「小島慶子が考える“日本の結婚”『失敗する自由、自分で決められる自由を全ての女性が手にできますように』」への批判
はじめに
with classで発表された2021年12月29日の小島慶子氏のコラムに関する批判を今回は行いたい。ただし、ほぼ1年前(2023/2/4時点)のコラムなので時機を失しているとは言える。とはいえ、彼女はまだまだフェミニズム関連でメディアが取り上げる論客なので、過去のコラムであっても批判する意義はあるだろう。
さて、批判対象の小島氏のコラムは相変わらずの男性悪玉論に基づく議論が展開されている。それにもかかわらず、いかにも男女平等の姿勢を小島氏がとっているかのように偽装し、その偽装された中立的姿勢の裏側で女性差別を捏造する。
これから、その偽装や捏造のやり口を批判していくにあたって、まず小島氏がミサンドリストの正体を隠すために男女平等の理念を有するかの如く偽装するやり方を見る。次に、その偽装を悪用して女性差別を小島氏が捏造するかを見ていく。
第1に、主張を具体化するために紹介した事例は、道理で考えるとどう判断しても女性が悪いのだが、コラムの男性悪玉論の雰囲気によってあたかも男性が悪い事例のように紹介され、女性差別の具体例として捏造されていく様子を見る。そして、事例の紹介の直後に旧憲法を解釈枠組みとして暗示的に配置することで、旧憲法下の男女不平等な権利の在り方が現在も存続しているかのような文脈を作り出し、挙げた事例が女性差別の一つの表れであるかのように偽装する様子を見る。
第2に、愚行権への不寛容の問題を、女性にのみ圧し掛かる女性差別問題であるかのように取り上げ、性差別でないものを性差別としてすり替える様子をみる。
第3に、過去に存在した女性差別問題と現在の女性差別問題を混同させ、当該コラムで示すようなこれから結婚する日本女性が、いまでは存在しない女性差別の構造に直面しているかのような表現を行い、過去の女性差別を現在の女性差別としてすり替える様子をみる。
第4に、男女が直面するジェンダー問題に関して、男女双方の問題であるにも関わらず、女性にのみ圧し掛かる女性差別問題であるかのように取り上げ、日本社会における女性の立場の不遇さを捏造している様子をみる。
第5に、性差別とは無関係の貧困問題を女性差別としてでっち上げる様子をみる。でっち上げている問題は、単身高齢者の貧困問題、単身者と片親の貧困問題、貧困に陥る可能性の問題である。
第6に、「表題にある『失敗する自由』の水準を高めたならば、失敗によって不幸になるケースも増える」という当たり前の話をキチンと説明することで、小島氏の「失敗する自由を増やしたときに不幸になる女性が増えるのは、日本社会に存在する女性差別構造によって不幸になった女性が増えたのだ」との主張が女性差別の捏造であることを示す。
以上のことをこれから見ていくことにしよう。
偽装目的で小島氏が挙げる達成された男女平等
小島氏は「私は男女平等主義者だけど、社会が男女平等ではないの!」とでも言いたげに、日本社会では既に達成されている男女平等をこれ見よがしに挙げる。それをいくつか見ていこう。
この引用の内容は、「こういう事態って望ましくないよね」という社会意識が日本において醸成されていることを前提としている。そして、この引用文その「こういう事態って望ましくないよね」という意識を小島氏が共有していることを示そうとする文だ。「いかにも性差別に反対する中立的な姿勢」を小島氏がとっているかのように感じるがそれは偽装だ。
それというのも、引用文の口ぶりからは「付き合っているときには気付かなかった、結婚する二人が困惑するアルアル話である、家族や親戚の口出し」を語るかのようだが、ところがどっこい、そんな結婚アルアル事例を男性悪玉論で解釈して無理矢理に女性差別の話に持っていくからだ。
また小島氏の別の偽装の箇所を見ていこう。
法の下での男女平等を示した憲法を取り上げることで、あたかも小島氏自身も男女平等の理念を持っているかのように偽装する。
