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フェミニストが軽視する「共働きをやめる女性特権」

 今回は「共働き女性が『専業主婦になりたい』と言い出すこと」のジェンダー問題について書いていく。この問題について書こうと思ったきっかけはyahoo!ニュースにも取り上げられた以下の記事である。

 yahooニュースではこの記事に120コメントついていたが、「共働き夫婦の妻の女性が『専業主婦になりたい』と言い出すことのジェンダー問題」について指摘したコメントは3コメントである(2023/3/18時点)。しかも、その3コメントにはbad評価が多いという始末。まぁ、事後的にみると夫はかなり問題がある人物であることが判明するので、ある意味では当然ではあるのだが、そもそもの発端となった出来事「妻が愚痴をこぼした」まさにその時点でみると妻のほうに問題がある。

 この妻が零した愚痴とは「残業が多くてつらい」「仕事辞めて専業主婦になろうかな」である。この妻の愚痴は、当該夫婦のスタイルからして非常に問題がある愚痴なのだ。当該夫婦のスタイルから言えば、精神疾患を患うレベルではない状況においては「残業が多くてつらいから(今の)仕事を辞めたい」までが許容ラインだろう(補論参照)。

 もちろん、妻が愚痴をこぼした直後の夫の行動は問題外である。また子供ができた後の夫の言葉やその言葉に表れる夫の考えは妥当性に欠ける。したがって、妻の愚痴を受けて夫がアクションを取った時点以降の話は議論の余地なく「夫が悪い」ため本稿では問題にしない。あくまでも、妻が愚痴をこぼした時点までの構造で議論をしていく。



愚痴の構造から分かる夫婦の不平等

 この「共働きをやめる妻の女性特権」の問題を考察するにあたって、愚痴の構造から分かる当該夫婦の不平等の問題を見ていく。問題を見ていくに先立って、現代の社会において夫婦の問題やジェンダー問題以外においても成立している一般的な原則を確認することから始める。この一般的な原則から、共働き夫婦において「定年まで働き続けなければならない夫の義務と、自分が好きなときに仕事を辞めてしまえる妻の自由」の差異の問題が男性差別的な重大なジェンダー問題であることを確認する。そして、「専業主婦(主夫)オプション=自分が好きなときに仕事を辞めて専業主婦(主夫)になってしまえる権利」の観点から当該夫婦の愚痴の構造を見ていくことで、当該夫婦の不平等な関係を明らかにしていく。


■自由に解約できる契約と中途解約できない契約の違い

 我々の社会における契約に関して時間軸の要素のある契約がある。すなわち継続性の有無が契約の構成要素となっている契約がある。継続のコミットメントの有無と言い換えても良い。

 身近な例では、かつて存在したスマホの2年契約を思い起こせばよい。あるいは銀行の定期預金でもよい(※ただし、今の日本は日銀の低金利政策のせいで資金運用面であまり旨味がないので利用する人が少ないがもしれない)。生命保険や自動車保険などでも長期契約はある。家を建てるためにローンを組んだ人ならば変動金利にするか固定金利にするかで悩んだ人もいるだろう。また、身の回りの話ではなく有名人の話として、プロ野球選手の複数年契約の話や契約期間途中での移籍の際の移籍料の話を思い起こしてもよい。

 これらの契約において「ある一定期間の継続性」に対して価値があるとされ、その獲得と破棄には対価が支払われる。

 このことは具体的に定期預金で考えると理解し易いだろう。定期預金は満期まで引き出せず、中途解約には解約料が必要だ。しかし、何時でも自由に引き出せる普通預金に比べて利息が高い。これは銀行側からみれば定期預金は、継続性の約束の無い普通預金よりも高い利息を対価として支払って満期までの継続性を獲得しているのであり、満期前の引出に対しては解約料を「継続するという契約に対する違約金」として徴収しているのである。

