性格診断などのタイポロジー(類型学)の性質
タイポロジー(類型学)という思考は、複雑で多様な世界の有り様に対して、グループ化し切り分けることで比較的少数の認識対象に集約してしまうことで、世界を単純化して把握しやすくする思考である。したがって、本質的には分野を限定した思考様式でもないのだが、タイポロジーという概念は主に考古学・考現学(芸術や建築)・言語学・心理学・人間学において用いられている。
ではなぜこれらの分野で主に用いられる思考様式となっているのかといえば、その分野の対象が統一的で客観的な自然法則のような法則に従っていない、あるいはそのような法則を見出していないからこそタイポロジーに頼っているからなのだ。もちろん、これらの分野についても統一的で客観的な自然法則のような法則に従う領域もあるのだが、その領域に関してはタイポロジーは中心的な思考様式ではない。例えば心理学などで実験を行う分野は法則の把握を目指しているのでタイポロジーは中心的な思考様式ではない。しかし、法則の把握が難しい性格心理学のような分野でタイポロジーが用いられている。
タイポロジーとは分類の思考を分野に合わせて精緻化したものといえるのだが、分類という世界を把握するための操作はそもそも原始的な操作なのだ。対象が従う法則を把握すること(さらには数式の形に落とし込むこと)、そしてその法則を把握することで世界を把握することを至高とするのが科学的精神の価値観であるのだが、それからするとタイポロジーが行う「分類による認識対象の集約化」は如何にも原始的だ。つまり、分類から法則の把握に進めるなら進もうとするのが科学的精神の価値観といえる。
したがって、その分野全体において用いられている思考様式がタイポロジーに留まっているとき、その世界把握のアプローチを「科学」と呼ぶには抵抗があると言えよう。そこから法則を把握する方向性を持ち、更には、その法則に対する検証可能性、もっと言えば反証可能性を持つに至ればその思考様式は科学になる。
以上のようなことを理解しないまま、性格判断等のタイポロジーをアレコレと述べている人間の言説は(私にとって)大抵の場合ツマラナイ。それどころか「なにを適当なこと言ってやがるんだ」と反感さえ感じてしまう。
しかし、タイポロジーの限界を踏まえた上で、タイポロジーの枠組みを超えて発展させる思考を開陳した言説は非常に面白い。タイポロジーの枠組みを超える思考には科学方向と工学方向があるのだが、私自身は科学方向に向けて超えていこうとする取り組みを見るとワクワクしてしまう。
科学方向に超えていく取り組みというのは、先程から述べている通り「法則」を把握しようとし、またそれを検証可能な形にしていこうとする取り組みだ。これまでの論調からなにやら高尚な方向の取り組みで素晴らしいと思うかもしれないが、知的満足を目的とした現実的な利益には大して結びつきはしない取り組みとも言える。とはいえ、現実的な利益を全く無視できるわけでもない。現実的に何も役に立たないとき、概念は現実世界に生きる人間にとって存在意義を喪失して定着できない。したがって、現実世界に対するなにがしかの便益を生じさせることを前提として、対象に関する法則を把握する取り組みが科学方向の取り組みといえるだろう。
一方、工学方向に超えていく取り組みというのは「如何にうまく活用していくか」という取り組みである。活用することで生じるメリットデメリットを明らかにし、有効に使用できる範囲はどの程度かといったことを調べ、現実的な利益を得ていくことを目指す取り組みである。すなわち、工学方向に超えていく取り組みは「上手くいくノウハウ」を明らかにすることを目指す。もちろん、法則が明らかにすることもノウハウに好影響があるので、それの価値観を前提として法則を明らかにすることも目指すだろう。
どちらの方向の取り組みを面白いと思うかは人それぞれであると思うが、自分の興味関心に合った良質な言説を目にすることは喜ばしい事であると言えるだろう。