私なりの、せめてもの、3月11日。
※ 3/11に書いていたnoteを、あーでもないこーでもない、と書いては消してを繰り返したので、今更3/11当日の話をしています。時差がありますが、当日の気持ちで読んでいただけると幸いです。
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「東日本大震災から12年が経った日」
日付を見れば分かることだし、テレビをつければニュースでどの局でも報じられていることだし、"事実"としてはそうなんですけど。
心のどこかで「私は忘れてませんよ!」と世の中にアピールしたい、正義感を振りかざした自己顕示欲に満ちた自分がいて。
当日、日付が変わって間もない頃、Instagramのストーリーで、Yahooが主催している「3.11検索で10円募金」の取り組みについて協力を促すような投稿を書いて流しました。
でも、その投稿をして、数人の知人から「いいね!」がつけられたという通知をみたとき。なんだか、モヤッとして。
自分の、あの日あの出来事に対する向き合い方はそんなミーハーなものじゃなかったはずなのに、自分いい人ですよアピールのためのツールに使ったみたいな、後悔というか恥ずかしさというかプライドの傷つきというか。上手く言語化出来ない、いや〜な感情に心が埋められてしまって。
だから、それを昇華する?清算する?ためにも、自己満足ではあるけど、しっかり3.11と向き合い直そうと思って、このnoteを書きました。自己満足で書いている自覚はあるので、文章が乱文でも取りとめなくても最後まで書くし、勢いのままに世に放つので内容は多分ろくでもないです。パッションだけの文章。許してください。
さて、2011.3.11まで遡ります。
14時46分。私は関東圏に住む小学校3年生として、クラスのお楽しみ会の準備をすべく、学校の教室で、ダンボールを切っていたところでした。
突然、教室がガタッと揺れて。
危ない、と直感で悟って。
とりあえず、近くにあった友達の机の下に潜り込みました。
それから余震が収まるまでずっと机の中で待機をしている間に、三半規管よわよわな私は地震酔いしてしまって。
校内放送で、震源が東北であることを聞かされながらも、東北に知人がいたわけでもなかったので、なんとなく他人事に「たくさん揺れたかな、大変だったのかな」と思う程度でした。
帰りは、所々倒れた植木や、少しズレていた街の塀や道路の様子に驚きながらも、一斉下校で近所の子達と家まで帰りました。
家に帰ると、祖父と共に、職場から歩いて帰ってくるという母親を迎えに行くために車に乗りこみました。行く道の途中で信号待ちをしているときにまた余震にあい、車ごと揺られた恐怖は未だに覚えています。
少し泣きながら「迎えに来てくれてありがとう」と微笑んだ母親と、祖父と、一緒に家に帰って。祖母と父とみんなで机を囲んで思いました。あぁたまにある強めの地震の日じゃん、って。全然大丈夫だ。家族みんないるし、って。
でも、テレビをつけてみるとそんな考えは一瞬で消え去りました。
映し出されていたのは、宮城や岩手、福島のテレビ局の本震時の映像で。なぎ倒されるスチールのラックや、空中ブランコみたいに大きく振れる室内照明が事の甚大さを示していました。
でも、それよりも怖かったのが津波の映像でした。
当日は放送規制もあまりなかったため、視聴者提供の津波の映像が余すところなく、しかも色んな局で流されていて。
撮影をしながらも高台に慌てて逃げる人の様子、沖から襲ってくる津波の様子、いとも簡単に車を、船を、家を、町を、飲み込んでしまう津波の脅威。ただの水が、まるで意志を持った怪物のように襲い来る様子と、襲われる人々の悲鳴をノーカットで取り込んだ映像は、小学生の私には刺激が強すぎて、テレビの前で震えながら号泣し、親が慌ててテレビを消していたのが今でも思い出せます。(これを書きながらも当時の映像がフラッシュバックして、ちょっと吐きそうです)
それからしばらくの休校生活も、街中から物資が無くなるらしいという扇情的なニュースも、計画停電の中石油ストーブで焼いたじゃがいもの味も、色んなことが断片的に、でも鮮明に、今でも思い出されます。
東北に直接のゆかりは無いし、知り合いもいないし、関東に住んでいたから直接自分が何かを失ったわけでもなかったので、直接の被災地の、被災者の方からすれば、「何をお前が被害者ヅラして」と思われると思います。
