ポストが赤いのも電柱が高いのも、すべて男尊女卑のせい?!
「なんだこりゃ?」と感じる記事がyahoo!ニュースに転載されていた。今の日本の「男サゲ万歳!」の風潮ってなんなんだろうか、と嘆息しか漏れない。適当に男サゲしていればメディアが取り上げるというのはどうにかならないものか。また、そもそも論として、仮にも専門家ならもうちょっとマトモな記事を書いて欲しいと思う。改めてそう感じさせた記事は以下である。
この記事は、精神保健福祉士・社会福祉士の斉藤章佳氏の『男尊女卑依存症社会』を紹介しつつ、著者にインタビューした記事である。記事の表題に取り上げられたテーマが語られている部分をピックアップして引用しよう。
上記のようなパターンで女性がアルコール依存症になったケースを、「男尊女卑の社会構造ゆえに生じたものだ」として記事で取り上げるのは無理がある。いくらなんでも、「男尊女卑」をマジックワードにし過ぎである。記事を読むとすぐに分かるのだが、佐藤氏もすがはら氏も「男尊女卑」の概念の使い方がおかしいのだ。彼らが主張している内容から判断すると
「節子、それ男尊女卑社会やない。性別役割分業社会や」
とネットミームを使って皮肉の一つも言いたくなる。つまり、彼らは男女で性別役割が別であることと、男尊女卑であることの区別がついていないのだ。
とはいえ、このような批判者に対する私の態度を非難する人が居るかもしれない。「いやいや、そんな馬鹿なことはあるまいよ。批判者は得てして批判対象を馬鹿にして対象の知的水準を低く見積もりがちだが、最低でも自分と同じくらいの思考能力があるとして、相手の主張を読解すべきだよ」と態度を改めるように提言されるかもしれない。自分の内なる声も「誠実に相手の主張をなるべく好意的に読み解くべきだ」との議論上の倫理を強調する。そんな内なる声にしたがって相手の主張を好意的に読み解こうとするのだが、実に様々な形の謎が当該記事には現れるのだ。
以下に、順にその謎を提示しよう。
まずは、「記事のライターのすがはら氏および紹介された本の著者の斉藤氏が、男尊女卑と性別役割分葉を混同していない」と解釈するときに生じる謎をみる。この解釈の下では、記事本文において主張と主張の論証部と確定的に見なすことができる部分が存在しない。しかし、無理矢理に好意的に解釈すれば「敢えて言えばココが論証部か?」という部分が無くもないので、そこを主張の論証部と無理矢理に仮定したときに、その仮定した論証部における論理展開に説得力が生じるかもしれないと無理矢理に解釈した場合の、その論証が詭弁にあたることを示す。つまり、まず「男尊女卑と性別役割分葉を混同していない」とするならば、なぜ記事本文に主張とその論証部が存在しないのかといった謎がある。あるいは、論証部であると無理矢理に私が解釈した箇所が、すがはら氏や斉藤氏ら自身の意図からしても主張の論証部であった場合には、その論証においてなぜ詭弁を用いるのかといった謎がある。
つぎに、「すがはら氏および斉藤氏が、男尊女卑と性別役割分葉を混同している」と解釈するときに生じる謎をみる。この謎を考えるにあたっては、まず「男女が何らかで形で分かれている」だけでは男尊女卑とはならないことを示す。また、アルコール依存症における男女の実態に関して、男性の方が望ましくない立場に居ることを確認する。更に、そのような状態や構造は女尊男卑といえる状態や構造であって男尊女卑とは言いかねる状態や構造であることを論じる。ここでの謎は、女尊男卑といえるような状態や構造であるにも拘らず、記事の主張において男尊女卑としている謎である。
上述のように、アルコール依存症に関する男女の実態は女尊男卑とさえいえるにも関わらず、すがはら氏(や斉藤氏)は「『男尊女卑の日本社会』が根本原因」と断定している。このことに関して、記事冒頭で日本のジェンダーギャップ指数について触れられているところから推測するに、日本のジェンダーギャップ指数が国際的にみれば相対的に低いスコアであることが両氏の念頭にあり、そのことをもってアルコール依存症の問題を論じるにあたって「『男尊女卑の日本社会』が根本原因」と断定しているのだろう。
そこでジェンダーギャップ指数が、その構成項目で取り上げている分野内においてさえ男性差別を示す項目を無視していることを確認し、女性差別となりそうな項目だけをチェリーピッキングして指数を構成していることを指摘する。また、男性集団は上位層と下位層が多く女性集団は上位層と下位層が少ないという男女の集団の特徴を示し、上位層に注目すれば「男尊女卑」となり下位層に注目すれば「女尊男卑」となることを述べる。このことを踏まえると、ジェンダーギャップ指数は上中位層の状態に着目した指数であってアルコール依存症の問題といった下位層の問題を議論するときに使用することは適切とはいえないことを論じる。またさらに、ジェンダーギャップ指数のスコア上限の問題を指摘する。社会において男性差別状態になっていることを示す男女比から算出された「1.000以上の値」に関して、1.000を上回る部分をカットしてジェンダーギャップ指数のスコアとしては「1.000」としてしまうジェンダー不正義な指数であることを明らかにする。
ここでの謎の一つは、なぜアルコール依存症といった下位層の社会問題を論じるときに上中層に関する指数であるジェンダーギャップ指数を念頭に置くのかといった謎がある。二つ目は、チェリーピッキングで構成した項目の問題や、「1.000」をスコアの上限とすることでジェンダーギャップ指数が男性差別状態を表示することを(意図的に)防ぐといったスコアの上限の問題から、ジェンダー不正義の塊といえるジェンダーヤップ指数をなぜ日本社会はジェンダー正義を議論するときの指数として有難がって用いているのかの謎である。
次のトピックはこれまでの議論とは一転して、記事で取り上げられた「ママ友づきあいでアルコール依存症になった若いママの事例」自体に着目する。
事例に取り上げられた女性が男性の立場に置かれたならばアルコール依存症にはならないと言えるかどうかを検討し、彼女がアルコール依存症になった根本原因が「女性の立場」にあると断言できるか判断する。すなわち、事例のケースで「男尊女卑の日本社会が根本原因」と言えるか、「男尊女卑」と事例の関連性を詳しく考察する。ここで結論を言ってしまえば、一読した印象と変わらず、そんな関連性がないと判明する。
ここでの謎は、当該事例の内容を一読すれば男尊女卑と事例との間にはほぼ関連性が無いと容易にみて取れるにも拘らず、記事の表題を「ママ友づきあいに悩んで酒に依存する女性も…『男尊女卑の日本社会』が根本原因といえるワケ」としてしまえるすがはら氏の感覚の謎である。
最後に論じることは、フェミニストの態度の謎である。それは、記事における認識がそうであるように、男性が劣位にある実態についてさえ、「男尊女卑」という認識枠組みに疑問を持たない謎である。ここでは、現実世界の社会問題(=ア・ポステリオリな問題)の議論をア・プリオリな概念の適用問題の議論であるかのようにフェミニスト達が取り扱うことを批判する。つまり、フェミニスト達が信奉するフェミニズム言説やらフェミニスト流のジェンダー論に反する現実を提示したときに「フェミニズム言説やフェミニスト流ジェンダー論の方が正しく、それに反するかのような事実の提示は、事実認識が間違っているために犯す誤りだ」とする態度を非難する。また、どのような現実を突きつけてもフェミニズム言説の正しさが覆らないのであれば、フェミニズム言説は反証可能性がないといえる。反証可能性を持たない言説など疑似科学の言説であり、到底信頼するに値しない。更に言えば、何故そんな疑似科学のトンデモ言説が大手を振るってメディアに登場するのか、なぜそんな信頼に値しないトンデモ言説をフェミニスト達は垂れ流して平気でいられるのか、といった謎がある。
以降では、上で提示したことを順に詳細にみていくことにしよう。
主張の論証の謎
■「ミシュランに載った」の類の詭弁なのかなぁ?