高校生程度の知識があれば、上記のような憲法の話は既に社会科で習った範囲のことであり、わざわざ小島氏から教えてもらうまでもない常識だ。コラム全文を読んでみても、そんな常識をわざわざ再確認して議論を進めなければならないような論理展開をしていない。議論に必須でもないにも関わらず、男女平等の理念を示した憲法に触れるのは、(ミサンドリストである)小島氏が男女平等の理念を共有していると偽装する目的であるとしか考えられない。
ではこれから、前者と後者の偽装を如何に悪用して、男性悪玉論を展開し、小島氏が女性差別を捏造するかを見ていこう。
事例を男性悪玉論で解釈して女性差別に偽装する
■意見が対立した結婚する二人の事例の分析
表題の「自分で決められる自由を全ての女性が手に」について
という事例として、挙げてきたのが以下。
当初は男女共に「自分で決められる自由」を行使し合意し「結婚予算」を決めたはずである。一方的にそれを侵害したのは新婦(女性)側だ。引用例において「私とあなた」の枠組みをぶち壊したのは、女性であるのに、なぜか男性が悪者になっている。
仮に、合意した結婚予算枠の範囲内で以下の習慣がバッティングしたとしても、新郎側の拒否が直ちに「女性側の自由を侵害した」と言えない。
新婦側親族の習慣:
女性の親戚の貸衣装代や着付け代は新婚夫婦の結婚予算の中から支出
新郎側親族の習慣:
親戚の貸衣装代や着付け代はそれぞれが自弁
「新郎側が知らない新郎側には負担が生じるだけの、新婦側だけに金銭的メリットがある習慣」を「新婦側が言い出した場合」なのだから、新郎側の主張は「自分側に負担だけを押し付け利益だけを享受する相手側の話を拒否する」というものだ。女性の自由の侵害の話か疑問だ。
「君達が知らなかろうと、私達の習慣だと、君達はカネを私達に支払うべきだから、支払え!」との主張が成立するには、その習慣がそんな習慣を知らない他者にとっても十分に道理に合っている必要がある。だが、例にあがった習慣にはそんな道理はない。
ただし、「女性の親戚の貸衣装代や着付け代」の文言について、以下の二通りある。
解釈1:
新婦側の親戚の貸衣装代や着付け代
解釈2:
新郎側新婦側問わず、性別が女性である親戚の、貸衣装代や着付け代
先の分析は、解釈1のものだが、解釈2もあり得る。
解釈2よると、「参加女性が着飾っていることは、結婚式の舞台装飾の一種」なので、結婚式の主催者として新婚夫婦が費用負担するという習慣(フェミニストが激怒するような"女性は宴会の華"という考えに基づく習慣)となる。
つまり、「着飾った女性」は「結婚式を盛り上げるシャンパンタワー」と同種のモノなんだから主催者が出すべき、という理屈になる。
ただし、シャンパンタワー演出で予算超過するなら削減対象であるのと同様に、予算超過しているならば、主催者負担の女性衣装演出は削減する話だ。もしくは、料理の質を落とすなりして予算を捻出する話となる。
つまり、この事例を女性差別の事例とするには、男性悪玉論に基づかなければどうやっても不可能である。
■男性悪玉論に誘導した文脈による女性差別の捏造
主張に具体性を持たせようとして、意見が対立した結婚する二人の事例を小島氏は出す。具体例を出して説明すること自体は一般に用いられる説明様式なので別に構わない。
だが、先ほど分析したように女性差別ではない当該事例を女性差別の事例として小島氏は用いる。女性差別ではない事例であるにも関わらず女性差別の事例であるように示すことがどうやって可能なのかと言えば、当該事例の解釈に関し男性悪玉論の文脈に誘導することで可能にしている。
もしも、当該事例が「小島慶子が考える“日本の結婚”『失敗する自由、自分で決められる自由を全ての女性が手にできますように』」との表題のコラムで取り上げられた事例でなければ、更には、当該事例が登場してから別の2文を挟んだ後の旧憲法の枠組みの解説がなければ、日本社会に女性差別が存在することを示す事例にはならなかっただろう。単に、「付き合っている時は二人の考えで全てを決められたのに、結婚となると、急に家族や親戚が口を出してくることも」という結婚アルアルの一例になっただけだ。
だが、結婚アルアル話の事例の「『私とあなた』じゃなくて『うちとそっち』」の構造と、旧憲法の「結婚は個人と個人ではなく、イエとイエのもの」の構造の類似を利用して、旧憲法に存在した女性差別を、性差別構造ではない「『私とあなた』じゃなくて『うちとそっち』」の問題に密輸入して、女性差別問題に偽装してしまうのだ。
