「産後の恨みは一生」を巡る論争でみる男性差別
「産後の恨み」を訴えるSNS上の投稿が物議を醸して騒動になった。そして、その騒動をメディアが取り上げて以下の記事にし、それがyahoo!ニュースに転載された。
上記の記事のリード文を読むとこの騒動における女性陣のご都合主義さがよく理解できる。それというのも、「夫は家計を支えている。収入を得るのは重要な育児の一つ」との男性アカウントの反論は、マルクス主義フェミニズムが持ち出す理屈と同じ構造を持つ理屈を用いた、男女の立場を攻守交替させた主張に他ならないからだ。「誰のおかげで、仕事に専念出来ていると思ってんの?私が家事をやってあげているからでしょ?」「男は女性の働きで自分達の労働が支えられていることを認識していない!」とはフェミニズム言説で腐るほど耳にした話だ。それにも関わらず、いざ女性が男性に支えられている側に立つとき「そんな理屈は成り立たない!男連中は何もわかっていない!」と主張する。ダブルスタンダードのご都合主義はここに極まれり、といった風情だ。
さて、本稿では育児行為に関して間接的な育児行為ともいえる家計を支える夫の行為の性質と直接的な育児行為の性質を見ていく。そして、その関係はマルクス主義フェミニズムが強調する「無償の家事労働と有償労働の関係」と同じ構造を持っていることを確認する。その上で、直接的行為を支えている間接的行為の意義を認めるスタンダードと意義を認めないスタンダードを見比べる。そして、後者のスタンダードはこれまでフェミニストが口を極めて非難してきたスタンダードであったことを見ていく。そのことによって、引用した記事のリード文中にある男性の反論を批判する女性が如何に理不尽であり、ダブルスタンダードでご都合主義的主張をしているかを明らかにする。
■短期的・中期的・長期的視点から見る育児行為
育児面から相手の現在の行為が子供の成育に不可欠であるか否かを考察するにあたって、短期的・中期的・長期的な観点でそれぞれ判断する。この3つの観点とは以下を意味している(註1)。
短期的観点:直ちに実行しなければ育児に支障が出る
中期的観点:少なくとも数日以内に実行しなければ育児に支障が出る
長期的視点:実行しなければやがて育児に支障が出る
短期的観点からの乳児についての不可欠な育児行為には、授乳・おしめを替える・沐浴させる・泣いたときにあやす・ときおり様子を見る等がある。基本的に子供と対面して行う直接的育児であり、行為実行と子供の必要充足との間に同時性がある行為である。
中期的観点からの乳児についての不可欠な育児行為には、哺乳瓶の洗浄・使用済みおしめ廃棄・おしめや粉ミルクの購入・乳児の身の周りの掃除や衣服等の洗濯等である。基本的に子供と対面せずに為される、行為実行と子供の必要充足との間に同時性が無い育児関連行為である。
長期的観点からの乳児についての不可欠な育児行為には、生計費の確保・一般的な家事・自身やパートナーへの感情面も含めたケア等である。一般的意味においては育児に分類されない行為であるが、今後の子供の健全な育成のために不可欠な要素の維持のために為される間接的行為である。つまり、「それをしなくても育児の継続が可能なのか?」と考えたとき、その行為が無ければ育児継続が不可能なのであれば、その行為は長期では育児に必要な行為なので、育児負担を評価する際には間接的であっても育児関連行為と見做すものである。
さて、男女論についての議論は、両陣営で下らない感情的な依怙贔屓を行う人間が出てくる。また、男女論において議論となる場合には、その具体的対象に対するフェミニズムに基づくご都合主義による根強いイメージがこびりついている場合が殆どだ。そのため、同じ構造を持つ別の物事においても共通の理屈で判断されているのかを見ていく必要がある。