「ママ友づきあいに悩んで酒に依存する女性も…『男尊女卑の日本社会』が根本原因といえるワケ」という表題、そして以下に引用する記事のリード文において、「男性優位社会が依存症を引き起こす」とする主張を、すがはら氏あるいは斉藤氏は開陳する。
「ほほぅ。どんな理屈で表題とリード文で宣言した主張を論証するか、お手並み拝見しようじゃないか」と記事を読み進めても、
主張の論証はおろか主張自体が明確に登場しない。
どうやら、すがはら氏自身にも「男性優位社会が依存症を引き起こす」とする主張の呆れるほどの牽強付会っぷりについての自覚があるのか、表題とリード文に表れる態度から一転して、なかなかに姑息な論理展開をするのだ(註1)。唯一、「男性優位社会が依存症を引き起こす」という主張とその論証といえなくもない箇所は、このnote記事冒頭で引用した箇所である。とはいえ、その箇所を「主張と論証」と見立てたとしても、そこでの論証は詭弁の一種である。
先にも引用した該当箇所をもう一度引用しよう。
さて、性別役割分業社会ではなく男性優位社会っぽい観点での依存症に関する議論は、記事中さがしてもここだけである。正直なところ、該当箇所と指定した私自身が「この箇所が表題とリード文での主張の論証部である」とは確信できない。だがここ以外で、男性優位社会っぽいワードと依存症が結びついているっぽい箇所が無いのだ。
上記の事情を踏まえつつ、私のnote記事の読者は以降の議論をみて欲しい。
ここにおける詭弁論証の構造は以下だ。
記事の論証そのままだと、狐につままれたような感じ(ネットミームなら"宇宙猫"の写真が貼られるだろう)がすると思うので、この論証の構造と同種の別の論証で示してみよう。
このラーメン屋の論証は、美味いラーメン屋という事例を収集していると謳っている雑誌に、そのラーメン屋が掲載されたことをもって、「ウチの店のラーメンが美味いことが証明された」としている。
もちろん、その雑誌編集者がそのラーメン屋のラーメンが美味いと感じたから掲載したのだろうとは推測できる(ただし、このとき雑誌編集者が別の意図をもって雑誌に掲載した可能性は排除できない)。しかし、その雑誌編集者のラーメンの美味さで掲載する店を判断する舌の適切さをどうやって証明することが出来るのか、という問題が解決されない。
つまり、『美味いラーメン屋特集』に掲載されて事をもって、掲載されたラーメン屋のラーメンの美味さが示されたことになるためには、『美味いラーメン屋特集』という雑誌が持っている信用(=権威)が十分に高い必要がある。したがって、もしこの雑誌が『美味いラーメン屋特集』ではなく、『ミシュランガイド』であったりすれば、「あぁ、確かにミシュランに掲載されたなら、美味いラーメンと証明されたと言えるだろうね」となる。
逆に、「なにその本?」「だれその著者?」と聞いた人が疑問に感じるようであると、本や著者に信用が無いといえる。そのような場合は、そんな本に載っている事実をもって、「この本に載っているから、そうだといえるのだ」といった論証が妥当性を持つことは無い。批判対象の記事に関して言えば、「斉藤章佳氏が本のなかで取り上げたから」「『男尊女卑依存症社会』という本で取り上げられたから」という根拠は、「男性優位社会によって若いママがアルコール依存症になった」という主張に、なんの説得力も齎さない。
因みに、この手の論証は説得力があったとしても、詭弁論証の一種の「権威による論証」と呼ばれるものとなる。つまり、「権威」という、議論における論理的要素ではないものによって説得力が生じてしまう論証なので、この種類の論証は詭弁の一つとされているのだ(註2)。
とはいえ、日常生活を送る上では、この「権威による論証」は別に詭弁として非難されるようなものでもない。非常に当たり前の話なのだが、我々の人生の時間は有限だ。どんな言説であってもいちいち論理的に検討をしていれば時間など足りなくなってしまう。つまり、正しい事・妥当な事を主張するであろう能力、誠実さ・公平さといった人格、意図・立場から議論を歪めない姿勢等の信用が主張者にあるならば、それらの非論理的な属人的要素で説得されることに関して、日常生活の範囲であればなんら非難されるようなものではない。
逆に、当note記事のようになんらかの言説に対する論理的な批判を行う場合には、そういった「権威による論証」は詭弁になるのである。
この節の最後に改めてこれまで述べた事柄に関して注意を促しておく。
当該記事において、男性優位社会の観点での依存症に関する確定的な議論は存在しない。つまり、表題とリード文で示された主張も、その主張に対する明確な論証も記事本文には存在しない。
この節の議論は「大々的にぶち上げた主張に論証部が無いなんてそんなバカげたことはないだろうから、(相手がバカではないと仮定して)議論相手が論証としているであろう箇所を好意的に読み取って検討しよう」という、議論上の倫理に基づく姿勢から無理矢理に論証に当たる部分を探し出して行ったものだ。したがって、この節における私の議論が、どうしてもストローマン論法(=相手が主張していないことをデッチあげて、それを相手の主張と見做して批判し、相手の主張の説得力を喪失させる詭弁)になってしまっている危険性が拭い去れない。それゆえ、この節に関しては、当note記事の読者は「ふーん。まぁ、そういう解釈ならそういう話になるんだなぁ」程度に流しておいてもらうように要請する。
ハッキリいって、記事の表題とリード文で大々的にぶち上げた主張について、なぜ本文ではその主張も論証も確かな形で存在しないのか、まったくもって謎である。
使用されている「男尊女卑」概念の謎
■「性別で分かれていること」と「男尊女卑」
もの凄く当たり前の話なのだが、男女で別の役割を担っているという事実だけからは「男尊女卑」という「一方(=男)が優位であり他方(=女)は劣位である」という価値を伴う判断は出てこない。
このことを男女別のトイレを例にとって説明しよう。
もし仮に、女性が使用するトイレに着目して「男尊女卑」を主張したいのであれば、まず男子トイレと女子トイレについて「清潔度・設備の豪華さ・利便性」等々の基準を用いて比較して、男女のトイレに関して「どちらが上でどちらが下か」を評価する。そして、男女それぞれがそのそれぞれのトイレを使用しなければならないという事実に基づいて、基準から導き出された男女のトイレの評価によって、トイレ使用時における男女の立場の上下を判断するのだ。さらに、このトイレ使用時における男女の立場に関する上下の判断から、それが「男尊女卑」(あるいは「女尊男卑」)であるとするのだ。
したがって、男女で使用するトイレが分かれている事実だけからは「男性は優位にあり、女性は劣位にある」という男女が置かれた立場の評価、すなわち「男尊女卑」という価値判断は下せないのである。
つまり、男女双方が使用するトイレの状況に対する評価を抜きにして、「女性が女子トイレを使用しなければならないという立場はその社会において劣位にあるのであり、男性が男子トイレを使用しなければならないという立場はその社会において優位にある。だから男尊女卑だ!」と主張されても、「あなたが用いているところの『劣位、ないしは優位』という言葉はどうも我々の用いている言葉とは概念内容が異なるようですね。あなたが用いる『劣位ないしは優位』の言葉にどのような意味があるのですか」と質問し返さないとどうにもならない。我々が用いる語の「劣位ないしは優位」は現実世界において、ある判断基準に基づいて判断された「優れている-劣っている」という状態の事実を指す語である。したがって、ある判断基準に基づいて判断された「優れている-劣っている」という事実が無ければ、「劣位ないしは優位」という言辞はなんの意味も持たない。
以上の男女別トイレの具体例から分かるように、「男女で何かが分かれている」ということから短絡的に「それは男尊女卑である」とは判断できないのだ。ましてや、「男女で何かが分かれている」という事態を観察したときに、直ちに「それは男尊女卑構造によって生じたのだ」と因果関係を断定するのはもっと誤りなのだ。
因みに、上記の論理がイマイチ分からない人が居るかもしれないので、蛇足かもしれないが、以下のベン図を用いて説明しよう。
「男女で何かが分かれている」ということから「それは男尊女卑である」と直ちに判断できるためには、その二つの事態が上のベン図において次の関係になければならない。
A:男女で何かが分かれている事態
B:男尊女卑の事態
つまり、ベン図における集合Aと集合Bの関係のように、男女で何かが分かれている事態がすっぽりと男尊女卑の事態に含まれていなければ、「男女で何かが分かれているならば男尊女卑である」とはならないのだ。
だが、「男女で何かが分かれている事態」と「男尊女卑の事態」の関係が包含関係にはないことは男女別のトイレという反例を挙げることができることから明らかである。そもそも論として「男尊女卑の事態」は男と女を区別した上で男に"尊"となる扱いをして女に"卑"となる扱いをすることなのだから、性別で区別することから条件が加わっている事態なのだ。言ってみれば、「偶数かつ3の倍数=6の倍数」みたいな関係だ。まず性別で二分し、さらにその二つで待遇を変えているという構造なのだから、上のベン図でいえば、「男尊女卑の事態」が集合Aに、「男女で何かが分かれている事態」が集合Bに当たる構造を持っているのだ。
すなわち、「男女で何かが分かれている」という事態だけから「それは男尊女卑である」と判断できないのだ。
さらには、「『男女で何かが分かれている事態』は『男尊女卑の事態』よって生じるのだ」という因果関係を直ちに(=「男女で何かが分かれている事態」だけをもって)主張するには、先に否定した包含関係の成立が前提である上に事態の生起に関する関係をも前提とするので、猶更そんなことは主張できないのだ。
■過度の飲酒の習慣・アルコール依存症の男女別の状況
当該記事においては「アルコールによって健康を損なっている事態」が問題になっている。そこでアルコールによる健康被害の男女別の実態を確認しよう。まず厚生労働省が公表している「令和元年国民健康・栄養調査結果の概要」から飲酒の状況を確認する。
上記の令和元年の厚生労働省の調査(令和2年および3年は新型コロナウイルス感染症の影響により調査中止)からも分かるように、健康リスクがある水準での飲酒の習慣があるのは、男性14.9% 女性9.1%である。すなわち、女性の約1.6倍の人数の男性が、飲酒による健康リスクに晒されている。
もっと直接的なアルコール依存症について詳しく見てみよう。
厚生労働省 社会・援護局障害保健福祉部 精神・障害保健課 依存症対策推進室が作成した「依存症対策について」という資料から、数値を読み取る。
更にちょっと古いのだが、以下の「厚生労働科学研究費補助金 疾病・障害対策研究分野 循環器疾患・糖尿病等生活習慣病対策総合研究」の報告書の一部が、日本全体のアルコール依存症に関する数値として包括的である(註3)。
さて、以上の引用から明らかだと思うのだが、アルコール依存症を含めたアルコールによる健康被害の実態は男性の方が女性よりも遥かに大きい。
男性の方がアルコール依存症になっている人が多いという事実は、「ママ友づきあいに悩んで酒に依存する女性も…『男尊女卑の日本社会』が根本原因といえるワケ」という表題の記事の理屈を、根本的に否定することになる事実であるので、しっかりとおさえておいて欲しい。
■「アルコール依存症」の観点から男性優位社会?!
