ご都合主義的に「ヘイトスピーチ」の言葉を使うね
フェミニスト側の陣営が用いる「性差別発言・ヘイトスピーチ」の概念は実に御都合主義である。そして、ウンザリするような理屈でその使用の在り方の正当化を図ろうとする。ただ、そのバカバカしい理屈のバカバカしさを戯画化したマンガが一部で有名になったので、その理屈のバカバカしさを示す苦労が減ったと言える。言ってみれば、以下に示すマンガのワンシーンを示すことで一般の人に向けた挙証責任を逆転させることができる。
「アナタ達はどういう理屈でこんなバカげたことが正しくなると主張しているんですか?出羽守論法や手前味噌の概念による正当化等の説明になっていない説明では納得できないですよ。アナタ達が『これが正しい』と主張する以上は、シッカリと納得のいく説明をする道義的義務がアナタ達にあると思うんですがね」と非常に言いやすくなった。
そんな挙証責任の逆転を生み出したマンガの一コマが以下である。
上記の漫画の一コマに見られる理屈と同様の理屈は、マンガの題名から「テコ朴理論」と呼ばれる事が多い。フェミニストに限ったものでもないのだが、テコ朴理論を学術的偽装を施すか正義騙りをして主張する人間が少なくない。ハッキリ言ってテコ朴理論を持ち出す人間は差別主義者に他ならないのだが、そんな人間に限って「自分達は反差別を訴えているんです」とアピールする。
もちろん、一見したときにはテコ朴理論に見えるが、実際にはその理屈はテコ朴理論とは異なるような理屈である場合も無くはないだろう。しかし、テコ朴理論と明確に異なることが示せない限り、テコ朴理論とは違うとは見做せない。何がどうテコ朴理論と違うのか説明できないなら、その人間はテコ朴理論を信奉する差別主義者に他ならない。
フェミニストの欺瞞を明白に示す「テコ朴理論」という表現が誕生したために、自分達の主張がテコ朴理論ではないと偽装する論者も表れた。
フェミニストが散々これまで行ってきた「それは女性差別発言だ」「それは女性に対するヘイトだ」という主張への対抗言説としての「それは男性差別発言だ」「それは男性に対するヘイトだ」という言説に対して、文脈を無視して、「それは性差別の定義から性差別発言ではない」「それはヘイトスピーチの定義からヘイトではない」と言い出すのだ。
「じゃあ、これまでフェミニストが散々差別だヘイトだと糾弾してきた言説も『それは性差別の定義から女性差別発言ではない・それはヘイトスピーチの定義から女性へのヘイトではない』とキチンと批判するんですか?」という話なのだが、それについては大抵の場合にダンマリである。本稿で批判の対象とする以下の記事もそんな構造を持っている。
■テコ朴理論ではないと偽装するやり方
批判対象記事の理屈は全体を通してみるとテコ朴理論に他ならない。しかし、テコ朴理論が到底正しいといえるシロモノではないことは明白なので、テコ朴理論でないような偽装を行う。では偽装に騙された人は批判対象記事をどのように読んでしまうかを示そう。
まずは、批判対象記事でテコ朴理論でないと偽装する際に用いている理屈を示そう。
厳密に定義された用語は適切に使用しよう・・・(★)
この(★)という理屈自体に反対意見を述べる人間は居ないだろう。「そうだね。キチンとした定義が存在するテクニカルタームなのであれば、その言葉は厳密に使用しなければね」と論陣をどちらで張るかに関わらず(★)に同意するだろう。なぜなら、(★)は議論における言語使用のルールと言ってよいものだからだ。つまり、「カジュアルに専門用語を使用するのは止めろよ」と苦言を呈している態を批判対象記事は装っている。
仮定の話として、この苦言が男女双方の陣営に対称的に呈されているのであれば、当該記事はテコ朴理論を論じているとはならない。
すなわち、男性側陣営が「その発言は男性差別発言である・その発言は男性に対するヘイトスピーチである」と主張していることに対して苦言を呈すると同時に、女性側陣営が「その発言は女性差別発言である・その発言は女性に対するヘイトスピーチである」とこれまで主張していたことに対しても苦言を呈するならば、テコ朴理論ではない。
しかし、マンガで図示された形をやや変形する形で、男性側陣営が「その発言は男性差別発言である・その発言は男性に対するヘイトスピーチである」と主張していることに対して苦言を呈する一方で、女性側陣営が「その発言は女性差別発言である・その発言は女性に対するヘイトスピーチである」と主張していることに対してはダンマリを決め込む。