当該事例から2文挟んで後ろにある、旧憲法の結婚に関する規定の小島氏による解説の箇所を引用し、それがどのようにして現代日本の女性差別の存在を捏造するか、その様子をみていこう。
上記の旧憲法の枠組みをまとめると以下だ。
結婚は個人と個人ではなく、イエとイエのもの
女性は事実上、男性の所有物で、結婚によって父親のものから夫のもの
女性が自分自身の人生を決定する権利はなかった
この3点の枠組みを示して「意見が対立した結婚する二人の事例」を挙げたならば、旧憲法の枠組みが「意見が対立した結婚する二人の事例」の解釈枠組みとなる。
上記の「『私とあなた』じゃなくて『うちとそっち』」という事例の構造と、「結婚は個人と個人ではなく、イエとイエのもの」という旧憲法の構造の類似点に着目させ、この事例の問題は旧憲法における問題と同様のものと錯覚させる。それによって、
上記の事例の男性の考えを、旧憲法の枠組み「女性は事実上、男性の所有物で、結婚によって父親のものから夫のもの」の考えと同様と印象付ける。
そのことによって、旧憲法の枠組みが日本に実質的に残存していると誤認させる。しかる後に、旧憲法の枠組みにおける「女性が自分自身の人生を決定する権利はなかった」が現在も実質的に残存しているとして女性差別を捏造するのだ。
愚行権への不寛容を性差別にすり替える
引用文の前には旧憲法下のイエ制度での結婚における女性の意志の無視の話が出てくる。現時点においてそれがどの程度影響があるかどうかはさておき、それ自体は日本社会の歴史であるし、その時代において女性の権利が男性よりも制限されていたのは事実だ。したがって、引用文における「女性の意思が尊重されることになったのですね」の一文も間違ったことを言っている訳ではない。だが、問題は旧憲法下のイエ制度の話と「女性の意思が尊重されることになったのですね」との一文よってつくり出される文脈だ。現代日本において男女が直面している問題を提示する直前に「女性の意思が尊重されることになったのですね」の一文を置き、あたかもそれが女性差別の問題であるかのような文脈を作り出すのだ。この箇所での現代日本において男女が直面している問題を抜粋しよう。
当然ながら、上記の内容で口出しされるのは結婚予定の女性に限った話ではない。男女を問わず上記の内容で口出しされる経験を持つ人間はいる。つまり、上記は女性特有の話ではなく性差別とは全く別の問題である。これは日本社会における「結婚は結婚する二人だけの問題じゃない」とする社会意識の問題なのだ。
「結婚は愛し合う二人の合意に基づいてのみ成立する」との現行憲法下の権利によって、たとえ結婚相手が反社会的組織の構成員であっても結婚は二人の合意だけで成立する。つまり、結婚は結婚する二人だけの問題じゃないとの社会意識は法制度上は何の強制力も持たない。
一方で、現在の日本においても「結婚は結婚する二人だけの問題じゃない」と道義的に言える場合がある。その場合とは、その結婚によって周囲が何らかの受忍限度を超える損害を受ける場合である。例に挙げた反社会的組織の構成員と結婚する場合などはこれに当てはまるといってよい。もちろん、先に触れたよう、法制度としては二人の合意のみで結婚は成立するので、周囲の反対など押し切って反社会的組織の構成員と結婚はできる。ただ、明らかに周囲にとってマイナスな相手との結婚だから反対されて、それでもなお結婚したなら、周りからの祝福などは期待すべきではないし、周囲から縁を切られたとしても文句をつける話でもない。
とはいえ、並外れた迷惑を周囲に掛ける結婚でなければ、どれほど結婚した当人が結婚によって不幸になろうが、それは愚行権の範囲の話である(※1)。したがって、周囲の人間から相手の(致命的ではない)条件で結婚を反対される男女は、ある意味で不当な経験をしていると言える。
結婚への周囲の口出し問題は、憲法上の結婚の自由の権利について法的に周囲がどうこうすることは不可能なので、(観念的な権利である)愚行権に関する不寛容の問題といえる。
だが、これをあたかも日本社会における女性差別の問題であるかのように小島氏はコラムの文脈で偽装するのだ。