性別役割分業社会において女性は、育児を中心になって担う立場に立たされる。そして、育児を中心になって担う立場に特有のストレスに女性は晒される。そのストレスに晒された女性のなかには、アルコールに逃避してアルコール依存症になってしまう人が居る。
ここまでの話には大して異論は無い。さて、この事態についてミラーリング(=男女を入れ替えて考えること)してみよう。
性別役割分業社会において男性は、家計を中心になって担う立場に立たされる。そして、家計を中心になって担う立場に特有のストレスに男性は晒される。そのストレスに晒された男性のなかには、アルコールに逃避してアルコール依存症になってしまう人が居る。
以上のように「性別役割からくるストレスからアルコールに逃避して依存症になる」という事態は、女性だけではなく男性について考えてみても十分にあり得る話だ。そうであるならば、特段、女性だけの問題としてアルコール依存症の問題を考える必要はない。男女共通の問題としてアルコール依存症の問題を考えるべきである。
さらに、アルコール依存症になった理由は上記以外の理由による可能性もある。つまり、性役割からくるストレス以外の理由も含めて男女の違いに由来する理由もある。また、男女共通の理由によってもアルコール依存症にななり得る。このことを踏まえると、アルコール依存症になった男女別の総数の差分は男女の立場の違いに由来すると見做してよいだろう。
さて、ここで前節でみた男女別でアルコール依存症の患者のデータを確認しよう(註4)。
さて、男女比については男性を1としたときの女性の値を出してある。これは、批判対象の記事の冒頭に登場した「ジェンダーギャップ指数のスコアの算出方法」と同じ計算方法である。ちょっと当該記事の冒頭の文を引用してみよう。
さて、2023年のジェンダーギャップ指数(以降、GGIと略記)のスコアを見てみよう。
アルコール依存症の男女スコアとGGIのスコアの比較にあたって、一覧性を持たせるためにアルコール依存症の男女スコアとGGIのスコアの必要な部分をピックアップして示してみよう。
上記のように、アルコール依存症分野のジェンダーギャップに関して、GGIと同様の算出方法でスコアを出して、GGIのスコアと並べて見てみると、批判対象の記事の冒頭にあった「大きな課題が改めて浮き彫りになる結果でした」と散々に貶されたGGIのスコアよりもアルコール依存症分野のジェンダーギャップのスコアは酷いスコアとなっていることが明らかになる。
もちろん、政治分野のジェンダーギャップのスコア0.057と比較すれば、流石に政治分野よりはアルコール依存症分野のジェンダーギャップの総合スコアは0.289なのでマシだが、他の3分野と比べるとぶっちぎりで悪い。とはいえ、他の3分野はともかく、政治分野のスコアの低さから「日本は酷い!ヘルジャパン!」との声が聞こえてきている。
そこで、政治分野のGGIの項目を詳細に考察みよう。
GGIの政治分野の構成項目のなかで「現時点での政治分野のジェンダーギャップ」であるといえるのは、国会議員(衆院議員)男女比のスコア0.111、閣僚男女比のスコア0.091である。つまり、実に不名誉なスコア0.00となっている項目である「過去50年間の行政府の長の在任期間の男女比」は、1973年から50年間の累積を表した項目であるので、現時点の社会におけるジェンダーギャップとして解釈するは相当に疑問を覚える項目なのである。したがって、現時点でのジェンダーギャップを比較するという観点でいうならば、議員男女比と閣僚男女比のスコアとアルコール依存症分野のスコアを比べるべきなのだ。
そうしてみてみると、議員男女比のスコア0.111と閣僚男女比0.091は、アルコール依存症の基準に当てはまる人のスコア0.100と大差ないのである。
スコアを比較してアレコレ言うのはこのぐらいにして、日本の現状認識および各分野の実態と「男性優位社会、あるいは男尊女卑」という表現の関係を考察しよう。
さて、ここで議論相手との(一先ずの)認識を共有しておこう。
日本はジェンダー平等には程遠く、まだまだ性別役割分業社会であるというものは現状認識として共有しても良い。そして日本が性別役割分業社会で有るがゆえに、男性の立場と女性の立場には格差が存在しているという認識も共有しても良い。そして、その立場の格差をジェンダーギャップ指数のようなスコア算出方法で表現するのもいいだろう。そして分野毎の数値から不利なジェンダーギャップを指摘して「その分野はX尊Y卑である」と評価することも同意しよう。つまり、
といった表現をするのアリとしよう。
だがそうでならば、アルコール依存症分野の男性不利なスコア0.289からアルコール依存症分野は女尊男卑であって男尊女卑ではあり得ない。GGIのスコア、すなわち分野毎の男女比から数値を算出する方法から出してきたスコアを用いて、社会の状態を「男尊女卑や男優位社会」と判断して騒ぎたてている当該記事の冒頭の理屈からすると、アルコール依存症分野に関してアルコール依存症に関する男女比の実態を無視して「日本は男尊女卑の状態である」あるいは「日本は男性優位社会である」と認識するのは道理に合わない。アルコール依存症分野のスコアから判断すれば、それは「日本は女尊男卑の状態にある」「日本は女性優位社会である」となるからだ。
このことに関して、ちょっと目線を変えて抽象的に考察してみよう。
男性と女性とが同じ立場に立つというのがジェンダーフリーな社会である。残念ながら現在の日本はそんな状態にはなく、男性は男性ジェンダーの立場、女性は女性ジェンダーの立場に置かれている。だが、それは男女それぞれが別の立場に置かれていることしか意味していない。男女それぞれの立場が様々な分野において優位にあるのか劣位にあるのかは天下り的には決定されていない。事実によってその立場が優位にあるのか劣位にあるのかを判断するべき話である。
事実において、Xの立場がYの立場よりも優れている事態こそが「X尊Y卑」という事態である。Xに男が入るのか女が入るのかは関係が無い。またYに女が入るのか男が入るのかも関係が無い。(X,Y)=(男,女)ならば「男の立場が女の立場よりも優れている事態」であるので男尊女卑と呼ばれる事態になるに過ぎない。また逆に(X,Y)=(女,男)ならば「女の立場が男の立場よりも優れている事態」であるので女尊男卑と呼ばれる事態になっているに過ぎない。
今回のnote記事の題材である「アルコール依存症」に話を戻そう。
当たり前の話だが、アルコール依存症になどならない方が望ましい状態だ。したがって、アルコール依存症になりにくい立場はアルコール依存症になりやすい立場より優れている。今回のトピックにおける議論で明らかなように、アルコール依存症分野においては統計的にみて明確に男性の立場が劣位にある。このような事実から判断して、アルコール依存症分野でみるならば、アルコール依存症分野において日本社会は「女尊男卑」なのであり「女性優位社会」なのだ。
■システムの評価とアウトプットの評価
前節の内容のある意味での続きであるのだが、「男尊女卑」あるいは「女尊男卑」の表現の対象に着目して議論をしていきたい。
さて、前節での男尊女卑あるいは女尊男卑の表現は、ある分野での結果に対する評価、あるいは男性と女性の状態に対する評価を指し示している。すなわち、「男尊女卑というのは男性が望ましい状態にあると同時に女性は望ましくない状態にあること」「女尊男卑は女性が望ましい状態にあると同時に男性は望ましくない状態にあること」といった捉え方が前節での「男尊女卑」「女尊男卑」の表現の捉え方である。
しかし、記事の主張は「"男尊女卑構造”が依存症を齎す」と言うものである。したがって、男尊女卑という表現は「齎された依存症という結果」ではなく「依存症を齎す構造」にかかる表現と解釈すべきだとの批判が前節の議論に対してなされるかもしれない。
少しこの辺りは分かり難いかもしれないので、抽象化して図式として示してみよう。
上記の図式は「人間xは、社会構造fに放り込まれて、yという状態になる」といった内容を図式化したものだ。この図式を「インプット-システム-アウトプット」という形で捉え直し、また人間xではなく「男」あるいは「女」とすると以下のようになる。
この図式まで落とし込めば、「前節に対する(有り得る)批判」が何に対して批判をしているか明確になる。つまり、前節に対する(有り得る)批判は、「記事の主張は、アウトプットの男尊女卑を問題にしているのではなく、男尊女卑であるシステムを問題にしているのだ」というものだろう。
この手の批判をみて「確かに、アウトプットを対象にしているのではなく、システムを対象にしているよなぁ」との感想を抱く人が居るかもしれない。しかし、その感想はシステムとアウトプットの評価の関係性、すなわち「男尊女卑」という評価がシステムとそのアウトプットそれぞれに対して独立に成り立っているとの道理に合わない認識枠組みに、気づいていないために生じる感想なのだ。
これから「男尊女卑構造あるいは女尊男卑構造」というシステムについての概念について考えていくわけだが、この問題を考察するにあたっては、先に「男子トイレと女子トイレの例」を出した節である、「『性別で分かれていること』と『男尊女卑』」の節の議論を思い返しておいて欲しい。