けど、被害者ヅラしたいところがメインなのではなくて。
せいぜい震度4-5しかなかった関東に住んでいた、しかも守ってくれる家族に囲まれる場所で過ごせていた私が、私ですら、これほどに鮮明に当時のことを覚えているし、怖かったという感情が忘れることなくフラッシュバックされるんです。
東北の主要被災地3県で当時過ごされていた方の気持ちを、状況を、想像したら、どれほど怖くて、苦しくて、逃げたくて、泣きたい状況だったか、と。
私なりに想像して、それで。怖くなったんです。
あの、怖かった、という記憶が鮮明だった当時に、漠然と、「この出来事は、この出来事に付随した記憶は、色褪せさせちゃいけない、忘れちゃいけない」と思って、強い気持ちを固めたのを、覚えています。
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それから約4年。
縁あって、中学に入ってから、2015年から2018年までの間、中高のボランティアと称した復興支援活動に参加する機会があり、その期間は毎年夏になると大船渡市にお邪魔していました。
伝統舞踊を教わったり、地の食べ物を食べさせてもらったり、ほやの捌き方を教わったり、地元のお祭りの設営や灯篭流しに参加させてもらったり。
首都圏の、言ってみれば"都会"からやって来た見ず知らずの若造に、たくさん優しい声を掛けてくれる方ばかりで。
小さい子も、おじいちゃんおばあちゃんも、色んな方の空気感がとてもアットホームで、第2の故郷ってこういうのを指すのかなると思うくらい、今では大好きになった場所です。
ボランティアにお邪魔していた当時は、現地の方に話を聞く機会も多かったですし、行く道中で引率の先生から津波の映像を見せられることもしばしばあったので、そのたびに、岩手の、大船渡の受けていた被害の状況について聞き、胸が痛む思いと、私なんかに何が出来るんだろう、という思いを抱えました。
行くたびに、そして現地の方と話す度に、皆さんこう仰っていました。
「起こったことを忘れないで、時々思い出してくれるだけでも十分なボランティアですよ」と。
それまでは、それこそガレキを除去したり、支援物資を運んだり、募金を募ったり。そういう「直接被災地を復興に向かわせるためのお手伝い」こそがボランティアであり、それ以外はボランティアにはならない、と思っていました。
でも、大船渡の皆さんは優しくて。
力もお金もない中高生を相手に、思いを馳せるという「気持ちのボランティア」を教えてくれたんです。
確かに、普段関東に住んでいて、頻繁に東北に行けるわけではない私のような人間には、直接的な支援をするには時間的にも金銭的にも限界がありました。
正直言えば、今でもそうです。
だから、せめて、「記憶の中で褪せさせない」「起こったことを思い出して、可能なら周りにも少し思い出させて」という、心の部分でのボランティアだけはしたい、しなきゃ、というのは今でも変わらず思っていて。
毎年、3月11日になったら、Yahooの検索募金をして、時間になったら黙祷をして。
なるべく見たくないようなニュースやツイートなどもなるべく目を通して、当時のことを思い出したり、当時被災した方が今思っていることの感情に意識的に対峙したりすることから逃げないように過ごす1日になるようにしてます。
嗚咽しながら泣いたりもします。今年もしました。
見る人が見たら「そんなの綺麗事だ」「そんなの別にボランティアじゃない」「いいことしてる風な自分に酔ってるだけだ」と思われるかもしれません。し、実際、そういう部分も少なからずあるという自覚はあります。
別にいいんです。この際、自己満足でも。そう思われても。
思い出さないよりはマシ。目を背けるよりはマシ。
防災意識を高めないよりはマシ。
自傷行為でありながら自慰行為でもある、私なりの復興支援。
なんでもない1人の金欠大学生に出来る、せめてもの"寄り添い"という行為。
来年、いや今年中、には、高校生のときぶりにお邪魔したいなと思ってます。
海も、山も、町も、人も、言葉も、
みんながあったかくて、みんなを受け入れてくれるあの場所に。大船渡に。
みなと祭り、行きたいなぁ。
剣舞、見たいなぁ。
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