過去と現在を混同させ現在の女性差別を捏造する
当該コラムのテーマとの関係でみて周辺的な問題を扱う箇所も見ていこう。
上記にはいくつものトピックがあるが、まずは「現在」の話と「過去」の話をゴチャゴチャに混ぜて現在の女性差別を捏造している様子をまず見ていこう。まず、上記を過去と現在に分類してみる。
【過去】
30年ほど前まで、働く女性は職場のお嫁さん候補で、結婚したら辞めるのが当たり前でした。結婚は“永久就職”とも言われ、女性が経済的に自立して一人で生きていくことは想定されていなかったのです。
高齢単身女性など、一人で生きる女性が貧困に陥りやすいのです。
【現在】
今は共働き夫婦がほとんどですが、世帯収入の維持のためだけでなく、女性が自立した存在でいるためにも経済力は不可欠です。
格差の背景には、女性は男性に養ってもらう存在だから、家計の補助程度の収入で十分だという考え方などがあります。
収入がなければ、たとえ過酷な結婚生活でも「食べさせてもらう」ために我慢することにもなりかねません。
男性の元を離れたらひどい目にあうぞ、とでも言わんばかりです。
【現在のジェンダー問題=女性差別でもあり男性差別でもある問題】
日本はジェンダー格差が大きく、女性の多くは不安定な非正規雇用で働き、収入は男性の75%ほどしかありません。
【現在の問題だが、性差別と関係がほぼない問題】
高齢単身女性など、一人で生きる女性が貧困に陥りやすいのです。
日本では独身女性やシングルマザー、……一人で生きる女性が貧困に陥りやすいのです。
ごく普通の生活をしている女性が、少しのつまずきで貧困に陥ってしまう。
過去と現在の性差別の混同問題は、【過去】と【現在】とでグルーピングしたものがそれにあたる。【現在のジェンダー問題=女性差別でもあり男性差別でもある問題】と【現在の問題だが、性差別と関係がほぼない問題】とグルーピングしたものは、次節の「男女のジェンダー問題を女性差別問題としてのみ解釈する」と次々節「差別ではない構造を女性差別に捏造する」の問題なので、次節および次々節で扱うこととする。
■過去にグルーピングした混同問題
では、【過去】に関するものから見ていこう。
当然ながら、この事態は30年前の事態である。現在の事態ではない。つまり、50歳以上の年齢の女性には当てはまる話であっても、現時点で就職する女性あるいは、20~40歳のもっとも社会でアクティブに働いている年齢層の女性の話ではない(40~50歳は微妙かもしれないので除外)。そして、当該コラムの題名は「小島慶子が考える“日本の結婚”『失敗する自由、自分で決められる自由を全ての女性が手にできますように』」である。つまり、これから結婚するであろう年齢層の女性の話である。50歳以上の女性はメインには成り得ない話である。主に25歳から35歳、広くとっても40歳までがメインの年齢層の女性の話である。30年前の「女性が経済的に自立して一人で生きていくことは想定されていなかった」話など、現在の日本社会の女性のこれからの結婚の話とは何の関係もない。かつては確かに指摘されるような女性差別が日本社会にあったと言える。だが、その女性差別がいまなお日本社会にあるかの如くの小島氏の口吻は何なのか。それは過去に存在した女性差別を現在の女性差別と偽装している行為に他ならない。
次をみよう。
「高齢単身女性」と断っている以上、60歳以上の女性の話だろう。つまりはその女性が貧困状態に陥っているとして、そしてそれが彼女が結婚した時点での女性差別に起因するものだとしても、その原因となった女性差別は現在も残存している女性差別であると明言できるのか。たとえば第二次世界大戦前の女性差別が原因でその人が貧困であったとして、その女性差別はアクチュアルな問題といえるのか。逆に、究極の男性差別であるWW2の兵役で右手を失った男性が、それにより貧困に陥って一人で現在も生きていたとしたら、それは現代社会の男性差別の問題といえるのか。WW2の兵役で右手を失った男性の問題が現代日本の男性差別の問題と見做し得るならば、上記の高齢単身女性の問題も現代日本の女性差別問題と言えはする。