先の議論において、男女分離構造が天下り的に男尊女卑構造あるいは女尊男卑構造になることはない、ということを明らかにした。このことを言い換えると、「男尊女卑構造」と呼ぶ男女分離構造は「男性には望ましい事態、女性には望ましくない事態を齎す構造」であるがゆえにそう呼び、「女尊男卑構造」と呼ぶ男女分離構造は「女性には望ましい事態、男性には望ましくない事態を齎す構造」であるがゆえにそう呼ぶということなのだ。
より抽象化して定式化すると以下である。
「X尊Y卑構造」と呼ぶ男女分離構造は「Xには望ましい事態、Yには望ましくない事態を齎す構造」のことである。
上の定式化から明らかなように、ある特定の男女分離構造システムを「X尊Y卑構造」と判断するためには、そのシステムのアウトプットが「X尊Y卑状態=Xには望ましい事態、Yには望ましくない事態」になっていなければならない。要するに、システムの評価はアウトプットの評価抜きには出来ないのである。
したがって、日本社会の男女分離構造が「女性は望ましい事態、男性は望ましくない事態」を齎しているのであれば、その男女分離構造は女尊男卑構造なのであって、男尊女卑構造ではないのだ。すなわち、アウトプットが女尊男卑であるならば、その結果を齎したシステムも女尊男卑なのである。つまり、アウトプットが女尊男卑状態であるにも拘らず、システムは男尊女卑構造と認識するのは、道理に合わないのだ。
性別役割分業社会は当然ながら男女分離構造を持っているが、男女分離構造が直ちに男尊女卑に結びついている訳ではない。男女分離構造が齎すアウトプットに関して男性は望ましい状態であると同時に女性は望ましくない状態にあるという事態があって初めて、当該男女分離構造というシステムのそのアウトプットが指し示す側面に関してのみ男尊女卑と評価できるのである。
これまでの議論から分かるように、記事のテーマである「アルコール依存症(あるいは依存症)」について、男性の置かれた立場の方が女性の置かれた立場より劣悪であるにも関わらず、なぜ「男性優位社会」やら「男尊女卑の日本社会」といえるのか、まったく謎である。
ジェンダーギャップ指数の謎
■ジェンダーギャップ指数から社会全体が男尊女卑であるとは示せない
日本社会の男女分離構造に関して、ジェンダーギャップ指数(以後、GGIと略記)を根拠にして男尊女卑と主張するかもしれないが、GGIはGGIを構成する分野の、しかもその特定項目に関する側面についてのみ、男女分離構造のシステムの評価をスコアを用いて下すことが出来る。このことは、男尊女卑が声高に叫ばれるGGIの経済分野でみても明白だ。
以上のGGIでは以上の4項目についてだけで経済分野の全てについて男尊女卑であると語ろうとする。しかし、GGIが無視しているものは非常に数多くある。これから、GGIでは取り上げていない経済分野のジェンダーギャップを見てみよう。
上記の男女別で見た生活時間のデータは、女性に都合がよいようにチェリーピッキングしたフェミニストが書いた糞記事によく登場するものだ。とりわけ、有償労働時間+無償労働時間=総労働時間では男女差はほぼ無い(男性493分、女性496分、すなわち3分差)にも関わらず、女性の無償労働時間224分と男性の無償労働時間41分を比較し、「女性は3時間44分も家事をしているのに男性は41分しか家事をしない!女性は男性の5.5倍も家事をしている!」とか言った形で男性の家事負担の軽さを責め立てるのに非常に頻繁に登場する。まぁ、今回に関してそこに注目するのではなく、有償労働時間の方に注目しよう。
「労働時間の長さ」をプラスに評価するのか、マイナスに評価するのかは難しいが、有償労働に関して「男性の方が長時間働いている。女性の労働時間は男性の約6割」というのは経済分野で無視すべきではない側面だ。
さて、次に取り上げるのは「労災」だ。とはいえ、どうも厚生労働省もフェミニスト達のご都合主義の圧力に耐えかねてか、男女別の死者・死傷者のデータを持っているハズなのにすぐわかる形では公表していない。厚生労働省が出す最新の「労働災害発生状況」を見ると、墜落とか転落とかの重大な結果になる類型とは別の類型である"転倒"という軽微な労働災害については女性の件数の方が男性よりも多いためか、男女別の最新の数値を公表している。その一方で、死亡者数といった重大な結果の男女別総数の最新の結果は公表していない。したがって、労災におけるジェンダーギャップを取り上げた論文からの孫引きになるのだが(もちろん、こういうやり方はあまり良くない)、ちょっと古い労災のデータを出してみよう(註6)。
上記の項目について、ジェンダーギャップ指数のスコア算出方法に倣ってジェンダーギャップ・スコア(GGスコアと略称)を出してみよう。
上の労働災害分野のジェンダーギャップは、経済分野のジェンダーギャップを捉えるためには必須のはずだ。労働現場で死んでいる人間という観点でみたら、GGIで散々槍玉に挙がるスコアの「国会議員(衆院議員)の男女比 0.111」なんて目じゃない。議員が男ばかりと言う以上に労災死亡者は男ばかりだ。それはとりもなおさず、死んでしまう人が出るような現場で働いているのは男ばかりということだ。仕事で怪我をする人の割合(死者も含む)も女性は男性の半分だ。また、働いている女性で怪我人が出るような現場を選択した女性は男性の7割しかいない。過労死・過労自殺・過労による精神障害についても見てみよう。これらの認定に関しては詳細は不明だが女性が不利なようなので、請求件数に注目する。つまり、(遺族を含め)主観的にはそうなのだという観点で見てみよう。請求件数でみると、文字通り死ぬまで働いて死んだ女性は男性の10分の1しかいない。仕事で精神的に追い詰められて自殺したり、精神疾患を患ったりした女性は男性の4割しかいない。
GGIに採用されている労働参加率のスコア0.759からみて、女性労働者は男性の7割6分だ。労災死亡者のスコア・労災傷病者数のスコア・脳心臓疾患請求件数のスコア・精神障害請求件数のスコア、これらが労働参加率に比例しないのはオカシイといえる。女性も男性と同じく3K現場を含めた労働環境で働いているならば、労災死亡者のスコアは0.041などではなく0.759近辺になるはずだ。労災傷病者数スコアでも0.529ではなく0.759近辺のはずだ。女性が男性と同じく過労死するほど働いているなら、脳心臓疾患請求件数のスコアは0.110などではなく0.759近辺のはずだ。そして男性と同じく仕事で追い詰められているならば精神障害請求件数のスコアは0.400ではなく0.759近辺のはずだ。
こういった経済分野における、仕事の危険さの度合い・ハードワークの度合いと言った側面はGGIには表れない。女性にとって有利で男性にとって不利なジェンダーギャップはGGIに表れはしないのだ。
■ジェンダーギャップ指数は、社会の上位層のジェンダーギャップを示す指数
ジェンダーギャップ指数(以後、GGIと略記)が「男女のジェンダーギャップを示す公平な指数」と勘違いしている人も多いかもしれない。だから「アルコール依存症」などという社会の下位層の問題を扱うときにも、GGIのスコアから判断して「社会の男尊女卑傾向」を読み取った気になって議論の前提にしてしまうのだろう。
しかし、GGIは「社会の下位層の男尊女卑傾向」を指し示すような、そんな指数では決してない。例えば、これまで見てきた依存症分野、労災分野、そして、自殺率、ホームレス数、男女別サポート制度・施設数、刑務所収容者男女比率、生涯未婚率、学歴別生涯未婚率でみた低学歴の生涯未婚率といった、弱者関連のジェンダーギャップは大抵、女性有利で男性不利なジェンダーギャップになっている。そして、そんな女性有利で男性不利なジェンダーギャップはGGIには含まれていないのだ(註7)。
唯一、健康寿命が女性有利で男性不利な項目だが、健康寿命という項目は生物学的な差が言い訳にできるような項目であり、"女性有利で男性不利な項目も入れています”といったパフォーマンスのために構成項目に含めているとすら感じるものだ。もちろん、健康寿命の男女比から「寿命を縮めている要因」に着目して、社会の下位層の状況に議論を繋げていくことが不可能なわけではない。だが、GGIが用いられる議論はほぼ常に女性差別に関する議論であり、議論において健康寿命の男女比に言及される場合はGGIとは無関係に議論が為されている。
つまり、GGIは社会の下位層の問題の議論において登場するには相応しくない指数なのだ。
そしてGGIの構成項目を詳しくみると「ガラスの天井」には執心しているが「ガラスの地下室」には、まったく関心が払われていないことがわかる。GGIは14項目から構成されているが、その14項目中5項目が以下に示すように社会の上位層の男女比だ。すなわち、構成項目の1/3を上回る比率で社会の上位層の男女比とりあげ、それをジェンダーギャップとしている指数がGGIなのだ。一方で、先進国社会の下位層の状況を反映する項目など14項目中0項目である(ただし、途上国社会であれば識字率や初等教育就学率が下位層の状況を反映する)。つまり、先進国社会の下位層のジェンダーギャップなどGGIをみても分からないのだ。
