昭和27年その② めざせ日本のトイザらス!「さくらトイス」の由来
昭和27(1952)年、終戦後の原宿・表参道で、私の父である宮川浩一が始めたおもちゃ屋、「さくらトイス」。
当時の写真を見ると、ショーウィンドーの上に「TOYS SAKURA」と書かれています。半分見えなくなっているのは、当時2階に住んでいた伯母が干していた布団のためです。表参道で布団干し、今ではなかなか見られない風景ですね!
また、看板はキリンのデザインでした。
その後、55年間使い続けた「さくらトイス」の名前は、どうしてつけられたのでしょうか?
そして、看板のキリンのデザインの由来は?
今回は、さくらトイス創業の頃のお話の続きです。
■ 花屋からおもちゃ屋へ
昭和27(1952)年、大学生だった私の父・宮川浩一は、原宿の表参道で花屋を始めました。当時、近くにあったのは、米軍ファミリーの居住地「ワシントンハイツ」です。ハイツ内へ花の配達へ行くうちに、おもちゃを買いたいという声を受けて、おもちゃも仕入れて売るようになりました
詳しくは、前回の投稿をご覧くださいね。
やがて花屋の店頭にもおもちゃを置き始め、お花とおもちゃの兼業になりました。
でも、お花は売れ残ると枯れてしまうし、お水を使うので冬は寒くて冷たく身体の芯から冷えきってしまいます。クリスマスシーズンには木でリースを大量に作りましたが、大変な作業で、手に穴があき手がボロボロになってしまったそうです。
何よりも、「お花は腐るけれど、おもちゃは腐らない」と考えた父は、徐々におもちゃやスーベニール(お土産物)販売に力を入れるようになったそうです。
クリスマスの時期が最大の稼ぎ時であり、プレゼントやオーナメントなどがよく売れました。
蔵前におもちゃの仕入れに行くと、同じような立地環境の人たちと知り合い、情報交換をするようになりました。例えば、グランドハイツのあった成増の山村さん(一時は同じさくらトイスの名前で営業していたこともあります)、横浜元町の千代田ママストアさん達です。
問屋である清水ゴムには売れる商品を集めてもらえたので、売り上げを伸ばすことができました。また、清水ゴムのほうでも、そうした店舗の影響を受けて品揃えが変わっていき、売り上げが伸びたとのことです。
■ アメリカでおもちゃ屋のシンボルと言えば、キリン
おもちゃ屋の店舗名を考えるにあたり、アメリカ人にいろいろ聞いたところ、「日本のイメージは“富士と桜と芸者”」と言われました。
でも「TOYS GEISHA」はもちろんダメ。
「TOYS FUJI」よりは「TOYS SAKURA」の方が響きが良いと思い店名を決めたそうです。日本名は「サクラ玩具店」として、個人創業しました。
でも、看板に店名だけ書いても、おもちゃ屋だと分かってもらえないのではないか?
そう思った父は、アメリカ人に再びきいてみました。
「アメリカで一番大きいおもちゃ屋は?」
「トイザらスだ」
「そのおもちゃ屋のシンボルマークは?」
「キリンだよ」
そこで、アメリカ人におもちゃ屋だと分かってもらえるように、看板にキリンを付けました。
■ 今も続くおもちゃ屋、おもちゃメーカーなどが創業した時代
ちなみに、原宿・表参道のおもちゃ店と言えば「キディランド」も有名ですね。同じころ(1950年)の開店ですが、当初は書店だったそうです。のちにさくらトイスと同じく、徐々におもちゃを置くようになりました。
また、「ダイヤブロック」で知られる株式会社カワダも1952年の創業です。
当時はゲーム専門問屋で、新宿にある会社から原宿まで、創業者の河田親雄氏がリヤカーを引いてトランプや花札を売りに来てくれたそうです。
株式会社カワダ現在も、本業は玩具総合問屋で、本社は新宿にあります。
昭和29(1954)年、父は大学を卒業して、本格的におもちゃ屋として歩み始めます。その頃に、名古屋から妻康子が嫁いできました。そして昭和30(1955)年、のちに二代目社長となる長女あきこ、つまり私が誕生しました。
ワシントンハイツに出入りをしていると、将校クラブでバザーがあると声をかけられ、出店。それを皮切りに他の基地からも出店要請があって、出かけるようになりました。
この頃、おもちゃ屋のお客さまの大半は、ワシントンハイツのアメリカ人たちでした。終戦から10年、日本はまだまだ復興途上で、日本人はおもちゃを買う余裕がなかったのです。
駐留しているアメリカ人たちには、日本のお土産(スーベニール)としての品物が人気で、店頭にはこけしや日本人形などを揃えていました。
その他、この頃のおもちゃのことについては、次回の投稿でご紹介しますね。