ただし、先程と同様にコラムの表題から判明する、コラムが問題視している「これから結婚する年齢層の女性に関する女性差別問題」と高齢単身女性の女性差別問題とは、ほぼ関係がない。また後述するが「単身の高齢者が男女問わず貧困に陥り易いことを、女性だけにフォーカスを当てて女性差別と騒ぎたてる欺瞞がこの問題にはある。
■現在にグルーピングした混同問題
では、【現在】についてみよう。
ここは性差別とは無関係な箇所である。次をみよう。
以下は、女性自身の選択の結果を女性差別と騒ぎ立てるものだ。
小島氏のコラムは30年前の日本女性が直面した女性差別をテーマにしたコラムではない。現代日本でこれから結婚する女性が直面する女性差別をテーマにしたコラムなのだ。
確かに30年前に結婚した女性なら上記の事はあり得る。30年前に結婚した夫婦はまだまだ50歳台あたりである。その年齢層の女性なら「女性は男性に養ってもらう存在」以外の選択肢を取ることが(意識面も含めて)難しい事態はあったから、いま現在の結婚生活に関して「過酷な結婚生活でも『食べさせてもらう』ために我慢する」ということもあり得るだろうし、「男性の元を離れたらひどい目にあうぞ、とでも言わんばかり」である生活だとしても不思議はない。フルタイムで継続して働くという選択肢を選ぶことが難しかった50歳以上の女性には関しては、これらの理由で不遇な結婚生活を送る女性の境遇はかつての女性差別の結果であるとは言える。
しかし、現代の日本でこれから結婚する女性に関して、「女性は男性に養ってもらう存在だから、家計の補助程度の収入で十分だ」とか、「収入がなければ、たとえ過酷な結婚生活でも『食べさせてもらう』ために我慢することにもなりかねません」とか、「男性の元を離れたらひどい目にあうぞ、とでも言わんばかり」というのは、ソイツの選択の結果である。
言ってみれば、これから結婚する女性の「愚行権」の話だ。失敗した選択で不幸になっただけの話で、女性差別の話でも何でもない。
フルタイムで働く選択肢があったにもかかわらず、「男性に養ってもらう・補助的に働く」という安易な選択肢をその女性が取ったために、夫ガチャの賭けに外れて過酷な結婚生活でも「食べさせてもらう」ために我慢する事態や「男性の元を離れたらひどい目にあうぞ」とでも言わんばかりの事態に陥っているだけだ。
繰り返すが、現代日本においてフルタイムで女性が働くことは、珍しくもなんともない。現代の日本において、フルタイムで働く選択肢は女性に与えられている。
また結婚しようと考えていた男が「フルタイムなんか辞めろ」と言ってきたとしたら、結婚の可否の判断材用にすれば良いだけの話である。現代日本においては「フルタイムなんか辞めろ」などとは考えない結婚を希望する男性は掃いて捨てるほど居る。フルタイムの仕事を取っても良いし、「フルタイムの仕事を辞めろ」という男のほうが自分の人生にとって大事だと思えばそちらを選択しても良い(※2)。
愚行権の範囲の話だ。本質的には女性差別でも何でもない。
ジェンダー問題を女性差別としてのみ解釈する
■女性のみがジェンダーロールを負うと偽装する
上記の引用は、いかにも女性が周囲から口出されそうな紋切り型の内容だ。紋切り型の内容だけあって、その情景すらアッサリと浮かんできそうな話だ。だが、引用文の表現は、周囲から女性が口出される情景を読者にイメージさせることで、周囲から口出されるのが女性だけであるとの印象を固定させる悪辣な表現だといえる。
だが、上記の引用と同様のジェンダーロールを男性が負っていないとでも小島氏は考えているのだろうか(注意:コラム全文において男性に関するジェンダーロールには一切触れていない)。女性に対して上記のような“ベキ論”を持ち出してくるような周囲は、男性に対しても「結婚したらしたで、仕事は定年までの40年以上ずっと辞めずに続けるべき、一時的に失業してもすぐさま働くべき、金銭的不足なく妻子を養うべきなど」といった“ベキ論”を持ち出してくるのだ。
女性にジェンダーロールを押し付ける環境下においては、男性もまたジェンダーロールを押し付けられる。つまり、ジェンダーロールは片務的義務ではなく双務的義務として存在する。たとえば、結婚した女性に対して「仕事をやめるべき」との規範が強烈に押し付けられているならば、結婚しても生活費が無くなるなどという空想の世界は現出しないのであるから、結婚した男性に対して「絶対に生活費は稼いでくるべき」との規範が強烈に押し付けられる。