さて、男性集団の特徴は「分散が大きい」というものだ。つまり、上位層も多ければ下位層も多いという特徴がある。つまり、政治家や経営者、管理職、高等教育を受けた者などが多い一方、アルコール依存症患者、ホームレス、独身貧困者、自殺者、犯罪者、3K業務従事者、労災被害者等も多い。一方、女性集団の特徴は「分散が小さい」という特徴がある。これは上位層は少ないが下位層も少ないという特徴だ。つまり、政治家や経営者、管理職、高等教育を受けた者などが少ない一方、アルコール依存症患者、ホームレス、独身貧困者、自殺者、犯罪者、3K業務従事者、労災被害者等も少ないのだ。
このような場合、上位層だけを切り取ってみれば「男性優位で女性劣位」といえるだろう。だが、下位層を切り取れば「男性劣位で女性優位」なのだ。
そして、フェミニストは都合よく女性差別を主張しようとして、上位層・中位層だけを切り取ったデータで構成した指数、すなわち、チェリーピッキングをして「女性差別だけ」を指し示す指数を作り出したのだ。だから、そんな指数からみた結論が最初から決まっていると言えるのだ。
この節の結論をまとめよう。
GGIは社会の中位層と上位層の男女比を見ている指数であって、社会の下位層の男女比を見ている数値ではない。それゆえ、社会の下位層の話である依存症関連の議論において、GGIを用いて「男尊女卑」を語るなど、臍で茶を沸かす話といえるのだ。
■ジェンダーギャップ指数はフェミニストのご都合主義が煮詰まった指数
ジェンダーギャップ指数(以後、GGIと略記)を構成するにあたって採用されている項目が、フェミニストのご都合主義で選択されているという話は前節において示した。しかし、前節の議論だけではやや言い過ぎとも言える箇所がある。それは以下だ。
この節では、これから示すGGIの性質から上記が言い過ぎではないことを見ていきたい。
さて、GGIには以下に示す様に「教育分野」という項目がある。この項目の数値を概観して、如何にGGIがフェミニストのご都合主義に塗れているのかを確認しよう。
さて、2023年ジェンダーギャップ指数で、カナダとスウェーデンの教育分野のスコアは2国とも「1.000」で同率1位である。まぁ、別にこの2国に限らず、30か国が「1.000」で同率一位である。
ちょっと奇妙な気がしないだろうか?
「国によれば男子より女子の就学率の方が上回る所も出てくるんじゃないの?」という疑問は湧かないだろうか。
ちょっとカナダの高等教育の状況について以下のサイトで見てみよう。厳密にカナダの就学率を調べてみてもよいのだが、実はジェンダーギャップ指数の教育分野に関する計算式では留年やらなんやらで調整がはいるのであんまり厳密に統計数値を出しても分かり難いだけなので、学術論文でもないnote記事なら、ざっくりと見通しを出すだけで良いだろう。そして、ここまでデカい数なら厳密に見なくてもヘンテコだ、と分かるものを出そう。
さて、上記の引用文中のにある「男性の高等教育修了率は53.166、女性は65.53」について男女比を出してみると、「男:女=1:1.233」である。
では、つぎにスウェーデンについて見よう。スウェーデン文化交流協会がWEBで公開している『スウェーデン情報|男女平等』の中の「公平を目指すスウェーデンの取り組み」のページから引用しよう(ちょっとうまくリンクが貼れないので以下のような形でご容赦下さい)。
さて、上の引用文から分かるスウェーデン全体の学位の取得状況はだいたい「男性が1/3、女性が2/3」である。つまり、この段階で男女比を出せば、だいたい「男:女=1:2」である。修士・博士課程では男女同数ということだから、修士や博士については「男:女=1:1」ぐらい、といったところだろう。学士・修士・博士のトータルでは、ざっくりと「男:女=1:1.5」と言ったあたりだろうか。
以上から、カナダでは「高等教育は男性より女性のほうが2割ほど多いよ」といったざっくりとした実態を掴むことが出来る。そして、スウェーデンについても「学士から博士までのトータルで大体、男性より女性の方が5割ほど多いよ」というザックリとした実態を掴むことが出来る。
そして、GGIについて、先進国に関してみれば「識字率・初等教育就学率・中等教育就学率」では取り立てて差が出るものではないので(もちろん、途上国ではココの項目がとても大事)、教育分野のジェンダーギャップは「高等教育就学率」が大きく影響するはずである。
しかし、両国の教育分野のGGIのスコアは1.000なのである。
ざっくりとみた両国の男女の高等教育の実態からすると、このGGIのスコアはヘンテコではないだろうか?教育分野全体のスコアとしては、教育分野は4項目あるので、高等教育の男女差は「1/4」程度の影響しかもたないとしても、カナダは1.05超、スウェーデンは1.10超であっても不思議ではない。
教育分野の項目は基本的にはピラミッド型の関係になっているのだから、微差程度ならばともかくとして、先進国において、「高等教育就学率」の差が「識字率・初等教育就学率・中等教育就学率」の差でひっくり返ることなどあり得ない。つまり、教育分野全体として実態は「女性の方が男性を上回っている」はずである。
「一方の性別の人数(または割合)が、他方の性別の人数(または割合)を上回るならば、それは性差別」であると主張するフェミニスト達の顰に倣えば、カナダとスウェーデンの両国の実態は「男性差別の状態」と言えるはずだ。そして、それはGGIのスコアとしては「1より大きな値」として表されるはずである。
それにもかかわらず、GGIの教育分野の数値が「1.000 (1位)」の値で張り付いているならば、そこにはフェミニスト達の作為が潜んでいる(註8)。
以上のことから分かるように、GGIに関して社会のジェンダーギャップを公平に示している指標として捉えるのは問題があるのだ。
GGIの構成項目としてその項目をなぜ選んだのか、ある分野に関してはGGIの構成項目としてなぜ入れないのかに関して、合理的な理由が私には思いつけない。実にご都合主義的に「女性が少ないことで女性差別といえる分野」のみをGGIは構成項目として選択しているように見える。また、女性優位な男女差があっても言い訳が可能な生物学的性差が表れる分野の項目(健康寿命の男女比)には上限を設けずに男性差別がスコアに表れるようにしてあるにもかかわらず、女性優位な男女差が社会学的性差となって言い訳の効かない教育分野はスコアの上限を「1.000」として男性差別をGGIのスコアで表現できなくしている合理的な理由を私は見出すことが出来ない。
結局のところ、フェミニスト達はジェンダー正義の欠片もない指数を用いているにもかかわらず「私たちはジェンダー正義を追求しているのです」などと恥知らずにも主張する。なぜそんな不正義の塊のようなGGIを用いながらフェミニスト達は正義の味方面しているのか、私にとっては非常に大きな謎である。
そして、なぜ日本社会はこんな糞みたいなジェンダー不正義の塊の指標であるジェンダーギャップ指数を有難がっているのかについても謎である。
※ この節で論じたことついて、北田ゆいと〈1〉氏が以下のnote記事で述べている。北田氏のスタンスは「生物学的性差で社会的な結果に差が出ても、別段それは是正すべきことでもない。また、機会均等であれば結果平等は重要でない」というスタンスであるので、私のスタンスとはちょっと違うのだが、スタンスは違えど首尾一貫した主張を展開しているので、是非とも彼の議論を参考にして欲しい。
事例と男尊女卑構造の関連性の謎
■ママ友つきあいでアルコール依存症になった事例の検討
これまでの議論は、事例の個別的事情には踏み込んでは考察していない。それゆえ、事例の個別的事情を詳細に検討すれば、男尊女卑構造に起因するアルコール依存症の実態が明らかになるかもしれない。そこで、記事において取り上げられたママ友づきあいに悩んでアルコール依存症になった事例を詳細に見ていこう。
さて、記事では表題において「ママ友づきあいに悩んで酒に依存する女性も…『男尊女卑の日本社会』が根本原因といえる」と主張しているので、一先ず「男尊女卑の日本社会が根本原因」という主張を受け入れて、アルコール依存症になった若いママがアルコール依存症になったのは女性の立場ゆえであるとしよう。そして、仮定の話として日本社会で優位であるとされた男性の立場に彼女が立ったならば「彼女はアルコール依存症にはならないだろう」と言えそうであれば、「彼女がアルコール依存症になったのは、男尊女卑の日本社会における劣位であるとされた女性の立場が根本的原因である」と言い得る一つの根拠となる。
一方、日本社会で優位であるとされた男性の立場に彼女が立ったとしても「彼女はアルコール依存症になりそうだ」となれば、「彼女がアルコール依存症になったのは、男尊女卑の日本社会における劣位であるとされた女性の立場が根本的原因である」という主張は成り立たないと言えるだろう。なぜなら、彼女がアルコール依存症になったのは社会の構造といったものではなく彼女の個人的な気質に由来していると言えるからだ。
譬え話でこの事態を説明しよう。
学力不足の人間が居たとしよう。そして、その人間が東京大学を受験したとする(そして東京大学しか受験しなかったとする)。当然ながら、学力不足なのだから東京大学には合格できず、浪人になってしまう。このとき、
