キリスト教の救済モデル
私のnoteには下書きのまま放置している記事がかなりある。本稿もそんな下書きのまま放置していた記事の一つであったのだが、他の人のnoteを見て仕上げる気になった。
ただし、取り上げたテーマへの関心と動機は執筆当初のものとはかなり違うものとなっている。執筆当初の動機は、以前私が書いた以下のnote記事と共通の動機であった。下のnote記事の冒頭に書いてあるのだが、キリスト教の原罪思想についての理解を深めることは、フェミニズム思想の男性原罪論の珍妙さを理解する手段であった。
しかし、そういった当初の動機でキリスト教の原罪思想を考察するのは、記事を仕上げる気になった現在においては、少々勿体ないとの意識が生まれた。譬えで示せば、アサリの酒蒸しをつくるときに純米大吟醸を使うような勿体ない気持ち、と言える。
そんなわけで当初の動機とは離れてキリスト教の原罪思想を考えたい。
無意味・無根拠に耐えられない人間の心性
■神話を必要とする人間の心性
さて、宗教的な説明図式というものを必要とする我々人間の心性なのだが、人間はどうにもこうにも無意味というものには耐えられないという心性を持っている。
これについてヨーロッパ文化圏ではライプニッツが充足理由律という形で初めて明確に定式化した。とはいえ、大昔から苦心惨憺してよく分からないものに何とか意味づけしようと人間が努力しているのは、各民族がもっている神話体系などからもよく分かる。だから、ライプニッツが提唱する前でも人間は大まかに「どんなことがらもそれが生ずるのにはそれなりの十分な理由がある」として物事を認識しようとしていたと言える。
因みに、ライプニッツの充足理由律に関する事典による説明は以下である。
この認識枠組みはキリスト教文化圏よりも仏教文化圏で顕著にみられる。とりわけ仏教教理の縁起説などはまさしく充足理由律と全く同じ認識を前提にしている。縁起説の見方の説明で、もっとも今回の話に適合しているものを引用しよう。
また、この辺の議論というものは存在論という哲学の分野で古代のギリシャ哲学だけでなくウパニシャッド哲学でも論じられて永らく哲学の中心的なテーマだったわけだが、分析哲学全盛の現代においては下火になっている。更に言えば充足理由律自体についても「それってそういう風に世界を認識しようとする人間の精神の枠組みだよね?」というのが現代的な哲学的見解だろう。
哲学で考えるとどうかと言った話はさておき、人類の哲学史において2000年以上「あーでもない、こーでもない」と考えてきたことからも分かるように、どんな形であれ「物事には理由があって欲しい」という強烈な欲求が人間にはある。その理由の内容がロクでもないものであっても理由が無いよりかはマシなのだ。そんなどうしようもない人間の心性が過去につくり上げたものが各種の神話体系なのである。
キリスト教における救済の考え方
■キリスト教の原罪思想
キリスト教の神話体系もまた「どんな形であれ物事には理由があって欲しい」という人間の強烈な欲求に応える物語を持っている。今回の記事のテーマと関連するのは、死が存在するの理由に対するキリスト教の説明図式である。以下にキリスト教の神話体系による説明図式をQ&Aの形で示そう。
人間の問いかけ :「なぜ、我々は死ぬんでしょうか?」
キリスト教の回答:「人間の原罪に対する刑罰として"死”があるのだ」
全くもって碌でもない回答だと思うのだが、こんな回答でも無いよりは遥かにマシなのだ。更にこの刑罰モデルの説明図式からある一つの希望が生まれる。つまり、
死が刑罰なのであれば、罪が許されたならば、その罰(=死)は無くなる
=罪が許されたら死なない存在になる
=罪が許されたら永遠の命を得る
という救済のストーリーが生まれるのである。