こんな当たり前の構造を覆い隠して、あたかも女性だけがジェンダーロールを押し付けられているかのような表現で日本社会の問題を指摘し、男性と日本社会とを小島氏は非難する。男女ともに直面しているジェンダー問題を、女性のみが直面する女性差別問題に、小島氏はこんなやり口ですり替えるのだ。
■女性と男性の労働問題
この欺瞞を小島氏はしばしば用いる。以前の記事で小島氏を批判したときも出てきたので、その時の批判を再掲しよう。
男性と同じだけ稼ぎたいならば同じだけの労働時間で働けと言う話である。いまの日本社会において、男性と同じ労働時間で働けないなどということは無い。仕事が嫌になったぐらいで辞めずに働けという話だ。
ハッキリ言うが、男性がFIREするときは周到に計画を立てて資産形成をして行うが、女性がFIREするとき、特に何も考えずにFIREしていることが非常に多い。今の資産で老後まで大丈夫であるとの見通しのもと仕事からリタイアしている女性は、男性と比較してどれだけ居るのか。単に、もう社会で仕事するのが嫌だから、と言った理由で女性はカジュアルに仕事を辞めすぎである。今の資産で老後まで大丈夫であるとの見通しが立たなければFIRE出来ない男性に比べて、実にカジュアルにFIREの自由を行使できる女性は、男性より余程恵まれている。
性差別であるのは間違いないが、観点の違いで男性差別にもなり得る話を女性差別としてのみ騒ぎ立てるのは、詐欺師の所業である。
差別ではない構造を女性差別に捏造する
■単身高齢者の貧困問題
これなど典型的な欺瞞だ。「高齢単身女性が貧困に陥り易い」のは、単身の高齢者だからであって女性だからではない。単身の高齢者という属性は、男女問わずそもそもが貧困に陥り易い存在なのだ。資産形成ができていないならば、男だろうが女だろうが貧困に陥る。
更に言えば、高齢者というのはリタイア世代だ。健康は年齢と共に損なわれる確率が上がり、医療費などで支出も年齢と共に増加する。インカムは定額の年金中心で資産を食い潰して生活している世代だ。そして、男女の平均寿命の差は8歳近い。高齢単身男性は資産を食い潰す前に死ぬ確率が高齢単身女性よりも8年平均寿命が短い分だけ高い。つまり、男はカネを使い切る前に死にやすいが女はカネを使い切っても生きている可能性が高いのだ。
また、そもそもが人口コーホートで見れば歴然としているが、高齢者は女性の方が多い。人口が多ければ比例して貧困者も多くなる。
この構造を女性差別などと主張するのは、虚偽を真実だと主張する詐欺師の口上と何ら変わることが無い。
■単身者と片親の貧困問題
現代日本において、上記の事情を抱えていても、フルタイムの仕事をしているなら男女で差は無い。逆に、フルタイムの仕事をしていない男女についても差は無い。
フルタイムの仕事をしているかどうかでみると、男性の方がフルタイムの仕事をしている割合が高いから、貧困に陥りにくいだけである。また、女性の方が親権を取り易いからマトモな稼ぎがなくとも子供の親権が取れてシングルマザーになれる数が多く、そのことで貧困シングルマザーが多くなり、逆に、親権の取りにくい男性ではマトモな稼ぎの無いならば子供の親権が取れずシングルファーザーになれないために貧困シングルファーザーの数が少ないのだ。
フルタイム同士、非フルタイム同士と属性を揃えて、フルタイムの独身男女、フルタイムのシングルファーザーとシングルマザー、非フルタイムの独身男女、非フルタイムのシングルファーザーとシングルマザーで比較して、貧困状態に陥り易さを比較したときに、性差が出るかどうか厳密に調査してから、大言を吐いて欲しいものだ。
小島氏の議論レベルで「日本では独身女性やシングルマザー、……一人で生きる女性が貧困に陥りやすいのです」などと言うのであれば、私もまた、先に断言したように「男女差なんぞ無く、この件で性差別なんぞ存在しない」と主張する。