「彼が浪人になったのは、東京大学が彼を不合格にしたせいだ!」
との主張はある意味では正しい。確かに、東京大学が入試で彼に不合格の判定を出したのだ。
だが一方で、彼が浪人になったのは東京大学の責任とは言えない。なぜなら、彼が学力不足だから東京大学の入試に落ちたのだ。もし、彼が東京大学ではなく京都大学を受験したとしても、学力不足なのだから同様に京都大学の入試には落ちて浪人になることだろう。つまり、彼が浪人になった根本原因は彼の学力不足にある。このとき、彼の学力不足を問題視せず、「東京大学の入試」を彼が浪人になった根本原因であるとするのは滑稽極まりない話である。
一方で、学力水準が十分であるにも関わらず、東京大学の入試で不合格になり、彼が浪人になったとしよう。つまり、仮定の話として彼が同レベルの大学である京都大学を受験したとすれば合格して浪人にはならなかったとしよう。このような場合には、彼が東京大学を不合格になって浪人になったのは「東京大学の入試制度」に原因があるのだ、と考えることには十分な理由がある。
記事で取り上げられた「ママ友つきあいでアルコール依存症になった事例」の事態は、譬え話において示した、学力不足が根本原因で浪人になった事態と東京大学の入試制度が根本原因で浪人になった事態のどちらにより近いのか、それを意識しながら考察していこう。
では、事例における彼女の様子を確認した後で、対応するような男性の立場に彼女を立たせたときに、アルコールに逃避しないかどうか、すなわちアルコール依存症にならないかどうかを考えよう。
まずは上記のシーンに対応する男性が置かれる立場、すなわち(男性優位社会とやらにおける男性役割の家計所得獲得のために)社会に出て仕事をする立場を考えて、彼女をその立場に立たせてアルコール依存症になりそうにないかどうかを考察しよう。
つまり、個人名ではなく役割で呼び合う特殊な人間関係は男性が置かれた立場でも何ら珍しいものではない。つまり、
ということは同様に言えるのだ。そして、アルコール依存症になった彼女は「その環境において、うまく適応できなかった側の人間」である。したがって、たとえ劣位とされる女性の立場ではなく優位とされる男性の立場に彼女が居たとしても、彼女はアルコールに逃避して依存症になり得るのだ。
では、次のシーンを見ていこう。
このシーンに対応する男性が置かれた立場の状況は、勤務中の飲酒だろう。大抵の職場において業務上の必要性がなければ明示的あるいは黙示的に飲酒は禁止されている。服務規程にそう定めている会社もあるだろう。とはいえ、そうした禁を破り、勤務中に飲酒してニュースになるケースも存在する。実際に勤務中の飲酒が問題になったニュースを2つほど挙げよう。
こういったニュースで、勤務中の飲酒自体がニュースになるものは高い倫理観が要求される公務員・教育関係者・医療関係者の飲酒で、飲酒の影響で事故が起きた場合のニュースでは運送会社のドライバー等の流通関係や交通関係の業種の従事者の飲酒が取り上げられる。実際のところ他の業種等でもある話だろうが、その場合は単に社内で懲戒処分がなされる話なのでメディアに取り上げられないのだろう。
さて、上の2つの勤務中の飲酒に関するニュースは言ってみれば以下のパターンだ。
「ママ友づきあいに悩んでアルコール依存症になった若いママ」を、男性が置かれる立場、すなわち、男性優位社会とやらにおける男性役割の家計所得獲得のために、社会に出て仕事をする立場に立たせたとき、上記のパターンに嵌ってニュースになってしまった男性達のようには、彼女はならないと言えるのだろうか。
彼女は「ママ友コミュニティ」といった、ウマが合う合わない関係なく形成されたコミュニティで適応不全に陥っている。そんな彼女に関して、「職場コミュニティ」という、ママ友コミュニティと同様のウマが合う合わない関係なく形成されたコミュニティにおいて、ママ友コミュニティのときとは異なって彼女は適応不全に陥らない、と断言できるものだろうか。むしろ、職場コミュニティでも適応不全になる可能性の方が高いと言えるだろう。つまり、職場コミュニティでも適応できず、「業務の遂行で緊張状態に陥ってしまい、それを一時的に和らげるため勤務中にお酒を彼女が飲んでしまう」という事態に陥ることは十分にあり得る話である。
つまり、記事の論者たちが主張するところの日本の男性優位社会における優位な男性の立場に居ようが、劣位な女性の立場に居ようが関係なく、すなわち男尊女卑関係なく、「ママ友づきあいに悩んでアルコール依存症になった若いママ」は、その個人的気質によってアルコールに逃避して依存症になるだろう、と考えられるのである。
では次に、社会の規範の内面化によるプレッシャーからの「生きづらさ」に触れられた部分を見よう。
さて、この「社会の規範の内面化によるプレッシャーからの『生きづらさ』」というものは、記事の論者がいうところの男性優位社会における女性の立場特有に生じるものではない。男性もまた
「それまで見聞きした情報や世間からの視線によって『男性(父親)としてこうあるべき』という思いを内面化して、『生きづらさ』を感じている方は多い」
という話は旧聞に属する。
また、社会の規範の内面化という現象は、なにも「女性」「男性」といった立場にのみ生じる現象でもない。医者として、教師として、警察官として、公務員として、料理人として、アイドルとして、社会人として、大人として、日本人として、人間として・・・等々の、様々な立場に対して、社会は「○○は△△であるべき」という規範あるいは期待を形成している。つまり、女性や男性、あるいは母親や父親に関する規範や期待も、社会の中に存在する様々な役割規範の一つに過ぎない。
つまり、記事の論者がいうところの男性優位社会における男性の立場に居ようが、あるいはジェンダー平等社会になって男女の立場が平等になろうが、関係なく「社会の規範の内面化によるプレッシャーからの『生きづらさ』」というものは生じる。したがって「ママ友づきあいに悩んでアルコール依存症になった若いママ」が「社会の規範の内面化によるプレッシャーからの『生きづらさ』」を感じ、アルコールに逃避してアルコール依存症になるのは、男性優位社会(=男尊女卑)とやらとは関係なく、彼女の個人的気質によるのだ。
もちろん、このとき「『社会の規範の内面化によるプレッシャー』に関して女性の方が男性よりも大きいのだ」という主張は有り得る。そして、「女性には男性より大きい規範の内面化によるプレッシャーがかかっているから、女性はアルコール依存症になるのだ」と主張してもよい。すなわち、この規範の内面化によるプレッシャーの大小関係によって「男尊女卑」あるいは「男性優位社会」を定義し、女性がアルコール依存症になることを主張してもよい。しかし、当然ながらプレッシャーの大小関係は、プレッシャーが存在していることを示しただけでは、なんら判明しない。
さらに言えば、男性と女性のプレッシャーの差による結果とも言える自殺者数の男女比、あるいはアルコール依存症の男女比を見れば、むしろ、「『社会の規範の内面化によるプレッシャー』に関して男性の方が女性よりも大きいのだ」とさえ言える。参考までに以下に数値を上げておこう。
もちろん、社会の規範の内面化のプレッシャーの大小関係だけで、男性の自殺者が女性の約2倍であること、(推計される)アルコール依存症患者は男性が女性の10倍存在していることを説明しきらないだろう。しかし、自殺やアルコール依存は何かからの逃避行動であることが多いのだから、男性は女性よりも2~10倍にも及ぶ、逃避行動に駆り立てられる立場にいるとさえ言えるのだ。そして、「ママ友づきあいに悩んで酒に依存する女性も…『男尊女卑の日本社会』が根本原因といえる」などという主張がなされた観点を共有したとき、女性よりも2~10倍にも及ぶ逃避行動に駆り立てられる男性が置かれた立場に対して、到底それを「男性優位社会、あるいは男尊女卑の日本社会」などという実態を反映しない表現を許容できないのである。
「ママ友つきあいでアルコール依存症になった事例の検討」の最後として、アルコール依存症になった若いママが、ママ友コミュニティでどのように振る舞ったかを確認し、もし彼女が(記者の論者がいうような男性優位社会=男尊女卑の日本社会における)男性が置かれている立場に立ったと仮定したとき、同様の振舞をする必要が無いかどうかを考察しよう。そして、男性の立場に彼女が立てば同様の振舞をする必要から解放されてアルコールに逃避してアルコール依存症になるような状態が避けられる、ということが起こり得るのかどうか確認しよう。
以上の引用から分かるように、「ママ友つきあいに悩んでアルコール依存症になった若いママ」は、所属するコミュニティにおいて、コミュニティのメンバー同士と積極的に交流し、うまく立ち回り、役立つ情報を獲得し、コミュニティに溶け込んでいく、という振舞をしなければならない立場にあった。
もし彼女が(記者の論者がいうような男性優位社会=男尊女卑の日本社会における)男性が置かれている立場に立ったと仮定したとき、このような振舞をする必要性から彼女は解放されるだろうか?そんな幻想を抱くことは可能だろうか?