当該記事が如何に男女を非対称に扱っているか、すなわち、「男性側陣営の不正確な用語使用を批判する一方で、女性側陣営の不正確な用語使用には沈黙を貫いている様子」を確認しよう。
記事で例示されて批判の槍玉に挙げられた主張「その対男性発言は男性差別や男性へのヘイトである」に関して、その主張の発端となった対男性発言は以下の二つである。
「職場の男性の匂いや不摂生してる方特有の体臭が苦手すぎる」
「おじさんの詰め合わせ」
ここで、記事では省略された補足説明を加えておくと、1.の発言はフリーアナウンサーの川口ゆり氏の発言とされているが、むしろ彼女の別の肩書である建設業界でハラスメント研修を担当したハラスメント研修講師の発言であることの方が重要だ。更に言えば、当該記事が彼女の発言を引用した際の範囲からは外れているが、彼女の発言中にある「常に清潔な状態でいたいので1日数回シャワー、汗拭きシート、制汗剤においては一年中使うのだけど、多くの男性がそれくらいであってほしい」といった、通常の場合に一般人には不可能な要求を彼女がしている事も、発言の差別性に関して重要である。また、1.と2.の発言の時期は両発言とも2024年8月である。
上記の1.と2.の発言と同様の内容の「女性差別や女性へのヘイトとされた発言」を挙げて対比してみよう。
1’.「(女性は)商品を見ながらあれがいいとか時間がかかる。男は言われた物をぱぱっと買って帰れるから(男性が)接触を避けて買い物に行くのがいいと思う」
2’.「俺たちから見てても、ほう、このおばさん、やるねえと思って」
1’.の発言はコロナが流行していた2020年4月に大阪市長だった松井一郎氏の発言であり、2’.の発言は上川陽子外相の印象を述べた2024年1月に自民党副総裁だった麻生太郎氏の発言である。ただし、1’.の発言も2'.の発言も女性差別発言としてメディアから総バッシングを受けた発言であり、1.の発言や2.の発言が批判対象記事を含めメディアから擁護される場合も少なくない点が異なっていることには注意が必要である。
さて、1’.の発言は、事実に即しているかはさておき、取り上げられた性別側にはそのような否定的な評価の傾向があると一般的に信じられている事を前提にした内容の発言であり、この構造は1.の発言と同様の構造である。すなわち、1.の発言が「男性は女性と比較して不衛生にしている」と一般的に信じられている事を前提にした発言であり、1'.の発言は「女性は男性と比較して買い物に時間がかかる」と一般的に信じられている事を前提にした発言である。
また2’.の発言は、見て感じたままの感想がセンシティブな発言となったものであり、この構造は2.の発言と同様の構造である。すなわち、発言中の「おばさん」や「おじさん」の語がセンシティブ・ワードとして機能してしまったが故に、性差別発言となった発言である。もちろん、2.の発言においては「詰め合わせ」との言葉遊び的な要素もあるが、本稿での議論においてはその要素は大した違いではないと考えよう。
1.と1’.の発言の対比、および2.と2’.発言の対比から分かることは、性差別の文脈において似た構造を持つ発言に関して、女性側陣営の扱いと同等の扱いを男性側陣営はしようとしていると言えるだろう。日常的な言い回しで表現すれば「アレが性差別発言ならコレもそうなんじゃね?」という考え方に基づいているのだ。したがって、「性差別発言・ヘイト発言」として各陣営が認定する厳格さの水準は同レベルといってよい。
ただし、女性側陣営・男性側陣営双方とも「性差別発言・ヘイト発言」と認定する厳格さの水準に関して、自分側陣営の発言と相手側陣営の発言で同じ水準で認定してはいない。とりわけ「自分はいいが相手はだめだ」という態度は女性側陣営に顕著に見られる。もちろん、男性側陣営も自陣営に甘い傾向はあるのだが、少なくともジェンダー平等を謳う男性側陣営の論者に関しては、自陣営に甘くなることを自戒しようとする意識が見られる。しかし、女性側陣営に巣食っているフェミニストには「女がやる分にはいいが男がやるのはダメだ」とする認識枠組み――テコ朴理論―—がフェミニズム思想から構築されてしまっているようである。
閑話休題、1.や2.の対男性発言が男性差別発言や男性ヘイトとして騒動になったのは、1'.や2’.の対女性発言が女性差別発言や女性ヘイトとして騒動となってきた経緯を前提としている。すなわち、「アレが性差別発言ならコレもそうなんじゃね?」という性差別認識についての対抗言説なのだ。