もちろん、「日本では独身女性やシングルマザー、……一人で生きる女性が貧困に陥りやすいのです」を引っ込めて、「この件に関しては厳密な社会調査のもと主張します」と言うのであれば、私もまた「男女差なんぞ無く、この件で性差別なんぞ存在しない」という主張を引っ込める。
■貧困に陥る可能性の問題
コレも先の件と同様である。「ごく普通の生活をしている男性が、少しのつまずきで貧困に陥ってしまう」なんて普通にある。どうして女性だけが貧困に陥り、男性は陥らないと思うのか。男性は全て不可能を可能にする英雄だとでも考えているのか。
ごく普通の生活をしている人間が、少しのつまずきで貧困に陥ってしまう。
と言うだけの話だ。そこに男女の属性別で分けて考える必要などどこにもない。
「ごく普通の生活をしている女性が、少しのつまずきで貧困に陥ってしまう」ことは女性差別だとするが、他方で、「ごく普通の生活をしている男性が、少しのつまずきで貧困に陥ってしまう」ことは男性差別ではないとするのか。
本当に、こういう考え方をするところが、小島氏はミサンドリストの性差別主義者なんだ。
自分の選択の失敗を「女性差別」として捏造する
■「失敗する自由」が増えるなら失敗で不幸になる人間も増える
「女性差別の存在のせいで、女性が貧困化して不幸になる」と小島氏は主張するが、彼女は「失敗する自由」が増えるなら失敗で不幸になる人間も増えるという当然のことを理解できていない。譬え話で説明しよう。
男性の人生を見てみると、すぐに分かる話である。まさしく「失敗した場合は選択を誤った本人の自己責任と見なす発想」を強いられて生きている。だからこそ、失敗して貧困に陥って、ホームレスになって、犯罪者になって、自殺して、といった数でみると男性の方が遥かに多い。
「コロナ禍で女性の貧困が深刻化している」のは男性と同じ失敗する自由が女性にも認められるようになったからに他ならない。以前において女性の貧困が深刻化していなかったのは、日本社会の仕組みゆえにこれまで女性は守られていたに過ぎない。「失敗する自由の制限」と引き換えに得られていた保護だ。「失敗する自由」を女性が求めたのだから保護が失われ始めただけだ。
女性の「失敗する自由」が増えたことで、失敗により不幸になった人間が増えることは、決して社会の女性差別の存在ゆえではない。
■「自由と保護」で差別されているのはどちら側かの問題
小島氏がコラムで暗示するように、確かに失敗する自由は男性の方が遥かにあるだろう。ホームレスや犯罪者や自殺者をみれば明々白々だ。失敗する自由が多いからこそ、男性は女性より多く失敗している。失敗者の数は失敗する自由の大きさを反映している。
失敗する自由の大きさを単純に差別に結び付けて考えることはできないことは、失敗の自由の大きさと失敗者の数の関係が示している。
また「失敗する自由」とは愚行権と同種の話だ。この辺の議論に関して、小島氏をはじめとするフェミニストを含め、よく理解しない人間が多い。だから、具体的に説明しよう。
たとえば、娯楽用大麻を認めている国と大麻厳禁の国がある。娯楽用大麻を認めている国は「大麻で失敗する自由」を認めている国だ。一方、大麻厳禁の国は「大麻で失敗する自由を制限」している国だ。大麻に関する愚行権を認めている国と認めていない国と言い換えることもできる。
薬物で人生が狂った人が多い国は、当たり前だが娯楽用大麻を認めている国だ。一方で、薬物で人生が狂った人が少ない国は、大麻厳禁の国だ。
「薬物で人生が狂う可能性が高まってもよいから大麻を吸う自由」と「大麻を吸う自由は制限されてもよいから薬物で人生が狂わない保護」とのどちらが良いのかと言う話なのだ。つまり、自由が多ければ多いほど優遇されているという話でもないのだ。
奇しくも、フェミニストに人気のあるアーダーン首相(※3)のNZでタバコを禁止した。つまり、タバコに関する愚行権の制限のほうが国民の幸福が高まると判断したわけだ。NZでは2009年1月1日以降生まれか否かで線引きされ、2008年12月31日以前の人にはタバコを吸う自由があり、2009年1月1日以降の人にはタバコを吸う自由がない。
さて、NZにおいて、2009年1月1日以降生まれの人間は差別されているのか?それとも差別されているのは2008年12月31日以前生まれの人間の方か?