社会人として組織に属すると、いやフリーランスであってさえ、そのような振舞の必要性からは解放されない。上の引用文の「母親」のワードを「社員」に入れ替えてみるとそれが直ぐに判明する。
「母親」のワードを「社員」に入れ替えた上記の内容は、職場の上長が訓示で話す内容、あるいは研修で講師が語る内容として、頻繁にみられるものだ。さらにいえば、上の「社員」を「同業者」にすれば、フリーランスの人間や経営者の懇談会などで「あるべき賢い振舞」として語られる内容と大して変わらない。
つまり、記者の論者がいうような男性優位社会=男尊女卑の日本社会とやらにおける男性の立場に、「ママ友つきあいに悩んでアルコール依存症になった若いママ」が立ったとしても、彼女がアルコールに逃避しなければならなかった振舞と同様の振舞をせざるを得ず、
という彼女の状況は何も変わらないのだ。すなわち、彼女がアルコール依存症になったのは、記者の論者がいうような男性優位社会=男尊女卑の日本社会とやらにおける女性の立場に居たせいなのではなく、彼女の個人的な気質によってアルコール依存症になったのである。
以上で述べてきたことで明らかなように、「ママ友つきあいでアルコール依存症になった事例」に関して、「アルコール依存症」と「男尊女卑」には関連性がほとんど無い。もちろん、当該事例においてアルコール依存症になった女性がアルコール依存症になった理由は、性別役割分業社会における女性役割である。だが、それは偶々その女性が担うのが女性役割であったから、女性役割が彼女をアルコール依存症にしたが、もし彼女が男性役割を担ったとしたら、男性役割が彼女をアルコール依存症にしたであろう。つまり、男女どちらの性役割に関係なく彼女の個人的な気質で彼女はアルコール依存症になったのだ。
正直なところ、この記事の「ママ友つきあいでアルコール依存症になった事例」の紹介を読んで、「この事例の女性は社会の男尊女卑のせいでアルコール依存症になったのだ!」との印象を受ける人間は、フェミニズムの男性悪玉論に染まり切って、常人とマトモな会話を交わすことが不可能な人間ではないとか感じる。普通に考えれば分かる通り、あまりにも事例と男尊女卑の関連性が無さすぎるのだ。なぜ、この事例から「ママ友づきあいに悩んで酒に依存する女性も…『男尊女卑の日本社会』が根本原因といえるワケ」という表題を記事に付けることができるのか、すがはら氏の感覚が私には全くもって謎である。
フェミニスト達の態度の謎
■反例を出しても男尊女卑構造の認識を堅持するフェミニスト
「男尊女卑構造」というものは、ア・プリオリな概念(=先験的な概念、すなわち、経験に依らない概念)ではなく、ア・ポステリオリな概念(=経験的な概念)である。ア・プリオリな概念であれば現実世界と照らし合わせる必要が無いが、ア・ポステリオリな概念は現実世界と照らし合わせる必要があるので、ア・ポステリオリな概念である「男尊女卑構造」は現実世界と照らし合わせる必要がある。
ア・プリオリな概念として代表的なものは数学の概念がある。ア・プリオリな概念である数学の概念の妥当性は、現実世界(=経験)と照らし合わせることなく数学の世界だけで完結している。つまり、ア・プリオリな数学的事実は現実世界の事実(=経験的事実)で反証されるといった事態は起こらない。ア・プリオリな概念のこの性質はなかなかに分かり難いものらしく、数学的事実を現実世界の事実で反証できると考える人が出てくる。例えば、とある本の中で「水1Lにアルコール1Lを加えても、出来た液体は2Lよりも少ない体積になる。だから、数学の『1+1=2』だってつねに正しいとは限らないんだ!」といった内容の主張がなされ、数学的事実を現実世界の事実で否定でき得るとしていた人がいたが、それは単に「その現実世界の現象に『1+1=2』を適用した誤り」を犯しただけであり、現実世界の事実で数学的事実を否定できたわけではない。
一方、ア・ポステリオリな概念は、それがたとえどんなに緻密な体系をもっていたとしても事実で反証できる。例えば、ア・ポステリオリな学問(=経験科学)である天文学において、プトレマイオスの天動説は壮大で緻密な体系を持ち、様々な天文現象を説明し得たが、結局は事実によって反証されて否定された。一見すると、このことは天文学という学問を貶めているように感じるかもしれない。しかし、ア・ポステリオリな学問体系である天文学において天動説が事実をもって否定されたことは、天文学が真っ当な科学であることを示す証拠なのだ。学問体系内の理論がキチンと反証され得るという科学の性質を科学哲学者のポパーは反証可能性と呼んだが、この反証可能性こそが科学を科学たらしめている性質である。つまり、ア・ポステリオリな学問である天文学は、事実によって理論が否定されたからこそ、天文学がアポステリオリな科学(=経験科学)として真っ当な科学であることを証明されたのである。
翻って、フェミニスト達はどうだろうか?あるいは、彼女らが信奉するフェミニズムやらフェミニスト流ジェンダー論は科学足り得るだろうか。
フェミニスト達は、いくら「女性が望ましい立場にあり、男性は望ましくない立場にある」ことを示されたとしても、そして、分野を限定されたとしても、「社会は(その分野においても)男尊女卑構造にある」と断定して譲らない。つまり、どんな事実をもってきても彼女らの頭の中のフェミニズムやフェミニスト流ジェンダー論による「男尊女卑構造」は反証されない。
フェミニスト達が主張する世界のなかの事実に関する言説、すなわち、ア・ポステリオリな事柄に関する言説に関して、現実世界の中の事実(=経験的事実)でいくら否定しても、そのフェミニスト達は自説の妥当性になんら疑問を抱くことなく、むしろ自説に反する反論相手の事実認識の方にこそ疑問を抱く。もちろん、理論を否定するかのようなポッと出の事実に対して十分な吟味を加えることなく理論を捨て去るのは問題であるが、フェミニスト達の態度はそういった吟味の必要性を意識した慎重な態度では到底ないのだ。ア・ポステリオリな事柄の取り扱いにおいてもフェミニスト達の態度は、ア・プリオリな事柄を扱う数学者たちのようである。すなわち、「君らがフェミニスト理論を理解していないから、『女性が望ましい立場にあり、男性は望ましくない立場にある』という経験的事実によって、男尊女卑構造が否定できると考えてしまうんだよ。もっとキチンと事実認識にあたってフェミニスト理論を適用できるようにしなさい」と、至らぬ学生たちに説教を垂れる数学教師のような態度でいるのである。
つまり、どんな現実世界の事実を提示しても頑なに「男尊女卑構造」を堅持するようなフェミニスト達が信奉するフェミニズムやらフェミニスト流ジェンダー論は、反証可能性が欠片もなく、到底、科学に値しない代物なのである。言ってみれば、頭にアルミホイルを巻いている連中やグルグル模様と白装束で電磁波が防げるとしていたパナウェーブ研究所の連中たちが信奉している疑似科学と大差がないのである。
もし、フェミニスト達が自身の信奉するフェミニズムやらフェミニスト流ジェンダー論からの言説をマトモな経験科学からの言説であると考えたいのであれば、「どのような事実が提示されたならば、自分の言説は撤回せざるをえなくなるのだろうか?」という自問を繰り返す態度を身に着けるべきである(註9)。
さいごに
本稿で見てきた謎について、簡単に振り返ろう。
まず「主張の論証の謎」を取り上げた。
何が謎だったのかといえば、表題やリード文で示された主張が記事本文には現れず、またその主張の論調部も記事本文には確定的な形では存在しないことが謎だった。主張も主張の論証部も確定的には記事本文に存在しないので、無理矢理に解釈すれば論証部といえるかもしれないと思しき部分に関して、無理矢理に解釈すれば詭弁的に説得力が生じるかもしれない論理展開に対して、その私の解釈を前提に批判を加えた。もはや、私自身「なにをやっているのだろう」と自問自答せざるを得ない謎に関する議論を始めに行った。
次に、記事で使用されている「男尊女卑」の概念の謎を取り上げた。
使用されている「男尊女卑」の概念の何が謎なのかと言えば、男女の立場や状態に関して「男性は望ましい立場(あるいは状態)であると同時に女性は望ましくない立場(あるいは状態)にある」というものとは真逆の状況であるにも関わらず、「男尊女卑」あるいは「男性優位社会」という語を使用していた謎であった。すなわち、「女尊男卑」や「女性優位社会」とさえ言えるのに、なぜ「男尊女卑」の概念に当てはまるとしているのか、訳が分からない記事の認識枠組みに対して批判を行った。