さて、この救済のストーリーが駆動するためには、大前提として「我々は死という刑罰が科された罪人」でなければならない。そして、当初の「なぜ我々は死ぬのか?」という疑問に対する説明図式としての刑罰モデルは、「永遠の命を得る」という救済に対する説明図式へと変化するのだ。つまり、「我々は罪を犯したために刑罰として死を科せられた存在であるからこそ、罪を懺悔(悔い改め)して許されたならば死から自由になって永遠の存在になる」という図式へと変わるのである(懺悔と罪の許しにおけるイエス・キリストの位置づけについては後述)。
したがって、キリスト教の刑罰モデルを前提とした「救済=永遠の命を得る」が生じ得るためには「まず罪人であり、その後、罪が許される」という段階を経なければならないのだ。
このあたりのロジックがなかなかに奇妙なのだが、罪を犯し得ないような乳児のような存在であっても理論上すべての人間が救済(=最後の審判の後に死なない存在になること)の対象となるためには、本人の行為に依らず罪人となるような罪の概念が必要となる。これがキリスト教の原罪という概念なのである。
■「イエスの死」による救済と熱心な悔い改め
キリスト教の世界観において、現に存在している人間に原罪が備わってなければ「原罪ゆえに刑罰(=死すべき存在とされていること)が科されている存在」とならず、「原罪の許しによって刑罰が終了する=死なない存在に戻る」ということも起こらなくなってしまう。したがって、キリスト教の世界観において原罪は必要不可欠といえる。
そしてまた「原罪の許しによって刑罰が終了する=死なない存在に戻る」というプロセスには更なる必須の条件がある。それは「イエス・キリストが自分の身代わりとして原罪の刑罰(=死)を引き受けた、ということを神に自己申告すること」である。すなわち「イエス・キリストの十字架による刑死」という事実だけからでは全人類の原罪が自動的に消えるということは起こらないのである(註1)。
この事に関して物語風に示してみよう。
「イエス・キリストの十字架による刑死」を他人事のように「イエス・キリストの十字架の死?オレは別に頼んじゃいないし、アイツが勝手に死んだんじゃないの」と考えているようであれば、神も「なるほどイエスの死はオマエに関係ないのだな。ならば、お前の原罪による刑罰は継続だ。つまり、今まで通り死ぬべき存在となっているがよい」と扱うのである。
一方で「イエス・キリストの十字架による刑死」を自分事として引き受けたならば「イエスはオレの身代わりになって死んだんだ!神さま、アンタだって知っているんだろう?アイツがオレのために死んだことをさぁ。そんなアイツの死が無駄になるなんてあっちゃいけないよ」と神に訴えかけ、神もまた「そうだ。オマエのために私の息子イエスは望んで死んだのだ。息子がオマエの原罪の刑罰を引き受けたのだからオマエを元の死なない存在に戻そう」とするのである。
さて、ここで問題になるのが上段の熱い態度と異なる微温的な態度の場合である。つまり、「イエスがオレの身代わりに刑罰を引き受けてくれたんだってさ。まぁ、そういうことだから、神よ、一つヨロシクね」と申告してきたならばどうなるのかという問題がある。この場合は申告者が受けるべき原罪の刑罰をイエスが代わりに引き受けたことを神に申告しているので理論的には問題ないような気もする。しかし、聖書の以下の記述を見るとダメなようである。
ではなぜ「熱心な悔い改め」が原罪思想に基づくイエスの十字架による救済にとって必須となっているのだろうか。「熱心さ」が必須条件となる理屈について説明しよう。
イエス・キリストの事を自分事として引き受けているならば熱心になるハズで、熱くならないならばイエス・キリストのことは他人事になっている。イエス・キリストの事が他人事になるということは、「イエス・キリストの十字架の刑死もまた他人事」になってしまう。したがって、イエス・キリストの原罪の引き受けがその人にとって「他人事=関係ない話」になってしまうので「救済=永遠の命を得る」から漏れてしまうという理屈となるようだ。
以上のことから分かるように、キリスト教の世界観である「服役中の囚人モデル」における救済に関して「熱心な悔い改め」という行為は決定的な行為となっている。
■「原罪」を熱心に悔い改めることは可能だろうか?