NZでは、今後の肺癌発生率でみると、2009年1月1日以降生まれの人間と2008年12月31日以前生まれの人間では顕著に差が出るだろう。肺癌発生率の観点からみれば、明らかに、2008年12月31日以前生まれの人間は差別されていることになる。だが、タバコを吸う"自由"と言う観点では、2009年1月1日以降生まれの人間が差別されている。
「失敗で人生が狂う可能性が高まってもよいから失敗する自由」と「失敗する自由は制限されてもよいから失敗で人生が狂わない保護」とのどちらが良いのかと言う話なのだ。つまり、自由が多ければ多いほど優遇されているという話でもないのだ。
■選択の失敗を「女性差別」のせいにするフェミニスト
「失敗する自由」が増えるなら失敗で不幸になる人間が増える。
そんな単純な構造が分からないから「女性の貧困が深刻化しているのも、こうした社会の仕組み」などと馬鹿げたことを主張する。
上記のように考えるのは正しい。ただ、次のように認識できているかどうか疑問だが。つまり、「女性が弱い」からではなく「女性は弱いと思われていた」から、“失敗する自由”と表裏一体の関係にある「自立の手段が制限」されていたのだ。そして、自分で(好きに)やれる手段を得て自由にできるなら、当然ながら、失敗の可能性も高くなる(もちろん、大成功の可能性もある)。
「人には自分で幸せになる権利があるし、“失敗する自由”だってあるのです」というのは、これはその通りである。だが、「失敗する自由」が増えるなら失敗で不幸になる人間が増える。という当たり前で、かつ、単純な原理を理解しよう。そして、
女性の「失敗する自由」が増えたことで、失敗により不幸になった女性が増えることは、決して社会の女性差別の存在ゆえではない。
フェミニスト達は単純な原理の帰結を女性差別に偽装しないように!
さいごに
一読した私の感想としては、毎度のことながらなぜ自分の考えを批判的に検討する構えがフェミニストには無いのだろうかというものだ。小島氏はそれなりの頻度でメディアに取り上げられるフェミニストである以上、メディア担当者も彼女の議論を見ているはずだが、メディア担当者はオカシイと思わないのだろうか。フェミニズムの小島氏をコラムニスト起用している以上、担当者の思想的立場もフェミニズムにあると思われる。思想的立場がフェミニズムになってしまうと、議論の穴が分からなくなってしまうのだろうか。
そういった小島氏を含めたフェミニズムに関わる集団の批判的思考の無さと、批判的思考が無くとも良しとしているフェミニストの姿勢が、私には信じられない。
註
※1 愚行権とは、J.S.ミルによって提唱された、他人からみるとバカげた事、愚かな事でも、第三者に危害を及ぼさない限りは、こういった行為を邪魔されない権利のこと。健康面でみても金銭面で見てもメリットなどない、タバコを吸う権利や酒を飲んで酔っ払う権利、あるいは登山やスカイダイビングなどの危険なスポーツを行う権利などが典型である。法律で明記されている訳ではない観念的な自由権。
※2 ただし、マクロ的な話として男女の所得比を50:50にするのが理想であり、かつ、専業主婦の数:専業主夫の数=50:50になっている条件を満たさないのでなければ、「男性は大黒柱、女性は専業主夫」の理想を持つ人間は、男女の所得比でみたジェンダー差別解消にとって阻害要因となる。したがって、「マクロ的な話として男女の所得比を50:50とならないのは女性差別とする」と「専業主婦の数:専業主夫の数≠50:50」の前提を置く限りにおいて、「フルタイムの仕事を辞めろ」という男との発言は性差別発言となり、かつ、「フルタイムの仕事を辞めろ」という男との結婚を選択した女性の行動は、単なる愚行権の範囲の話にはならないともいえる。
※3 アーダーン首相は2023/2/7までに退任することを発表した。
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