとしたが、すぐに唇を塞がれてしまう。今日はまず夕食を作りに来たのだと抗議しようとして腕に力を入れるのだが、それもほんの少しの間だけだった。肘も腕も膝も腰からも力が抜けて、支えを失った。敬は支えることもできるはずの腕の力を抜いて、乱暴にベッドへと滑らせた。
「だ、め……!」
舌がうまくまわらない。言おうとしていたことも口腔のどこにも引っ掛からずに、代わりに溜息になってしまう。敬の唇は香夏子の頬を唇を顎を唇を首筋を唇を辿り、また指先は、捲れ上がった薄手のセーターとブラジャーを潜って乳首を挟んでいた。香夏子は足の間が湿ってくるのを感じ、目立たないように少しだけ腰を振ったが見つかってしまった。
「ここも触って欲しい?」
と、敬は膝丈のフレアースカートを捲り上げた。淡いブルーのショーツが露わになる。左手の指を乳首に置いたまま、右手を香夏子の左腿の方からショーツの中に潜らせた。香夏子は声にならない声をあげ、表情に意識しながら敬を見上げた。視線はいつもと同じに優しく彼女を包んでいた。微笑みを浮かべようとし、敬の指先に邪魔をされた。ショーツだけを脱がされながら、強い雨音を耳にして思い当たる。敬は香夏子が雨音を聞きながらしてみたい、と言ったのを覚えていたのではないだろうか。彼女は我ながらおかしなことを言ってしまったと思ったが恥ずかしくはなかった。
「雨が強くなったみたいだね」
香夏子の気持ちを見透かしたように彼は言った。しかし、意味深な響きが無かったことに彼女は気づき、ほんの少しだけ失望した。敬のそばに居る時は、いつでも期待が空回りしている。また、期待をしすぎている自分を彼女は少し嫌いになる。
「……雨音がするね」
敬はぶつぶつと何か言って笑い、彼女の乳首を吸った。香夏子は聞き返すこともできずにいたが、やがて全て忘れてしまった。
次の日の朝もやはり雨が降っていた。雨音が強い。けれども窓から差し込む日差しもしっかりしていた。それで彼女は眼を開けずに雨か晴れかを当てようと敬に言った。答えはあらかじめ二通り予想してあるのだった。失望しないためだ。ひとつめは雨。もうひとつめは、こちらが期待している答えなのだが、雨だからもう一度しよう、だった。
昨日の夕方にした後で食事をし、夜中にも愛し合ったが、まだ足りなかった。けれども彼女にとって彼は油断ならない男だったので、すぐに起きてどこか行こうと言う可能性もあった。しかし、香夏子もこんな他愛も無いやりとりを楽しんでいた。
「雨、、かな? でも眩しい」
ひとつめ、だった。
ひどくがっかりしたのを隠そうとして、彼の頬にキスをしながら起き上がろうとしたが、その両腕は押さえられた。
「雨だよ」
二の腕の強い力で、香夏子の体は彼の胸の上に押し付けられる。予期せぬ感触に乳首が突っ張るのを感じる。
敬には自分の心の声が聞こえているのではないだろうか、と彼女は疑った。
「雨だ」
彼は繰返して言いながら背中を撫で擦った。片手でしっかりと腰を抱きかかえながら、もう片方の手で彼女に触れた。前戯のほとんどが省かれていることにさえ、感じてしまう。それは彼女にとって、彼が彼女を完璧に理解していることに他ならなかった。
敬の頭の両脇に手をついて身を捩じらせていると、彼は素早く体を動かした。空だったところにぐいぐいと押し込まれる。間もないのに彼女は息を切らし、彼の首に腕を回し、彼のすぐ横に顔を埋め、近づこうとした。
「雨だ」
言いながら彼が耳を噛んだ時、香夏子は細かく震えた。
帰り道には霧雨に変わっていた。
彼女の体中には敬の触れた感触が、敬の体温が残っていた。しとしとと降る雨が腕にも残っていたそれらを消してしまうように思い、また勿体無いがいっそ消えてしまえばいいと考えた。そしてあの、この世の果ての景色について話すのを、三度忘れたことに気づいた。風が強く吹いて霧雨が彼女に吹きつけた。