 分かり易いものとして銀行の定期預金で詳しくみたが、これは他に挙げたスマホの2年契約・保険・家のローン・プロ野球選手の契約の例などでも同様の構造をすぐに思い浮かべることが出来よう。この構造は時間軸のある契約で継続性の有無がその構成要素となっている契約ならば同様なのだ。

 つまり、時間軸のある契約において、継続性に拘束されているのか、継続性から自由であるのかは、対価の有無として現れるほどの重要な差異なのだ。

 時間軸のある契約における継続性に関する自由の有無の観点は、「定年まで働き続けなければならない夫の義務と、自分が好きなときに仕事を辞めてしまえる妻の自由」の差異の問題を考えるとき、必須の観点になる。そしてそれは、共働き夫婦の問題に関する「ある時点におけるお互いの家計負担金額」にも引けを取らない観点である。

 しかし、この観点による男性側の負担の問題は、ジェンダー問題の議論においてフェミニスト(今回取り上げた記事の弁護士を含む)がまったく無視する、フェミニストのアンフェアさが明らかになる異常な問題でもあるのだ。


■専業主婦オプションの観点からみる夫婦の不平等

 当該記事における妻の愚痴を確認しよう。因みにこの時点では夫婦に子供は居らず、妻は妊娠もしていない。 

 ある日の夜、久しぶりに夫とゆっくり過ごしていると、「残業が多くてつらい」「仕事辞めて専業主婦になろうかな」と、F代さんの口からつい愚痴がこぼれました。

「君が欲しくて産んだんだから」 子供にかかる費用はすべて妻持ち!
「対等な収入を得る妻」を許せない“一見”男女平等夫の実態【弁護士が解説】
堀井 亜生 2023.3.10 幻冬舎GOLDONLINE (強調引用者)

 この妻の愚痴が明らかにする問題の核心は、夫婦双方が対等に専業主婦(主夫)になれる自由を持っているかどうかである。このとき妻の愚痴の構造を考察するにあたって、夫もまた「仕事を辞めて専業主夫になろうかな」という愚痴を妻と同様に零し得る構造を、妻の愚痴が持っているかどうかが問題になる。つまり、当該夫婦において

専業主婦あるいは専業主夫になるオプションが妻と夫の双方にあったのか?

という点で男女平等・夫婦対等だったのかを、愚痴の構造を調べていくことで確かめなければならない。

 さて、結論を先に述べよう。妻が零した「専業主婦になろうかな」という愚痴の構造を詳しく検討すれば、当該夫婦がそんな男女平等・夫婦対等の関係に無いことが判明する。

 もしも妻と夫の双方がこの専業主婦(主夫)オプションを保有しているならば、その行使には相手の同意が必要だ。なぜなら、夫婦は生計費を獲得しなければならないのだから、妻と夫の双方ともが専業主婦・専業主夫になることはできず、どちらか一方しかその立場にはなれない。つまり、自分が専業主婦(主夫)オプションを行使するためには、相手に専業主夫(主婦)オプションの権利を放棄してもらわねばならない。相手が保有している権利は相手の同意なしには基本的に奪うことはできないのだから、相手が持っている権利は相手の同意によって放棄してもらうしかないのだ。この相手の権利放棄の同意を得てはじめて専業主婦オプションは行使できる。

 当該夫婦のあり得るかもしれない将来像において妻が大黒柱となり夫が専業主夫になる可能性を想定していないからこそ、仕事がつらいことへの愚痴として「専業主婦になろうかな」などという、専業主夫オプション放棄についての夫の同意の必要性を一切感じさせない表現の愚痴を妻は零してしまうのだ。すなわち、妻しか専業主婦オプションを保有していないと妻が考えるからこそ、専業主婦になることを(愚痴の上とはいえ)一方的に宣言できるのだ。

 夫からの同意を得ることなく「専業主婦になろうかな」と言ってしまえる妻の有り様から、(当該夫婦の共通認識ではなく妻一人の認識において)夫は専業主夫オプションを保有しておらず妻のみが専業主婦オプションを保有しているという、女性に特権性がある男女不平等なジェンダー認識が妻にはあると分かる。そして、このジェンダー認識を妻が当然視していることから、当該夫婦は男女平等ではなく、夫婦対等ではない。

