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昭和40年、おもちゃ屋店内にレーシングサーキットが誕生

1960年代の日本の大ニュースと言えば、なんといっても東京オリンピックです。
その頃、私の父が経営するおもちゃ屋「さくらトイス」は、横田基地の目の前である福生市、国道16号線沿いへ移転オープンしました。
上の写真は、昭和41年(1966)年頃の「さくらトイス」です。向かいの駐車場には、左ハンドルの車が停まっていますね。 また、屋根の上には動物や乗り物などのモチーフが飾られた楽しい店構えでした。

そして、店内には、レーシングカーを走らせることができる大きなコースがあり、評判を呼んでいました。停めてある自転車は、遠くから来る子どもたちのものと思います。
 
でも、この写真の少し前、さくらトイスは思いがけない災難に見舞われていたのです。
今回は激動の1960年代のさくらトイスの思い出話です。

■日本初のモデルカーのサーキット「さくらサーキット」の始まり

ある日、日系2世のアメリカ人のお客様が、店頭に貼ってあった東京オリンピックのポスターがほしいとやってきました。そして、こんなことを尋ねました。
「今、アメリカで大流行しているレーシングカーは扱っていないのか?」
 
レーシングカーは、「走るプラモデル」と呼ばれた電動で走るミニチュアカーです。車自体に電池が入っているのではなく、コースの溝の電線から電気を受けて走る仕組みでした。「スロットカー」とも呼ばれていました。
 
店で扱いがないと答えると、そのアメリカ人は米軍の技術職だったのでしょうか、なんと後日、サーキットコースの設計図を書いて持って来てくれました。車も見せてくれましたが、日本ではまだ見たことがありませんでした。
 
父は、福生にいるアメリカ人にも売れると考え、プラモデルにモーターを付け、ギアなどの部品を集めて、試作車を作りました。
そして、翌昭和40年の1月、店の真ん中に大きなコースを完成させました。
「さくらサーキット」のオープンです。
 
お客様は店でレーシングカー本体や部品を買い、自分で組み立てて、店内のサーキット場に走らせに来ました。次第に評判を呼び、サーキットに順番待ちの列ができる程でした。一度に走れるのは3台程度。待っている人たちは店内に置いた販売機で瓶のコカ・コーラを買って、飲みながらレースを眺めていました。
 
余談ですが、そのころ宮川家の自宅は200坪あり、ガーデンパーティーを開いたり、社員たちや近くの人たちで麻雀やダンスパーティーをしたりして、たくさんの人が訪れていたのを覚えています。
サクラサーキットオープン日にも、招待客100人を招いて自宅でガーデンパーティーを開きました。都内から遠くても、メーカーさん問屋さんもよく訪れてくださいました。
 
その後、1号店であった原宿店もサクラサーキットとして改装オープン。買ったレーシングカーを走らせることのできるサーキットは大人気となりました。
するとおもちゃ屋仲間から「自分の店にもサーキットを作りたい」と相談されるようになりました。そこで、サーキットを作ってくれた家具職人と一緒に、熊谷、前橋など全国5~6ケ所にサーキット場を作り歩いたそうです。
その中の一つ、赤坂のサーキット場では競技会がありました。福生のさくらサーキットでもレーシング大会を毎月開いていて、全国レーシングブロック大会予選も開催したそうです。
 
おもちゃの業界紙「トイジャーナル」2015年1月号で、年代別の流行おもちゃが紹介されていましたが、1965年の欄に、「レーシング玩具の売れ行き急伸」と書かれています。この年、レーシングカーは日本でも流行りはじめて日本のメーカーが家庭用に商品を発売しました。

「トイジャーナル」2015年1月掲載、1965年の流行おもちゃ。オバQやバービーも人気でしたね

こうしてレーシングサーキットという新たな名物を加えてにぎわっていた福生のさくらトイスですが、思いがけない災難に見舞われました。

■七夕の夜の火事で、店が全焼・・・!

昭和41(1966)年7月7日、福生の七夕祭りがあり、駅前の商店街は見物客で賑わっていました。夜の八時ごろになると、どこかで消防車のサイレンが鳴っています。七夕祭りの日なのに、どこが火事なんだろうと思っていたら、宮川家自宅の電話が鳴りました。この電話は私自身が出ましたので、はっきり覚えています。
受話器をとると、お店の近所の方からの知らせで、「お店が燃えている!」とのこと。父が慌てて駆け付けると、地域の消防車の他、基地の消防車も出動して消火にあたっていましたが、全焼してしまいました。
7月4日のアメリカ独立記念日、そして夏に向けて、店には多くの花火を仕入れていたことも、火の手を強める一因となってしまったのです。
 
当時、福生では火事が多かったことを覚えています。噂では、アメリカ人相手の飲み屋(Bar)などの中でも、流行っていない店は自分で火をつけて、保険金をもらっていたとか・・・(真偽のほどはわかりません)。
父は偶然、その年の1月に店の保険金を増額していたので、当初は自作自演を疑われてしまいました。
 
しかしその後、米軍基地の子ども数人が店に盗みに入って放火したことが明らかになりました。犯人が米軍関係者であるため、刑事裁判ができません。「ごめんなさい。」だけで当事者たちは本国へ帰ってしまいました。
不幸中の幸い、自作自演の疑いは晴れたので、2千万円もの保険金を手にすることができました。なんと支払いは現金だったとか。父と一緒に新宿まで車で取りに行った母は、多額のお金を持って帰るので落ち着かなかったと話していました。
 
店の再建は急ピッチで進められました。8月には工事を着工し10月にはオープンにこぎつけることができたのです。
再オープンするにあたり、店の4割に中地下と中2階を設け、140坪ほどに拡張しました。創業時から付き合いのあった問屋・清水ゴムさんのご好意で、再オープン時の仕入れは1年後払いでOKとしてくれたそうです。
 
1960年代後半から70年代はじめにかけた高度経済成長期、日本の人々もだんだん豊かになり、子どもにおもちゃを買い与えられるようになってきました。そのため、さくらトイスには、日本人のお客さまも増えてきました。
父も、これからはアメリカ人だけでなく日本人にもおもちゃを売っていくようにしたいと考えたそうです。


昭和27年から平成19年までの55年間、東京・埼玉・神奈川・千葉・茨城の各地に34店舗を構えていたおもちゃ屋「さくらトイス」の2代目社長を務めた私が、おもちゃ屋の思い出話、懐かしいおもちゃのことをつづっていきます。毎月11日に公開予定ですので、続きをお楽しみに!

また、「さくらトイス」のことを覚えている方、ぜひコメントをくださいね。

編集協力:小窓舎


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