「キリスト教の世界観=服役中の囚人モデル」において、「原罪」と「原罪に対する熱心な悔い改め」は「救済=永遠の命を得る」のために必要不可欠な要素である。
しかし、ここで難問が生じる。原罪に対して熱心に悔い改めることは可能だろうか。
第一に、原罪というものは「人類の祖先である(とされる)アダムとイブが犯した罪」であって「本人が犯したわけではない罪」である。
第二に、アダムとイブが犯した罪は、齎した結果は甚大(=エデンからの追放・死ぬべき存在とされる)である一方で、「神が食べてはいけないと禁じた木の実を食べた」という、内容からみると「『冷蔵庫のプリンは食べちゃダメだよ』と親が禁じたにもかかわらずプリンを食べてしまった子供の罪」と大差が無いように感じれられる罪だ。
ちょっと具体的に考えてみよう。
「食べたらダメだと禁じられていたプリンを食べた、お前の爺さんのかつての罪は、お前の罪でもある」などと言われた場合を想像してみよう。この爺さんがプリンを食べた罪を自分の罪として捉え、罪悪感を覚えて熱心に悔い改めるということが出来るだろうか?
そのプリンが当時において如何に貴重であったか力説され、そのプリンを爺さんが食べたことで自分の代まで遺恨の残るイザコザが生じたと説明されたとしても「おいおい、爺さん、何やってんの!」とは思うだろうが、「えぇ、それってオレの罪なの?ホントに?」と感じるのが正直なところだろう。
つまり、「原罪」に対して「熱心に悔い改める」というのは心情的に非常に困難なのである。絶対にそんな人間は居ないとは断言できないが、一般的な感覚からすると無理である。
「いやいや、アナタが永遠の命を得るために備えられたものが原罪なんですよ。永遠の命を得るためなんだから熱心に悔い改められるでしょ?」と言われるかもしれない。しかし、「罪を熱心に悔い改める」という行為には「悪い事をしたなぁ」という自覚が必要である。この罪悪感が存在しないとき、形式上では悔い改めが可能かもしれないが、「熱心な悔い改め」というものはまず不可能である。
譬え話で説明を試みよう。
さて、「アナタが生きるためには心臓が必要ですよね。しかし、心臓があることは罪なんです。そんな罪深い心臓を持っていることについて、あなたは熱心に悔い改めなきゃいけませんよ」と言われたとしよう。だが、あなたは「自分に心臓があることの罪」について熱心に悔い改められるだろうか。
もちろん、「悔い改めなきゃ心停止させるぞ」と脅された場合、悔い改めの言葉とされる文言を熱心に唱えるということはできるだろう。しかし、その行為には「悔い改めに必須の心の転換という側面」は存在しない。また、その行為の熱心さは単に「心臓を止めんでくれ!」という恐怖からくる熱心さであり、罪の意識からの熱心さとは無縁の熱心さにすぎないのである。
以上のことから分かるように、「キリスト教の世界観=服役中の囚人モデル」において、「原罪に対する熱心な悔い改め」は「救済=永遠の命を得る」のために必要不可欠な要素であるものの、「原罪に対する熱心な悔い改め」は心情的にほぼ不可能なのだ。換言すると、原罪について我々は痛烈な罪責感を持つことが難しい。
しかし、そうなるとキリスト教の原罪思想に基づく「永遠の命を得る」との救済は不可能となる。自分事としてイエスの刑死を受け止めなければ、自分の原罪に対する刑罰をイエスが引き受けたことにならず、その場合は原罪に対する刑罰である"死"は、未だ自分が背負わなければならない刑罰となるからである。
救済を得るためには原罪に対して罪責感を持たねばならない。しかし、原罪に罪責感を持つことは困難である。この構造そのままであったならば、キリスト教の原罪思想に基づくイエスの十字架の救済は絵に描いた餅である。そこで登場するのが「罪の意識の創出」である。
この辺りの理屈付けは浄土真宗の悪人正機説と殆ど変わる所が無い。
■罪責感を持つ前提としての罪の意識の創出
完全な存在である神仏から不完全な存在である人間を見れば色々と至らないことだらけである。もちろん、神仏が実在するか否かに関して個々人で異なる見解を持っているだろう。しかし、神仏の実在を否定する人間であっても"あらゆる完全さ"という視座の想定を置くことは可能だ。この視座から見ることを「神の眼から見る」と表現しよう。
