石丸伸二氏の政治思想
■はじめに
様々な媒体により公表されている石丸氏の言動から窺うと、実存主義に基づく価値観―—なまの現実に自分自身が正面から向き合って生きなければいけない――が彼の価値観であると言えるだろう。また、行動面から見た彼の思想はマキャベリズム——"政治的な目的"の為には手段を択ばない――と言ってよい。別の表現で言えば、お為ごかしやお約束あるいは空想的理想ではなく社会全体が"リアル"に向き合うリアリズムに価値を置くべきと考え、そこからしか望ましい社会は生まれないと考えている。そしてリアリズムを社会のイデオロギーにすべく手段を択ばず政治活動をするリアリストイズムとでも言い表せそうな考え方を彼はしている。
本稿では石丸氏の政治思想のうち「実存主義的主体性を理想とする」考え方を見ていきたい。
■東京都知事選挙の公約動画からみる石丸氏の政治的使命
石丸氏が自身の政治的使命と考えているのは実存主義的主体性を人々に持たせる事ではないだろうか。実際、都知事選挙に出た際の公約を示した動画「『3つの柱』と『9つの軸』〜インタビュー形式で詳しく解説〜」の随所において実存主義的主体性の重要性を石丸氏は語っている。いくつか列挙してみよう。
政治再建を語るときの誰かに依存することのない立場の重要性の指摘
安芸高田市で非常に抵抗の有った利権排除施策―—福祉4施設を1つに集約化したこと――のエピソードから、一元化による「それは知りません」との担当部署の責任逃れを防ぐことの重要性の指摘
防災における誰かが助けてくれる意識の危険性の指摘
リスク・ファイナンスにおいて東京でもカタストロフィ・ボンド(再保険のような働きをする債券)の導入政策を提案した際、「自分の身は自分で守る、自身の生命・財産、この責任を負うのはとことん自分」と述べ、災害の復興期における自助意識の重要性を強調する
石丸氏が挙げた実施したい政策としたものの中で評判の悪い「各高校へ100万円配布して生徒会に使途を決めさせる」との政策について、政策目的として学生時代から自分達に関する公金の使途を自分で決める政治意識の醸成を挙げる
東京一極集中解消にあたって、各地域が東京化するのではなく自分自身を見つめ直して各地域の個性を強化する
石丸氏が提示する様々な政策に対して場当たり的で具体性に欠けるとの批判が為されることがあるが、「人々の実存主義的主体性の獲得」を最終目標にしていると補助線をひくと、かなりスッキリと彼が提示する政策を理解することができる。ただし、「人々の実存主義的主体性の獲得」という表現だと少々分かりずらいかもしれない。そこで、より政治の側面に限定して彼の最終目標を言い表そう。
政治の側面から石丸氏の最終目標を見れば「人々から政治に対して持っている客分意識を無くす」「政治はお上のものという意識を人々から無くす」とも言い表すことができる。つまり、通俗的に言えば「他人が自分のためにヨロシクやってくれるものが政治」という意識を無くそうという訳だ。
言ってみれば、リンカーンのゲティズバーグ演説の有名な一節「人民の人民による人民のための政治」での真ん中の節を特に重視しているとも言える。
もっとも、財政再建を実行するにあたって政治家が誰かに依存することのない立場であることの重要性を石丸氏は公約を示した動画の中で語っている。そして、利権政治を行う政治家すなわち政治屋を排除することが必要とも述べている。このときの「利権政治」とは、結果的に特定の誰かのためになる政治ではなく、当初から特定の誰かの為になることを目的にした政治が行われていることを指している。
そのことを考慮すると、三番目の「人民のための政治:government for the people」もまた彼は目指している。ただし、人々が真剣に(=実存主義的に)政治に関わるならば、「government for the people」は自然と実現すると石丸氏は考えているだろうう。
以上のことを把握しておくと、若者を中心に自ら情報にアクセスしている媒体のYouTubeやTikTokで政治に関する情報公開を行ってチャンネル登録者数を増やすという、かなりミーハーな印象が拭えずどうでもいい政策のようにみえる石丸氏の政策の意図が見えてくる。つまり、彼はそのような方策で(若者を中心として)人々の主体的な政治参画を実現していこうとしているのだ。
まあ、それが首長が目指す政策として有効なのかどうかは一先ず脇において、石丸氏はそのような形での情報公開によって人々の政治に対する客分意識を無くしていこうとしているのだろう。
■安芸高田市長時代の活動から石丸氏の政治的使命を確認する
石丸氏は安芸高田市長時代の活動において、実際に実存主義的主体性を人々に持たせようとしている。つまり、決して優しくないなまの現実に自分自身が正面から向き合って生きなければいけないという話を、子供だろうが誰だろうが関係なく遠慮会釈なく突き付けている。そして政治に対して持っている客分意識を無くすために「フワフワの良いイメージだけの政治的要求」をバッサリ切り捨てている。
そんな彼のスタイルが現れた典型事例が、石丸氏が動画を公開している安芸高田市長時代の中学生議会のような取り組みである。
その際の議題は「八千代の丘美術館の存続の可否」であった。既定路線としては廃止・施設売却(売れなければ解体)であるのだが、中学生側の要望としては「存続して欲しい」「売却せずに形を変えて有効利用して欲しい」等の既定路線の反対意見が主である。
この手の子供議会での意見は大抵のものが「フワフワの良いイメージだけの政治的要求」であり、当該中学生議会もまた同様であった。「私達が小学生のとき美術館で体験学習をした。そんな思い出の施設を無くさないで欲しい」といった類のお涙頂戴であるが現状と結びついていない政治的要求、「サイクリング利用者のための施設等に転用して有効利用すべきでは?」といったコスト度外視・実現可能性度外視の「目論見が実現すればイイ感じの未来があるのでは?」といった類の政治的要求が為されていた。