 専業主婦(主夫)オプションの観点からは、当該夫婦がもしも男女平等で夫婦対等であるならば、相手方の同意を得ることなしに自分の意思だけで「専業主婦になろうかな」とは言えないのだ。対偶をとれば明白なように、夫の同意を得ることなしに一方的に「専業主婦になろうかな」と妻が実際に言ってしまっている以上、当該夫婦は男女平等・夫婦対等ではないのだ。


負担の押しつけからみる夫婦の不平等

■同期入社の当該共働き夫婦の家計負担・家事分担

 まず、この夫婦のなれそめが紹介されている部分を引用して、どのような夫婦であるか確認しよう。

コンサルティング会社に勤務して、順調なキャリア街道を進むF代さん(33歳)。忙しさの合間を縫って同期入社の夫と交際を始めると、1年ほどで結婚の話になりました。

同上

 さて、以上から分かるように当該夫婦は同期入社の夫婦である。つまり、お互いに似たような強度の仕事をしている夫婦である。もちろん、配属部署が違えば繁忙期・閑散期の時期のズレはあるであろうし、ある時点での各部署で参画しているプロジェクトの違いによってその時点での仕事の強度の違いが出ることもあるだろう。だが、給与体系そのものが違うような人事制度でないならば、その会社で定年まで勤めあげるとの想定をおいたときの全仕事の合計の強度の期待値は妻と夫で大差が生じない(ただし、産休・育休での差異の影響は除く)。

 このことから家計負担の強度は妻と夫で(将来的なものも含めて)同程度で有ることが分かる。ここで注意を促しておくが、ここでの論点は家計収入の大小の話ではなく(仕事の)シンドサの負担の論点である。

 では、当該夫婦の家計負担だけでなく家事負担がどうなっているかに関して、記事で当該夫婦の家事負担について触れている部分を引用して確認しておこう。

 結婚しても仕事を続けたいと話すと、「もちろん構わないよ。家事も分担しよう」と快く受け入れてくれたと言います。

同上

 以上から分かるように家事負担についても妻と夫は同等に分担している。

 つまり、家計負担のシンドサについても家事負担のシンドサについても当該夫婦は50:50であるということだ。

 もちろん、ある一時点をとれば50:50ではないことはあり得る。先に述べた通り家計負担のシンドサに関しては、部署毎で繁忙・閑散が一致するとは限らないため同期入社とはいえ配属先が違えばある時点においてどちらかがよりシンドイ状態である、ということはあり得る。だが、長い目でみたトータルのシンドサでいえば、そのシンドサは平準化される。もっとも、激務の出世コースに乗る乗らないで変わることもあるだろうが、将来の期待値としては同等と言っていいだろう。

 さらにこの引用箇所から分かることとして、この「同じ種類の負担を同じように夫婦二人で負担する」という当該夫婦のスタイルは、妻の側から申し出て夫が同意したスタイルなのだ。決して夫が強要したスタイルなのではない。この点はさして重要ではないのだが、当該夫婦のスタイルが妻の希望によるものであり夫の希望によるものでないことを確認するのは、「ホントは妻は別の夫婦のスタイルが良かったのだけれども、夫の希望に合わせたのだ」という言い訳を許さないためである。


■夫に対して一方的に負担を押し付ける妻

 当該夫婦に関して同期入社している以上、妻は夫の仕事について、その将来的な仕事の辛さについても十分に予想できる立場にいる。そのような立場であるにも拘らず、同じ会社で働いている夫に対して「残業が多くてつらい。仕事を辞めて専業主婦になろうかな」という愚痴を零すのは、明らかに夫に負担を押し付けていると言える。この愚痴は妻は夫に

「ワタシは辛いから辞めるけどアナタは辛くても頑張ってね!」

と言っているのと同様だ。妻である自分は辛いことから逃げ出す権利があるが、夫は辛いことでも逃げ出さずに頑張れという訳だ。男性である夫に対してマッチョイズムを勝手に期待し、男女平等・夫婦対等のスタイルはどこへやら、自分だけが一方的にラクする行動を取ろうとしている。

