弱者男性論とエピステーメーの暴力性
日本のフェミニズム界隈ではアンチ側のインフルエンサーに小山(狂)氏がいる。彼がX(旧Twitter)のポストで「弱者男性論とはなにか」について見解を述べている。以下にその内容を引用しよう。
以上のXのポストに関して、単独のポストだけでなくエンゲージメントを持ったポスト、すなわち他の人のポストを引用した上でのコメント、あるいはコメントへの応答等も含むのだが、小山(狂)氏以外のものに関しては割愛した。しかし、そういった文脈から切り離したとしても、小山(狂)氏のXの一連のポストから彼の弱者男性論に対する問題意識は明確である。
これから小山(狂)氏の問題意識を見ていき、弱者男性論の問題について考察していこう。まず、彼の「弱者男性」の定義について引用したポストから抜き出してみよう。
この小山(狂)氏の弱者男性の定義は、"弱者男性"概念が単なる「困窮者の男性」を意味していない概念であることを示している。すなわち、彼の弱者男性論は「不可視化された困窮者問題」を本質的な問題としている議論なのだ。これを理解しないと彼の問題意識を理解することはできない。
小山(狂)氏の弱者男性概念はスピヴァクのサバルタン概念と同様の問題意識から提起されたものであり、彼が批判している弱者男性論におけるフェミニズムの暴力性は、スピヴァクが『サバルタンは語ることができるか』で批判したエピステーメーの暴力性とパラレルな関係にある。更に言えば、これらの「(知の)枠組みによって不可視化される存在」の属性は、彼が取り上げる(弱者)男性やスピヴァクが取り上げるインド社会の女性に限定されたものではない。典型的には「(かつて当然視されていた)性別二分論の枠組み」から零れ落ちて(かつて不可視化されていた)LGBT問題がそれにあたる。
つまり、小山(狂)氏が提起する弱者男性論は「(知の)枠組みによって不可視化される存在」の問題を取り上げているのであり、決して他に類例を見ないような特異な問題として弱者男性問題を取り上げているのではないのだ。
■女性運動を批判しない弱者男性論が原理的に成立し得ない理由
小山(狂)氏の弱者男性論において「女性運動を批判しない弱者男性論が原理的に成立し得ない」という問題について考察しよう。
(知の)枠組みによって不可視化される存在の問題の、他の具体例として挙げた「性別二分論によって不可視化されるLGBT問題」から、エピステーメーには暴力性があることに当note記事の読者は何となく気付くのではないかと思う。すなわち、弱者男性問題におけるフェミニズムは、LGBT問題における性別二分論に当たるのだ。大まかな構造として、このことを把握しておくと以後の議論の理解に役立つだろう。
さて、弱者男性問題についてフェミニストが語るとき、彼女(彼)らはフェミニズムの「女性=弱者・被害者、男性=強者・加害者」の図式から問題を語る。つまり、フェミニストは「なぜこの男尊女卑社会における強者である男性が弱者になっているのか」という形で弱者男性問題を説明するのだ。
典型的には、フェミニストのお気に入りのケイト・マンのミソジニー理論で弱者男性問題を語る議論である。もちろん、ケイト・マンのミソジニー理論による説明が事態の説明として妥当である場合も存在しているだろう。だが、ケイト・マンのミソジニー理論による説明が事態の説明として妥当ではない場合に、ケイト・マンのミソジニー理論による説明を事態の説明として押し付けることは暴力的である。
弱者男性問題を「なぜこの男尊女卑社会における強者である男性が弱者になっているのか」というフェミニズムの図式でしか認識しないとき、強者からの転落あるいは弱者との誤認以外の形で困窮した男性の存在は不可視となる。「なぜ彼らがそうなったのか?」という実態把握の認識段階をすっ飛ばして、「彼らは強者から転落して弱者になったのだ」あるいは「彼らは強者であるにも拘らず、自らが弱者であると勘違いしているのだ」というストーリーを当然の前提として、フェミニスト達は強者からの転落あるいは弱者との誤認以外の形で困窮した男性の問題を代弁し始める。そして、害悪ですらある的外れな言説を弱者男性問題の言説として流布するのだ。
非常に単純な話なのだが、フェミニズムの「女性=弱者・被害者、男性=強者・加害者」の図式は、現実世界において
女性が弱者である問題圏
女性が被害者である問題圏
男性が強者である問題圏
男性が加害者である問題圏
については、現実に即した認識を齎すことだろう。だが一方で、
1’.女性が強者である問題圏
2’.女性が加害者である問題圏
3’.男性が弱者である問題圏
4’.男性が被害者である問題圏
については、それらの問題を不可視化する。なぜなら、フェミニズムの「女性=弱者・被害者、男性=強者・加害者」の図式においては「女性が強者・加害者、男性が弱者・被害者」である事態は存在しないからだ。したがって、現実には存在しているにも拘らず、認識の上で存在しないものとされて不可視化してしまうのである。
LGBT問題で譬えれば以下のようなものだ。
大多数の人の通常の思考枠組みである性的指向の枠組み(以後「異性愛フレーム」という)」において、恋愛ないしは性愛は異性愛しかあり得ないと認識される。一方で現実として同性愛者は存在している。つまり、異性愛フレームによって同性愛者は不可視化されていくのだ。異性愛フレームが余りにも強固であるとき、たとえば仮に「女性が好きな女性」が眼前に居たとしても「女性は男性が好きである」ことを大前提として、同性愛の女性は以下に挙げる例のような不当な扱いを受ける。
「あまりにも男にモテなさすぎて女に走ったのかよ」と侮蔑される
「女性しか居ない環境だから女性を好きになっている」と認識される
「何らかの病気で女性を好きになっている」と病人扱いされる
このように異性愛フレームにおいては、端的な形で「性別は女性かつ性的対象も女性である事態」を捉えないのだ。「ホントは男性が性的対象なのに、何らかの事情で女性が性的対象になっている」として異性愛フレームに適合する物語を創り出す。つまり、端的な同性愛という事態を異性愛フレームは不可視化するのである。
以上のLGBT問題と見比べれば、フェミニズムの弱者男性問題に関する暴力性は明らかだろう。フェミニズムの「女性=弱者・被害者、男性=強者・加害者」の図式は「男性が端的に弱者・被害者である事態」を不可視化してしまうのだ。そして、あくまでもフェミニズム図式に適合的な物語に即した形で男性が弱者・被害者となっている事態を解釈するのである。
このような構造があるからこそ、小山(狂)氏の弱者男性論において「女性運動を批判しない弱者男性論が原理的に成立し得ない」と問題提起されるのである。
■追記:「フェミニズムの暴力性」が実によく分かるXのポスト
弱者男性が如何にサバルタンであるかよく分かる、フェミニストの弱者男性への認識の有り方がよく示されたポストがあったために挙げておこう。
因みに槇野 沙央理氏は大学教員で、研究対象はヴィトゲンシュタインである。つまりアカデミズムの住民で、弱者男性なんぞよりも遥かに発言に権威がある。まぁ、フェミニストの言葉でいえば、弱者男性と槇野氏の間には権力勾配があるわけだ。したがって、弱者である男性がいくら「我々は端的に弱者だよね」という主張しても、アカデミックな認識枠組みとなったフェミニズムの枠組みによって、男性の弱者の告発はミソジニックな言説とされてしまうという訳だ。
こういうフェミニズムの作用が、小山(狂)氏が問題視する「不可視化」の作用である。また、槇野氏がXのポストで図らずも示した事態こそが、「サバルタンの声は知識人の語り(この場合はフェミニズム)の枠組みによって奪われる」という事態である。