そして、どうやら記事中の「男尊女卑」の認識の前提となっているジェンダーギャップ指数について、その指数が持つ謎を取り上げた。
ジェンダーギャップ指数は社会全体のジェンダーギャップはおろか、ジェンダーギャップ指数において構成項目として取り上げられている分野についてのジェンダーギャップさえ、十分には表していないことを確認した。また、ジェンダーギャップ指数は基本的には社会の上位層において生じているジェンダーギャップを示していることを確認し、その性質ゆえに「アルコール依存症」のような社会の下位層の問題を取り扱うときに参照すべき指数ではないことを論じた。そして、ジェンダーギャップ指数のスコアが上限を基本的に「1.000」にしていることから男性差別を示し得ない指数であることを概観した。またそのことによって明確にした、ジェンダーギャップ指数がもつジェンダー不正義な性質を批判し、このようなジェンダー不正義の塊のような指数がジェンダー正義についての問題が議論されるときに用いられている謎とその不正義な指数を用いるフェミニスト達に対して、疑問を呈した。
次に、これまでの議論としては一転して、記事で取り上げられた「ママ友つきあいでアルコール依存症になった事例」と「男尊女卑」の関連性の謎を取り上げた。
この関連性を考察するにあたっては、仮定の話として、アルコール依存症になった若いママが男性の立場に立ったならばアルコール依存症ならなかったかどうか検討した。検討の結果、彼女は男性の立場に置かれたとしてもアルコール依存症になったであろうということが言えた。そのことにより、彼女がアルコール依存症になったことと男尊女卑には関連性がほぼ無いだろうと結論付けた。とはいえ、この事例と男尊女卑との間にほぼ関連性がないことは事例紹介を一読すれば読み取れるものなので、なぜこの事例を表題に取り上げて「男尊女卑の日本社会が根本原因」などとぶち上げたのかという謎が明らかになった。
最後に、記事のライターおよび記事で紹介された本の著者とは関係が無いことながら、自説をひっくり返す事実を提示されたとしても決して自説を撤回しないフェミニスト達の謎の態度を非難し、そういった態度を持つ人間が堅持する思想は疑似科学であって、到底信頼するに足り得ない思想であることをみてきた。
註
註1 「表題とリード文に表れる態度から一転して、なかなかに姑息な論理展開をするのだ」と本文では書いたが、どういう風に姑息かは説明していない。そこで註において、すがはら氏がどのように姑息かを見ていこう。
さて、本文でも問題として取り上げた上記の箇所は、本文で以下のように示したが(それがたとえ詭弁であっても)論証部に当たる。
だが、この箇所は「表題やリード文で示された主張と僅かなりにでも関連性がある箇所」という記事全文における位置づけを無視すれば、「紹介している本のなかで若いママのアルコール依存症の事例が取り上げられていますよ」という単なるアナウンスにも解釈できるのだ。つまり、主張には論証が必要という文脈をぶった切れば「記事の主張とは無関係な箇所ですよ。ココは本の中で取り上げられたアルコール依存症の事例に対する斉藤氏の見解の紹介に過ぎないんですよ」と開き直れるのである。
言い換えると、批判者に対して「アンタ、何言いがかり付けてんの?そんなこと書いてないじゃん」と逆批判できるようにしてあるのである。実に姑息である。
註2 ところで、ドイツではなにかイイ感じの格言っぽいものを思いついて他人に披歴した際に「ゲーテもそう言っている」と付け加えると、なにやら言葉に重みが生まれてくるという話がある(日本だと「人間は○○だもの。みつを」とすれば、なにかそれっぽくなるという感じだろうか)。ゲーテは膨大な作品を著して無数の格言を残しているので、ゲーテが残した格言を網羅している人がほぼ居ないから、「あー、確かにゲーテなら言っているかもなぁ」となることも背景にある。そこから「ゲーテは全てを語った」とのゲルマンジョークが生まれるのだが、このジョークはゲーテという権威の力を論証に用いた詭弁をネタにしたているのだ。このゲルマンジョークは、「(たとえゲーテがそんなことを言ってなくても)ゲーテは○○と語った」と言われてしまうと「(ゲーテはスゴイ人なので)ゲーテが言ったのなら○○は正しいんだろうなぁ」と感じてしまって納得してしまう権威に弱い人間の心性、また、その心性を利用して嘘でもいいからゲーテを持ち出して権威による論証を用いようとする人間の心性の双方を茶化したものだ。
註3 ちなみに、「WHO世界戦略を踏まえたアルコールの有害使用対策に関する総合的研究」の中で、現在アルコール依存症で治療中が推計8万人とあるにも拘らず、厚生労働省 社会・援護局障害保健福祉部 精神・障害保健課 依存症対策推進室が作成した「依存症について」の中に出てくる依存症専門医療機関における新規受診患者数と依存症専門医療機関における入院患者数の合計が随分少ないように思われるが、この8万人には新規受診患者数と入院患者数からは分からない通院中の患者数が含まれているものと推測する。これも調べれば出てくるとは思うが、このnote記事の議論においてはそこまでの厳密性は必要ないだろう。
註4 ただし注意点として、ここでの男女別でアルコール依存症の患者のデータは2019年・2018年・2014年と時系列が多少バラバラなので一纏めにして男女比を扱うことは厳密にはよろしくない。とはいえ、当note記事の内容ではそこまでの厳密性がなくとも結論に大差はないので、ヨシとしておこう。
註5 議論が煩瑣になるために本文では、ジェンダーギャップ指数(以後GGIと略称)の健康分野のスコアが1未満であることをもって、「男尊女卑」の状態にあるとした。だが、GGIの健康分野のスコアに関しては、日本社会の健康分野のジェンダーギャップを反映しているスコアとは到底いえない。なぜなら、GGIの健康分野は「出生時の性比」と「健康寿命の男女比」の二つの項目で構成されているからだ。それというのも、インドや中国などと異なり現在の日本では胎児の性別から女児を選択的中絶を決定するという社会的な風潮がないからである。つまり、日本における出生時性比は生物学的な偏りによって生じているとしかいない。つまり、人間という生物種の「オスがメスより5%多く生まれる」という特徴が反映されたものに過ぎない。つまり、日本のGGIにおける健康分野のスコアは、社会学的要因(=ジェンダー要因)ではない生物学的要因によって男性のジェンダーが優位であるかのような外見を生じさせているのだ。
註6 本文で用いたデータに関しては以下を参照した。
石井まこと(2019)「労働災害・職業病・安全衛生とジェンダー;労災統計の性別分析からわかること」経済学論集(中央大学))第59巻第 5 ・ 6 合併号
但し、上記の論文においては本稿とは異なり、女性が直面している労働災害における困難な状況を取り上げている。つまり、本稿の議論もまた石井氏が問題視しているような観点において漏れが存在している。
註7 GGIが自殺率を含まない指標であるにも拘らず、「社会全体の健全さをみる」みたいな扱いをすることに対して問題がないなど考えるのはおかしい。社会学を確立した三人衆(デュルケム、M・ウェーバー、ジンメル)の一人デュルケムの主著が『自殺論』であることを鑑みれば明らかだが、社会の歪みが噴出した現象として自殺を捉えない認識枠組みは、社会全体を考える枠組みとして健全さに欠いていると私は思う。
註8 ここでフェミニスト達の悪辣振りに関して注意を促しておく。それはジェンダーギャップ指数の健康分野における「健康寿命の男女比」の項目である。この項目に関してはスコアの値が1を上回るのである。そして、この「健康寿命の男女比」は生物学的な男女差という要因がそれなりに大きな項目である。つまり、スコアの値が1を上回って「男性差別」を表す値になったとしても、生物学的な男女差だから社会的な性差別ではないと言い得る余地がある項目なのだ。教育分野という言い訳ができない領域においては「スコアの上限を1.000」とおく一方で、「健康寿命の男女比」という生物学的性差で言い訳ができる領域では「スコアの上限は無し」としている辺りが、非常に姑息である。
註9 もちろん、カントが提示した「ア・プリオリ-ア・ポステリオリ」という枠組みやポパーが提示した科学の条件としての「反証可能性」を超える、十分に説得的な理論をフェミニスト達が提示したならば、「フェミニスト達の態度の謎」において展開したフェミニストへの批判を全面的に撤回し、彼女達へ謝罪する用意が筆者にはある。