 たしかに妻は専業主婦になろうというのだから夫が負担していた家事を妻が巻き取り、その分だけ家事負担についてみれば夫の負担は軽減されるだろう。だが、いままで背負っていた家計負担よりも巻き取ろうとする家事負担の方が楽だから「仕事を辞めて専業主婦になろうかな」などと妻は言うのだ。つまり、家計負担は家事負担より重いのだ。

 先述したように、当該夫婦は家計負担と家事負担を50:50で負担していた。夫婦は同じものを同じように負担し合っていたのである。そして同じ会社に同期入社しているのだから、妻が負担している辛いと感じる家計所得獲得のための仕事は夫も同様に負担しており、そして夫の家計負担の辛さもまた妻は十分に予想し得るのだ。家計負担を妻が担わなくなれば、妻が放棄した家計負担の分も併せてこれまで以上にシャカリキになって(妻が辛いと感じた)家計負担を夫は担っていかなければならない(註)。それは実に不平等な夫婦関係である。

 妻の「仕事を辞めて専業主婦になろうかな」との愚痴は、夫の同意を得ずに妻の一存で、(おそらくは負担の大きくなる)家計責任を夫に負担させる、まったく対等とはいえない夫婦関係にあることを示している。

 また、夫婦のスタイルについて「家計負担と家事負担を50:50でやっていくスタイル」で当該夫婦は合意していたのだから、「仕事を辞めて専業主婦になろうかな」という妻の愚痴は、夫婦のスタイルに関する合意を妻が一方的に破棄していることを意味する。この夫婦間の合意の一方的破棄の観点でも当該夫婦は不平等である。

 当該夫婦に関してだけでなく「仕事を続けるか専業主婦になるかどちらか自分が楽に感じる方を選べる選択肢」が妻にだけ与えられている夫婦は、その点に関しては妻の方が優位に立っている関係性である。これは夫婦関係に存在する女性特権の一つである。

 本稿で取り上げた夫婦は同じ会社に同期に入社した夫婦であるので、共働き夫婦における妻と夫の家計負担を非常に簡単に分かり易く比較することができたが、これが別々の会社に別々の時期に入社した夫婦であっても、ほぼ同様の構造を持っている。つまり、この問題は先に述べた条件を満たす共働き夫婦一般に当てはまる問題なのである。

 ジェンダー平等と騒いで男性特権を問題視するフェミニスト(今回取り上げた記事の弁護士を含む)は、この女性特権を如何にも無いものであるかのように、ジェンダー問題の議論において無視するのだ。


まとめ

 本稿では、共働き夫婦において女性だけが専業主婦に転身できることの特権性について論じた。そのときの観点とその観点から判明するジェンダー問題は以下である。

 第1の観点は、ジェンダー論に限らない時間軸のある契約における継続のコミットメントの価値の観点である。共働き夫婦の妻と夫の家計負担の議論に関して、ある時点での収入金額の多寡だけで議論が為されることがある。すなわち、家計負担の議論においては、主に男性側が負担している、家計負担の継続のコミットメントの価値が黙殺されていることが多い。日本だけでなく世界中の、そして社会の様々な場所で、大抵はコミットメント引受には対価が伴い、そしてコミットメント破棄には違約金が課される程に重視されている「継続のコミットメント」に関して、夫婦の家計負担のシーンにおいては無視されるような異常さが、共働き夫婦のジェンダー問題の議論において存在している。そして、それはフェミニストにとって不都合な女性特権の問題なのだ。