当然ながら男性側がご都合主義的にダブルスタンダードで判断していても妥当ではないし、同様に女性側がご都合主義的にダブルスタンダードで判断していても妥当ではない。物事の構造が同じなのであれば、同じスタンダードを用いて判断すべきであるのは言うまでもない。そこは勘違いしないで欲しい。
では、短期的・中期的・長期的な観点での育児に関する話に戻そう。
おそらくであるが、短期的・中期的観点からの育児行為に関しては「それは育児である」と判断することに異論は出ないだろう。一方で長期的観点からの育児行動については「それって育児じゃないんじゃないの?」という判断が出てくることが容易に想像できる。
ここで確認しておきたいのが「間接的ではあるが必須の支援」に対する意義を認めるのか認めないのかである。直接的な活動でない相手の支援を自分の直接的な活動と切り離して「お前は何もやっていないじゃないか!」と主張することを許容するのかどうかである。言い換えると「直接的な活動以外は議論対象の活動としての意義を一切認めない」というスタンダードを採用するのかどうかである。
記事に取り上げられた女性アカウントからの意見とりわけ太字で強調した類のものは、「直接的な活動以外は議論対象の活動としての意義を一切認めない」というスタンダードを採用している。実際に、騒動の大元となったXのポストといくつかのリプライを確認しよう。
分かり易く「直接的な活動以外は議論対象の活動としての意義を一切認めない」との考えがスタンダードのポストを例示した。因みに、この考えをスタンダードにすべきとすること自体はそれはそれで一つの立場であると私は思う。しかし繰り返しになるが、女性有利男性不利になる場合は採用するけれども女性不利男性有利になる場合は別のスタンダードを持ってこようとするダブルスタンダードを当たり前と考えるのであれば、それは単なるご都合主義であって男尊女卑ならぬ女尊男卑のセクシズムに他ならない。
そのことを念頭に、育児期間中以外の夫婦に関するフェミニストの主張、とりわけ「男性が担うことが多い有償労働と女性が担うことが多い家事労働」の関係についての主張を考察しよう。
さて、しばしば耳にする「シャドウワークあるいはアンペイドワークと呼ばれる無償の家事労働が有償労働を行う労働力を再生産している。その意義を有償労働を行う労働者であることが多い男性は理解すべきだ」とのフェミニストの主張は、「直接的な活動以外は議論対象の活動として一切認めない」とするスタンダードからすると道理に合わなくなる。
上記の問題を指摘したのは、フェミニズムでもマルクス主義フェミニズムという立場なのだが、彼女らの理屈を簡単に見ておこう(註2)。
さて、今回の「産後の恨みは一生」騒動における女性側の言説の理屈を家事労働について適用した場合どうなるか考察しよう。
いくら有償労働を行う労働力が(有償労働から得られる賃金で購入される生活必需品と)家事労働によって再生しようが、無償の家事労働自体は直接的な有償労働ではない。「直接的な活動以外は議論対象の活動としての意義を一切認めない」というスタンダードを採用するのであれば、無償の家事労働は有償労働に対して意義を有していないと言える。妻の家事労働で労働者である夫の生活が整えられて労働力が再生産されるという間接的な形で、夫の有償労働が家事労働によっていくら支えられていようが、妻が行っている家事労働自体は有償労働自体ではないのだから夫の有償労働に対する意義を主張することは誤りである。
もっと具体的な情景が浮かぶ形で考えよう。
次の昭和時代のDV夫が吐くような暴言を考えたとき、言葉尻こそ乱暴だが間違った事は言っていないことになる。
しかし、上記の暴言に対して、常々ジェンダー平等について物申している女性達は「間違ったことは言っていないが、もっと表現は丁寧にしろ!」とだけ抗議するだろうか?
いやいや、まさか!