さて、神の眼から見たとき、不完全な人間は罪人でしかあり得ない。このあたりの自覚はキリスト教も仏教もあまり変わらない。神の眼から見て罪人であるとの自意識を具体的に取り上げた、有名な聖書の箇所を引用しよう。
有名な「罪を犯したことのない者が石を投げよ」との言葉の箇所である。そして、そのように言われた民衆は誰も石を投げつけることができなかったエピソードもよく知られている。
さて、このとき石を投げなかった民衆全員が、制定法に反した行動に関して身に覚えがあったから石を投げなかったのだろうか?可能性としてはゼロではないが、そのように解釈するよりも「神の眼から見て自分は罪人である」との自意識から自分は石を投げる資格無しと民衆全員が判断したと解釈すべきだろう(註2)。
神の眼から見た罪の基準は非常に厳しい。それは"あらゆる完全さ"という視座からのものであるから当然とも言える。不完全さに意思が関係していれば、神の眼からは罪になってしまうからだ。このことはキリスト教の基準でも同様である。実際にそのことを聖書の箇所から確認しよう。
ハードルが高すぎである。とはいえ、このハードルを超えれば「"死に値する"ことはない存在」となるので、ある意味で仕方が無いとも言える。もしも、易々と超えられるハードルであれば、そのハードルをクリアした場合に「じゃあ、私は"死に値する"ような存在じゃないよね?すると、自分が犯した訳じゃない原罪だけで私は死んじゃうの?それはキビしすぎだよぅ」との感情が生じるだろう。
したがって、原罪云々が無くとも「あぁ、自分は罪人なんだなぁ」と実感する基準として神の眼から見た基準が必要なのである。また、人間の不完全さに関する意思の介在こそが罪責感を生み出す。このことは引用箇所で列挙された事柄で具体的に考えれば理解できるだろう。
貪ろうとの意思を持たなければ「むさぼり」の罪を犯すことはなく、自らの意思の動きとして妬むことがなければ「ねたみ」の罪は防ぐことができる。意識的に謙虚になることで「高慢」の罪は防止でき、意欲的に知ろうとすることで「無知」の罪を犯すことはない。
つまり、原理的には意志の力によって罪を犯さないで居られるのだ。自分の責任である「善き人であろうとしてもなれない意志の弱さ」によって我々は罪人となっている。そして、この罪人との自意識が自分事としての罪の許しへの真摯な欲求となる。
この自分事としての罪の許しへの真摯な欲求が、自分事としてイエスの十字架による刑死の認識に繋がり、イエスが自らの罪の身代わりとなったとの認識に伴う自らの救済への確信となるのである。
■キリスト教の救済モデル
キリスト教の説明図式によれば人間が死ぬのは人間が罪人だからである。そして、人間の罪への刑罰として"死"がある。この"死"に対するキリスト教の説明図式は、同時に救済の図式ともなる。死の図式を逆に考えれば、罪が許されたならば刑罰としての"死"は無くなるからである。
さて、人間が死すべき存在となったのはアダムとイブが原罪を犯したからである。したがって、原罪が許されれば人間は死すべき存在ではなくなる。
罪が許される条件は何かといえば刑罰が全うされることである。しかし、原罪の刑罰は"死"であるので、再び"生"を得るとなると刑罰が全うされなくなってしまう。だが、"死んだまま"に居る状態のとき原罪の刑罰を全うしているとも言える。つまり、ずっと死んだままなのであれば刑罰が全うされて原罪が許されて再び生を得ることになる一方で、再び生を得ることになるのであれば原罪の刑罰は全うされないとも考えられる。すなわち、死んだままの状態も死んで蘇る状態のどちらも矛盾した状態と言える。
したがって、イエスによる十字架の身代わりがなければ、"死の説明図式”は破綻していると言えるだろう。
さて、人間を死すべき存在としたアダムとイブの原罪であるが、アダムとイブ以外の人間にとっては別人がやらかした罪である。別人がやらかした罪で自分が刑罰を科されるのは理不尽極まりない話である。そんな理不尽さへの救済措置として、イエスの十字架の身代わりがあるといえる。
