昭和63年、国分寺丸井店は「駅のそば」ではなく「駅の上」!
この連載では、戦後すぐに私の父が開業し、後に私が二代目社長を務めたおもちゃ屋「さくらトイス」について書いています。
前回の記事では、昭和58年、59年と、ショッピングセンター丸井に出店が続いた頃のお話でした。
今回も、引き続き丸井への出店のお話です。国分寺と草加の丸井は現在もありますが、上の写真は、40年ほど前の懐かしいものをお借りしました。(業界紙トイジャーナル掲載のもの)
昭和61年、中野丸井(本店)に出店
昭和61(1986)年、中野丸井への出店依頼がありました。
中野丸井は比較的小さい店ですが、丸井の本店です。丸井本社も中野にあります。
もちろん出店しました。中野丸井店はビルが2つに分かれていて、間に他のビルがあり、入口も2か所に分かれていました。
始めは小さい方のビルであまり集客はありませんでしたが、すぐに大きなビルの方に移りました。中野は昔から代々住まれている人が多く、親子連れや孫を連れて買いに来て下さるお客様もいっぱいいらっしゃいました。
親しみやすい街だったので固定客がたくさんついていました。
相撲の二子山部屋や、サンミュージックの事務所が近くにあったので、お相撲さんとか芸能人の方も来店していました。
この頃、丸井の勢いがドンドン増していてコマーシャルも有名でした。
「丸井はどこ?駅のそば。駅はどこ?丸井のそば。」
多分覚えていらっしゃる方も多いと思います。
昭和63年、国分寺駅ビルの丸井に出店
昭和63(1988)年、丸井から「国分寺の駅ビルに丸井が入るので、おもちゃ売場を」と打診がありました。本部の福生から近く、しかも駅ビルです。
もちろん父はすぐにOKを出しました。坪数はあまり広くなく30坪です。
商品の幅は広くして、在庫はあまり持たなくても本部が近いのですぐに補充が出来るメリットがあると品揃えをしました。
この国分寺店は、丸井としても力を入れていた店舗で、華々しくオープンをしました。
オープン初日に、父が丸井の青井社長に会ったら、「やっぱり『駅のそば』ではなくて『駅の上』がいいね!」と、笑って父に言ったそうです。
出店は立地が一番と考えていた父は、喜んでこの話を私にしてくれました。
余談ですが、国分寺丸井と一緒に、駅ビルショッピングセンター「エル」がオープンしました。オープンを手伝いに行った時に、体格の良いお客様がいっぱい来ていたので不思議に思っていました。
後日に聞いた話ですが「エル」と言うビル名を、「ビッグサイズのお店ばかりが集まっているショッピングセンター」と勝手にお客様が勘違いして、体格の良い方が集まったとのこと。考えてみれば、それはそれで商売が成り立つなと思いました。
ハイパーヨーヨー、ミニ四駆など、イベントも多数開催
国分寺店は、オープン後順調に売り上げを伸ばし、「サンシャイン子どもの町」に継ぐ、さくらトイスのフラッグシップ店となりました。
私がさくらトイスに関わってからも沢山のイベントも行い、うちにとっては大事な店でした。
イベントで思い出すのは、アンパンマン、たまごっち、シルバニアファミリー等の着ぐるみ撮影会や、ハイパーヨーヨーの認定会、ミニ四駆大会。
ビックリしたのが、店に行ったら子ども広場に若いお母さんたちが沢山座って場所取りをしています。
「何事?」と社員に聞いたら、当時仮面ライダーに出演していた要潤さんのトークショーがあるとの事でした。
お母さんを巻き込んでいる仮面ライダーの凄さを実感しました。
今売れている俳優さんの多くは、仮面ライダー出身ですよね!
大井町、草加と、丸井への出店が続く
その後丸井さんの出店は、平成2年(1990年)に大井町店、平成5年(1993年)に草加店と続きます。
大井町店では店の中に通路があり、ぬいぐるみ売り場が独立していました。そこには小さなショーウィンドーがあり、そこの飾り付けを楽しみにしていたのを覚えています。
草加店ではお客様のお子さんが店内を走り回っていて什器にぶつかり、怪我をしたことがありました。丸井さんの対応も早く、大事に至らなかったので助かりました。
店をやっていると色々なトラブルが生じます。
特にお客様に対してのトラブルは誠意をもって対処し、お客様に安心してお買い物を楽しんでいただくことが一番と考えていました。