したがって、川口氏の1.の発言やトラウデン氏の2.の発言に対する「性差別発言・ヘイト」との男性側陣営の認識を問題視するならば、その認識の準拠となった、松井氏の1'.の発言や麻生氏の2'.の発言と同様の発言に対する「性差別発言・ヘイト」との女性側陣営の認識こそを問題視すべきである。
つまるところ、川口氏やトラウデン氏の発言騒動は、しっぺをしてきたからしっぺをやり返したしっぺ返し騒動に過ぎない。やり返した側のしっぺを問題視する前に、発端となった側のしっぺを問題視すべきなのだ。少なくとも、「どちらのしっぺも間違っている」と苦言を呈するべきなのだ。
そのような苦言を呈する行為において道義的に求められる態度を一切無視しているのが、批判対象記事の議論である。当該記事において川口氏やトラウデン氏の発言騒動の引き合いに出すものは、騒動における「性差別発言・ヘイト」の認識についての準拠となった、松井発言や麻生発言のような「性差別発言・ヘイト」として騒動となった対女性発言ではない。川口氏やトラウデン氏の発言騒動における「性差別発言・ヘイト」の認識とは無関係の、アメリカや日本での民族差別を背景とする差別発言やヘイトスピーチを対比のための具体例として持ち出すのだ。
もちろん、アメリカや日本での民族差別を背景とする差別発言やヘイトスピーチを対比例として出すこと自体は間違いではない。
しかし、それは「川口発言やトラウデン発言および松井発言や麻生発言といった発言を、差別発言やヘイトスピーチとする、ジェンダー論における男女双方の陣営に存在するカジュアルな差別発言やヘイトスピーチ認識」との対比例として出される性質のものだ。なぜなら、男性側陣営の差別発言やヘイトスピーチ認識は、女性側陣営のカジュアルな認識に準拠しているものだからだ。
すなわち、「女性側陣営の認識を抜きにした、差別発言やヘイトスピーチについての男性側陣営の認識単体」を批判する文脈において、アメリカや日本での民族差別を背景とする差別発言やヘイトスピーチについての認識を対比させることは適切とは言えない。
実際に、記事におけるテコ朴理論ぶりを記事の結語にあたる箇所から確認しよう。
上記の引用箇所における理屈の暗黙のテコ朴理論の構造が理解できるだろうか。引用箇所の主張に正当性を与えるように偽装された理屈は先に挙げた、
厳密に定義された用語は適切に使用しよう・・・(★)
である。もしも偽装でないとするならば、引用箇所における男性の語を女性に置き換えて、同様に女性を非難することもできる。実際に「男→女」の置換を行ってみよう。
堀田氏の主張の論拠が実際に(★)の理屈であった場合、「男→女」の置換を行った上記の主張もまた同時に行っていることとなる。しかし、後段にある主張:
『女はクズだなどと言われて自分は深く傷ついたからだ』と言うとすれば、私は、その人と話すのは時間の無駄
他者の境遇への想像力が著しく欠けており、自分または自集団の『被害』を過大評価している、いわば自己批評性を欠いている
まともなコミュニケーションが期待できない
について、堀田氏が明示的に表明したとき、女性差別主義者としてそれこそオープンレター騒動を彷彿させるような、アカデミア・メディアからの総攻撃を受けるだろう。
もちろん、婉曲的かつ迂回的な論理展開で「何かっちゃあ、女性差別女性差別って煩いねん。おまえらが騒いでることは差別とちゃうわ!フェミニストども黙れや」と堀田氏が主張しようとしているのだ、と解釈することが絶対に不可能であるとは言えない。しかし、彼の議論の論調から判断して、そのような婉曲的かつ迂回的な論理展開でフェミニストを罵倒していると解釈するのは、曲解に過ぎると断言してもよい。
つまり、批判対象記事の結語で述べられた堀田氏の主張は、男女で互換性が無いといってよい。そのことはとりもなおさず、「厳密に定義された用語は適切に使用しよう」という誰もが納得のいく理屈から、川口氏やトラウデン氏の騒動を彼が批判しているわけではないことを示している。したがって、「厳密に定義された用語は適切に使用しよう」との理屈は、如何にもフェアな理屈を用いているかのように偽装するために持ち出された、ご都合主義的に使用されている理屈なのだ。
この堀田氏の議論における暗黙の男女の互換性の無さが、彼の議論がテコ朴理論に基づいていることを明らかにしている。