だが、いくら「アダムとイブのやらかしによって貴方も背負うことになった原罪に関して、その刑罰をイエスが引き受けてくれますよ」と言われても、「別人(アダムとイブ)がやらかした罪の責任を、別人(イエス)が取るという構造において、間に"自分"を挟まなくてもよくないか?」との疑問が湧いてくる。つまり、別人が勝手にやらかして別人がそれを償っている状況は、我々を傍観者の立場に置く。
「なーんか、他の人がワチャワチャやってんなぁ」という態度でいるとき、そこには罪責感は存在しないため、イエスの身代わりの刑死はあくまでも他人事にすぎない。イエスの身代わりの刑死を自分事として受け止められないとき、イエスの身代わりの刑死は自分事とはならないために、自分の原罪の刑罰の身代わりとはならなくなってしまう。
つまり、イエスの十字架による救済が生じるためには「まさに、イエスは自分のために死んだのだ」という確信が必要なのだ。
しかし、「イエスは自分の原罪の刑罰の身代わりになったのだ」と言われても、原罪はアダムとイブが犯した罪であるために、どうしても罪の自覚が生じない。そのため「まさしく自分自身が罪を犯しており、自分こそが神による刑罰が科される存在なのだ」との自らの罪の意識が必要となる。
ここで出てくるのが神の眼から見た罪である。すなわち、あらゆる完全さの視座から見る不完全な人間の在り方の罪である。このとき重要なことは、単に不完全であることではなく、自分の意思によって不完全ではない状態になることも可能であったにも関わらず、不完全な状態にある「善き人であろうとする意志の弱さ」によって罪人となっていることである。原理的には罪を犯さないで居られたにも拘らず、罪を犯してしまった自分という存在についての自覚が、神の眼の想定によって生まれる。
この自分の責任によって生じた罪の意識が、真摯な罪の許しへの欲求を生み出し、イエスの十字架の刑死を自分事とする認識と、それに伴うイエスの十字架による救済への確信と繋がるのである。
以上のようなロジックからキリスト教の救済モデルは構成されている。
まとめ
人間は重大な物事と捉えているものについて、それが無目的・無意味・無根拠であることに耐えられない心性を持っている。全てのものには、何かしらの目的があり、何かしらの意味があり、何らかの根拠があると思い込みたいのだ。そんな人間の心性を形にしたものが、ライプニッツの充足理由律であり、哲学の存在論の領域の話である。また、仏教の縁起説を始めとする宗教的な枠組みである。
そんな人間の心性が生み出した、一つの巨大な枠組みとしてキリスト教の原罪思想による説明図式をみた。また同時に、キリスト教の救済モデルを考察した。
さて、キリスト教の原罪思想は「死の説明図式」であると同時に、それが反転した形となる「救済の説明図式」となる。救済にあたってイエスの十字架の刑死が重要なのだが、イエスの十字架を単なる他人の出来事として認識している場合は救済として機能せず、自分事として認識してはじめてイエスの十字架は救済として機能する。その際、自らの罪の意識がイエスの十字架を自分事として引き受けるにあたって必須の要素とも言えることを確認した。
註
註1 このあたりの事をダイレクトに説明している聖書の箇所は以下である。
註2 当時の法律はローマ法だけでなくユダヤ人の法律である律法も含んでおり、律法は成文トーラーだけでなく口伝トーラーもある。律法にはかなり細かな規則もあるので、それらに関する規則違反をしないことは難しいかもしれない。このあたりの事情は、現代日本において重大な刑法違反となる行為に思い当たる節が無くとも細かな法律違反となる行為をしたことがない日本人は居ないのと同様である。例えば、自転車走行可以外の歩道を自転車に乗ったまま走行する行為は道路交通法違反となるが、車がソコソコ通る通常歩道が整備された道路で車道を通らず歩道を自転車に乗ったまま走行する経験は、自転車通学をしたことのある人間なら誰しも身に覚えがあるのではないだろうか。また、40km/hの制限速度のある広い道路を周囲の自動車の速度に合わせて50km/h程度で走行することなどもドライバーになったことがあれば日常茶飯事の出来事だろう。
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