それらに対して、八千代の丘美術館が年間どれくらいの予算を使っていたか・年間どれくらいの利用者がいたかを説明して、「思い出にある体験学習程度の便益」から美術館を存続させるのは、予算の費用対効果から難しいとの判断を示していた。また、別施設への転用を要求していた意見にも、忖度なしの将来見通しを説明して中学生の目論見の甘さを指摘し、判断が覆らないと断じていた。
ここで話が終われば、「ボクが考えた最強のアイディアは、専門家からみれば夢物語にすぎない」という予定調和のような、子供と大人の対話のアルアルでしかない。しかし、一般的な大人の感覚からすると「うわぁ、大人げないなぁ」と思われる政治的提案を石丸氏は行う。
その提案を以下で詳しく見ていこう。そして、その石丸氏の提案が、中学生に対して政治に関する実存主義的主体性を持たせる・中学生の政治に関する客分意識を無くそうとする意図があることを読み取っていきたい。
さて、八千代の丘美術館の年間維持費約2000万円(1700-2300万円で推移)と八千代小学校・八千代中学校の給食費無償化の予算が2000万円程度とがほぼ同額であった。ここから、石丸氏は八千代の丘美術館の存続の中学生の要望に対して「八千代小学校・八千代中学校を給食費無償化対象から外せば八千代の丘美術館の存続は財政的に可能だ。したがって、将来的な地域の小中学生の意見も加味しても『給食費無償化よりも美術館の方がよい』というのであれば、予算編成を変更して八千代小学校と八千代中学校を給食費無償化対象から外す代わりに美術館を存続させる。予算編成の期限までに要望を出せばすぐに対応する」と提案する。
石丸氏の提案は、政治の実存主義的主体性によって「私達は自分が生きる社会をどのような社会にしたいのか」を決めさせるものである。八千代の丘美術館を廃止するにせよ、存続させるにせよ、八千代中学校・八千代小学校の生徒(と周囲の大人)の政治的決断によって、八千代の丘美術館の現実が確定する。本気で八千代の丘美術館を存続させたいと思うならば存続させることのできるルートを彼は示したのである。
基本的に政治はゼロサムゲームであることが多い。
もちろん、非効率なところに公金が使用されている場合も少なくない。「非効率な所への公金支出を取りやめて別の所に回せばいいじゃないか」との意見が出ることもある。しかし、「公金の使用が非効率なところ」であっても、当然ながら公金使用による便益を享受している者がいる。行政の効率化という望ましいと一般に考えられていることでも、非効率な公金使用による便益を受けている者たちの便益を削って他に回すことになるのだ。安芸高田市における非効率な公金支出の一例が八千代の丘美術館の運営であり、「非効率な公金使用による便益を受けている者たち」が、八千代の丘美術館の利用者であったのだ。
石丸氏が八千代町地区の中学生に提案したように「○○したい?じゃあ、あなたに割り当てられている△△は削るけどいい?まぁ、あなたに割り当てられているものなら△△じゃなくて別のものでもいいけど」と自分事として政治あるいは行政の受益と負担を決断させることで、政治に対する客分意識は無くなり、政治への実存主義的主体性を人々は持つことになるだろう。
この石丸氏の提案に対して非難する人間もいるが、私個人は「これこそが政治教育であり、実存主義的主体による政治実践であろう」と非常に感心した。むしろ政治的な客分意識からくる「事情がなんであれ住民の不利益になることは政治的に悪だ!」という見解こそが問題であると私個人は思う。
■おわりに
石丸氏の政治思想は実存主義的である。リバタリアニズムとまではいかないが、政府は環境整備に徹して直接的な介入には否定的である。また、コーポラティズムを否定する政治思想を持っており、ポピュリズム的な側面も強い。とはいえ、南米型のペロン主義のようなものでもないので、単なるバラマキ型ポピュリズムに堕することもだいだろう。ただ、「人々に実存主義的主体性を持たせる」「政治に対する客分意識を無くす」ことを政治目標としているようであるので、個々の具体的政策で見るとコレと言ったものが無いように見える。
また、石丸氏の政治家としての手腕もよく分からない。実際に市長の経験があるわけだが評価が難しい。
安芸高田市での石丸氏の市政が良かったのかどうか、うまく判断がつかない。彼が成果を謳う財政再建も近隣市町村の財政事情と大して変わらないので、石丸市政をその点で評価するのは難しい。しかし、「『3つの柱』と『9つの軸』〜インタビュー形式で詳しく解説〜」の動画の中で触れていた福祉関連の既得権益問題の縮小に安芸高田市での政治的資源を使い果たしてしまった可能性がある。政治的資源を使い果たしてレームダックになったのであれば、石丸氏が口だけ番長になったこともよく理解できる。そのために、それ以外の政策は基本的に既定路線の行政改革だけになったのではないだろうか。
また論破芸を含む劇場型政治で支持を集めようとする政治戦略は、橋下徹元大阪府知事(元大阪市長)の擬ディベート型討論戦略に倣ったものとも言える。推測であるのだが、どうも石丸氏は橋下氏が戦った相手と同種の相手と安芸高田市で戦ったようなのだ。それゆえに橋下氏の成功をなぞっているようである。
正直な所、石丸氏はマキャベリストで素直に彼が言っていることを受け止めることはできない。彼の言動をみても「論理的」と評されてはいるものの、私の目からは論理的とは言いかねる。その辺りは橋下氏が論理的と評されていたことと類似している。
石丸氏が人間としてはともかく、政治家としてどうであるのかは判断を保留にした方がいいのかもしれない。