フェミニズムによって教育された、ジェンダー平等にうるさい女性達が上記の暴言に対して言葉遣いへの抗議だけで済ますとは到底思えない。家事労働が果たしている労働力の再生産の意義を強調し、それを無視する認識に対して強烈な批判を加えるはずだ。そして先にも述べたように、有償労働に対する家事労働に寄与を認めない事自体を女性差別意識の表れであると主張するだろう。
さて、翻って「長期的視点での育児行為」として挙げた行為はどうだろう。長期的視点での育児行為として挙げた行為が無ければ、直接的な育児行為「授乳・おしめを替える・沐浴させる・泣いたときにあやす・ときおり様子を見る等」「哺乳瓶の洗浄・使用済みおしめ廃棄・おしめや粉ミルクの購入・乳児の身の周りの掃除や衣服等の洗濯等」を維持継続していくことは長期的には不可能である。
つまり、「長期的視点での育児行為と短期・中期視点での育児行為との関係」は「無償の家事労働と有償労働との関係」とパラレルである。
シャドウワークとの言葉で有償労働に対する家事労働に対する意義を無視していた夫たちのセクシズムを糾弾したフェミニズムの理屈が正しいのであれば、直接的行為を支援している間接的行為の意義を否定することはセクシズムに他ならない。更に言えば、その判断を行ったスタンダードはジェンダー差別的スタンダードとフェミニスト達は糾弾している。
そんな「一方の性別が担っている直接的行為を支えていた他方の性別が担っている間接的行為の意義」を訴えたフェミニズムの理屈を、そっくりそのまま対象を賃労働から育児行為に入れ替えた主張が、記事に登場する以下の男性の声である。
この育児に関する男性の主張を(女性が)否定するのであれば、この主張が立脚しているスタンダードも否定すべきである。なぜなら上記の夫側の主張は「一方の性別が担っている直接的行為を支えていた他方の性別が担っている間接的行為にも意義がある」とするスタンダードから導かれる主張に過ぎないからだ。つまり、上記の育児に対する生計費獲得の意義を語る男性の主張を否定する女性は、シャドウワークとの言葉で有償労働に対する家事労働に対する意義を無視していた夫たちのセクシズムを糾弾したフェミニズムの理屈を否定すべきなのだ。
今回の騒動の女性側の声は、以下の昭和時代のDV親父の台詞と同型である。もはや嫌悪感しか覚えないようなDV親父と同じ理屈で、育児における生計費獲得の意義を主張する男性の声を否定したいのであれば、それはそれで一つの立場だと私は思う。
この昭和的なDV親父と共通の理屈すなわち「直接的な活動以外は議論対象の活動としての意義を一切認めない」というスタンダードを、自分達女性が主張すべき理屈であってスタンダードなのだと言うならば、例示した上記のDV親父の発言を「そうよ。その通りよ。ご主人がお金稼いでいることに意識して、ご主人が家に帰ってくるまで起きて待っているのが当然じゃない。そうでなきゃ感謝なんてしてもらえないわよ」と考えるべきである。
だが、もしも上記のDV親父の暴言に「いや!そんな考え方は間違っている!妻は夫の召使じゃない!」と叫びたいのであれば、なぜ自分に適用されると叫びたくなるようなDV親父と同じスタンダードからくる考えを夫に押し付けて当然としているのか。
更に言えば、そんな女性の声に対して常々「フェミニズムはジェンダー平等を目指しているんです」と御大層なお題目を掲げるフェミニストは、女性のジェンダー不平等な態度をなぜ非難しようとしないのか。
女性達に「直接的行為以外は認めない」という判断基準によって女性の間接的行為の意義が否定されたときは「なんてセクシズムに満ち溢れた判断基準なんだろう!そんなセクシズムにさえ気づかない社会は、アンコンシャスバイアスが横行する性差別主義的社会だ!」と糾弾する癖に、男性が間接的行為を担っている場合は「直接的行為以外は認めない」という判断基準を適用する。
自分達が糾弾した「直接的行為以外は認めない」という判断基準を男性には押し付けようとする非道さにも、「直接的行為以外は認めない」というのは女性の都合のよいときだけ、女性に都合が悪ければ「直接的行為以外の間接的行為もキチンと認めるべきだ」と言い出すダブルスタンダードの卑劣さにも気づかない。
毎度のことながら、自分達に適用されたならジェンダー差別だなんだとする考え方を男性には押し付けて平然としている。男性に対して「アップデートしろ、アップデートしろ!」と言っている女性の脳みそをアップデートした方が良いケースが多々見られる。女性にとって不都合な場合には、いつも叫んでいるジェンダー平等のお題目は何処へやら、ご都合主義を炸裂させてセクシズムを体現しているといういつもながらのバカバカしい騒動というわけだ。
註
註1 本稿での議論範囲が乳児期であるので本稿では扱わないが、幼児期・学童期・青年期等でも同様に考えることが出来る。
註2 このマルクス主義フェミニズムの考え方について以前に私が論じたnote記事は以下である。