 第2の観点は、家計負担継続のコミットメントの逆側の概念ともいえる、専業主婦(主夫)オプションの構造の観点である。家計負担を途中で放棄して代わりに家事負担を負うオプション(≒権利)が、専業主婦(主夫)オプションである。このオプションの構造は、オプションを夫婦双方が保有している場合とどちらか一方だけが保有している場合とでは違いが出てくる。また、当然ながら、夫婦が対等の関係にあるといえるのは夫婦双方がこのオプションを持っている場合であり、一方のみが保有している場合は夫婦は対等な関係に無い。記事の共働き夫婦の関係を考察する際に上記を踏まえると、共働き夫婦の妻の愚痴の構造から、当該夫婦は対等な関係に無いことが判明する。当該夫婦を一例とする、妻だけが保有する専業主婦オプションの問題は、共働き夫婦のジェンダー問題として、第1の観点のコインの裏側のフェミニストにとって不都合な女性特権の問題なのである。

 第3の観点は、言ってみれば第2の観点である専業主婦オプションの行使の動機の観点である。すなわち、「仕事を続けるか専業主婦になるかどちらか自分が楽に感じる方を選べる選択肢」が妻にだけ与えられている問題の観点である。自分がやりたくなければ夫に家計負担を押し付けることができる妻の特権の観点と言い換えてもよい。共働き夫婦において妻にのみ専業主婦オプションがあるならば、当然ながら妻は家計負担と家事負担のいずれか楽な方をチョイスできる。一方で、妻が楽ではないと感じた負担の側を夫は背負わねばならない。もちろん、家計負担と家事負担に関する個々人の適性には違いがあるので、妻が苦痛に感じた家計負担が夫にとっては苦痛に感じないケースもあるだろう。しかし、妻と同様に夫も家計負担に苦痛を感じていたとしても、妻が家計負担を放棄したならば夫はその分の家計負担を背負わねばならない。このことは明らかに男女不平等であり、また夫婦対等な関係にあるとは言えない。この妻である女性には楽な負担をチョイスする権利がある一方で、夫である男性にはそんな権利はないどころか妻がチョイスしなかった側を負担せざるをえないという不均衡は、夫婦関係における明確な女性特権である。

 以上の3つの観点からの「共働き夫婦において妻だけが専業主婦に転身できる」という女性特権を本文で論じた。

 また、この女性特権の問題を論じるにあたって、本稿で取り上げた記事の夫婦の特質と当該夫婦を取り上げる意義を再確認しておこう。

 本稿で取り上げた夫婦は、この女性特権の問題を論じるにあたって、当該問題をクリアに示せる条件を満たしていた。すなわち、「同じ会社に同期で入社している共働き夫婦=家計負担が分かり易く均等」「子供は居らずまた妻が妊娠もしていない、家事を分担している夫婦=家事負担が分かり易く均等」「妻がいつでも自分の意思だけで専業主婦になれるとの認識を背景にした愚痴=妻が一方的に家計負担から免れるオプションを保有しており、夫は家計負担から免れ得ない義務を定年まで負っているという不平等な夫婦関係」という当該夫婦の有り様が、夫婦のジェンダー問題の議論において横道に逸らしがちな余計な問題の発生を排除している。

 つまり、当該夫婦の不平等性は妻だけが専業主婦に転身できる女性特権に起因するものだけであるので、愚痴を零した時点での当該夫婦の不平等性を考察すれば、スポットを当てたい「妻だけが専業主婦に転身できる」という女性特権の特権性の内容を、当該夫婦の問題を超えて一般的に当てはまる問題として明らかにできるのだ。



 もちろん、家計負担だけを担うことと家計負担と家事負担を夫婦二人で担うことの、辛さの厳密な大小関係については明らかでない。だが、家計負担と家事負担を夫婦二人で担うことと家事負担だけを担うことの、辛さの大小関係は確実に家事負担だけの方が小さい。



補論:「専業主婦になろうかな」と「(今の)仕事を辞めたい」の愚痴の構造の違い~生計費獲得の義務を放棄するか否か~

 社会人になってシンドイ体験を色々すると「仕事を辞めたい!」という愚痴が口から飛び出すことはある。「宝くじ1等賞が当たったら仕事辞めるのに」と夢想する経験をした人は少なからぬ数がいるだろう。

 では、「仕事を辞めたい」という愚痴を零したとき、専業主婦あるいは専業主夫になる将来像以外で、長期的に仕事を辞めている状態を継続できる将来像を描けるかといえば、基本的には無理である。なぜなら、生計費を稼ぐことなく生活していくことは不可能だからだ。生計費の当てがないのに長期的に仕事を辞めている状態を継続できないため、今の仕事を辞めたとしてもいずれは別の仕事をしなければならない。

 専業主婦あるいは専業主夫になる将来像を描けないならば、たとえ「仕事を辞めたい」との希望があったとしても生計費を稼ぐ必要性から自由にはなれない。「宝くじ1等賞が当たったら仕事辞めるのに」との夢想でさえ、宝くじの1等賞当選によって生計費を稼ぎ得たからからこそ、仕事を辞められるのだ。

 つまり、専業主婦あるいは専業主夫になる将来像以外では、資産家・ヒモ・生活保護などの例外を除いて、自分で生計費を獲得する必要から逃れられない。したがって「仕事を辞めたい」という愚痴は、専業主婦や専業主夫になることを希望すること以外では、長期的視点からみると「別の仕事や環境で働きたい」という希望と大して変わらないのだ。

 社会人であれば一度は零したことがある人が多数である「仕事を辞めたい」との愚痴は、明示的・黙示的な「専業主婦(主夫)になりたい」という希望が含まれていなければ、生計費を獲得する義務を(長期的には)放棄していない

 一方で、「専業主婦(主夫)になりたい」という愚痴は、別種の義務を引き受けるにせよ、生計費を獲得する義務を放棄しているのだ。



本稿で取り上げた女性特権に気づいた女性の体験談(2023/6/29追加)

 本稿投稿後、私のnoteトップページにピックアップされたnote記事で、本稿で取り上げたトピックに関する秀逸な記事があったので紹介する。

 上記記事の筆者のしばたともこ@キャリアコンサルタント氏(以下、しばた氏と略す)が誠実であることは以下の体験談の語りで分かる。

2人目の育休明けた出社初日の朝です。
その時私は産休中に夫を事故で亡くし、なんだかんだの激動の中にいました。育休を5か月ほど取っていてその間も夫関連の後始末に忙殺されていたので、あんまり休んだ感じはありませんでしたから、もう復職してもいいよね、って思いましたよね。で、3月から復職だったような気がします。この辺の記憶はあいまい。

久しぶりに出社した職場に緊張もありつつ、2度目なので「あんまり気分は変わらないんだろう」と思っていたのですが、ふと、職場で自分より若い女性社員たちを眺めたとき、わたしの脳内にはこんな言葉が浮かびました。

「わたしはあの子たちのようにはもう、辞める自由がないんだ」

その次の瞬間、自分でビックリしました。
辞める自由ってなによ?それ前提が「稼ぐのは夫の仕事」って思ってるってこと?わたしの仕事は自由なの?趣味なの?わたし(妻)だけは好きに働き好きに辞めていいって思ってるってこと?夫がいなくなったから(しょうがなく)義務的に働く責任を負うってこと?なにそれ?男女問わず辞める自由はあるし、子どもと自分の生活に責任を負うのは夫だけの仕事なんて、そんなことわたしは思ってたの?と。

衝撃でした。
なんて痛いやつなんだ、わたしは、と思いました。
どの口で「働く女性を応援するメディアの編集者」とか名乗ってるんだ。「コレカラの働き方、男女雇用機会均等法の時代に、女性のやりがいを、男性の家庭参画を」とか言ってるんだ。女性だけ「働きたいから働く」で男性は「当然働くべき」とか思ってんじゃないか…!と。

昭和生まれのわたしが自分のジェンダーバイアスに気づいた平成のある日のこと
しばたともこ@キャリアコンサルタント 2021/6/24 note

 しばた氏の記事を一読して思ったことは、氏のような女性ジェンダー論者が主流になれば、随分と建設的議論が交わされるだろうになぁ、というものであった。


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