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フロイトとエリクソンの発達心理学11:ファルスは象徴である

 前回記事では「親が子に持つ権能の源となる器官としてのファルス」を見た。認識能力に限界のある子供の視点からの親のファルス、すなわち「保護者に神秘の力を与えて神たらしめる器官としてのファルス」について考察した。これから、親のファルスではなく子供のファルスについて考えていこう。すなわち、「自己と快とを自在に結びつける器官としてのファルス」という観点でファルス概念を見ていきたい。

 さて、ファルスは「男根」を意味する言葉であるが、実際のペニスとしての男根を意味している訳ではないという話は有名だろう。ファルス概念は「自由自在に自己と快とを結びつける何か」を象徴する概念を指している。そして、典型的に当てはまる具体的身体器官が男根であるから「男根(=ファルス)」をその象徴としている。

 ファルス概念の性質から、まず「象徴であるとはどういうことか」を明らかにする。そして、象徴が「抽象的対象に関する一般化した永続的比喩」であることから、比喩表現の性質について詳細に確認する。そして、本稿の範囲において、ファルス概念の名称がシネクドキー(提喩)に基づくものであることを確認する。その上で、子供の「ファルス」と「去勢」の概念についての理解を深めていくことにする。


■象徴とは

 「象徴」という概念そのものについて簡単に説明しておこう。それというのも「象徴」という言葉は知っていても実際にどういうものなのか理解していない人が少なくないからだ。もちろん、「ハトは平和の象徴」といった象徴の具体例は知っていることは多い。しかし、「では『ハトが平和の象徴である』とはどのような意味なのか?」と一歩踏み込むと「うーん、よく分からない」となる人が多いのである。そんな訳で、象徴という概念について簡単に説明しておきたい。

 まず、象徴を一言で言い表すならば「抽象的対象に関する一般化した永続的比喩」である。

 「具体的に思い浮かべることが難しい対象をイメージしやすい形に表現したものが固定的に継続して用いられて一般化したもの」と言い換えてもいい。また、象徴は「抽象的対象についての表現」「一般化した表現」「永続的表現」という特殊性があるものの比喩の一種である。ただ、比喩と一口に言っても直喩ないしは明喩(シミリー)・隠喩ないしは暗喩(メタファー)・換喩(メトミニー)・提喩(シネクドキー)といった様々な種類がある。これらの比喩の種類のうち、シミリーを除くメタファー・メトミニー・シネクドキ―によって抽象的対象を永続的に表現したものが一般化すると象徴になるのだ。

 まぁ、象徴については哲学や言語学で色々と研究されており、私の説明に異論が出る部分もあるとは思う。だが、大雑把な説明としては十分だろう。


■比喩の種類:直喩ないしは明喩・隠喩ないしは暗喩・換喩・提喩

 各比喩についてもシミリーやメタファーは兎も角として、メトミニーやシネクドキ―については理解していない人も多い。もちろん、メトミニーやシネクドキ―を用いた表現を実際には多くの人が行っている。しかし、それがメトミニーやシネクドキ―であると理解していない人が多い。まぁ、偉そうに言っておきながら「オマエ自身は間違いなく弁別できるのだろうな?」と問われると私自身も怪しい場合が無い訳ではない。

 それはさておき、各比喩について簡単に説明しよう。

 まずは「シミリー(直喩ないしは明喩)」である。

 シミリーは「~のようだ」との言葉が付いている表現である。例えば、『野菊の墓』の一節の「民さんは野菊のような人だ」という表現がシミリーである。その表現が登場する箇所を引用してみよう。


「まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして……まア綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好このもしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
 民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。二人は歩きだす。
「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」
「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって……」
「僕大好きさ」
 民子はこれからはあなたが先になってと云いながら、自らは後になった。今の偶然に起った簡単な問答は、お互の胸に強く有意味に感じた。民子もそう思った事はその素振りで解る。ここまで話が迫ると、もうその先を言い出すことは出来ない。話は一寸途切れてしまった。
 何と言っても幼い両人は、今罪の神に翻弄せられつつあるのであれど、野菊の様な人だと云った詞についで、その野菊を僕はだい好きだと云った時すら、僕は既に胸に動悸を起した位で、直ぐにそれ以上を言い出すほどに、まだまだずうずうしくはなっていない。民子も同じこと、物に突きあたった様な心持で強くお互に感じた時に声はつまってしまったのだ。二人はしばらく無言で歩く。
 真まことに民子は野菊の様な児であった。民子は全くの田舎風ではあったが、決して粗野ではなかった。可憐で優しくてそうして品格もあった。厭味とか憎気とかいう所は爪の垢ほどもなかった。どう見ても野菊の風だった。

伊藤左千夫『野菊の墓』

 引用における「野菊のような」という表現で「全くの田舎風ではあったが、決して粗野ではなかった。可憐で優しくてそうして品格もあった。厭味とか憎気とかいう所は爪の垢ほどもなかった」という民子の有り様を言い表している。つまり、シミリーによって野菊が持つイメージと民子の有り様を重ね合わせているのである。このように「○○のようだ」とのシミリー表現は○○が持つイメージを重ね合わせる働きをしている。

 次は「メタファー(隠喩あるいは暗喩)」である。

 メタファーは、指し示す対象をイメージが重なるもので表現する比喩である。このとき、シミリーと異なって「~のように」といった言葉はつかない。具体的に見てみよう。

 例えば「君は僕の太陽だ」といった比喩表現がメタファーである。シミリーだと「君は僕にとって太陽のような人だ」となるところが、メタファーだと当該表現になる。このときの言葉に注目すると、シミリーだと「君≠太陽」だが、メタファーだと「君=太陽」になる。しかし、太陽が持つイメージを君に重ね合わせるという働きでみるとシミリーもメタファーも違いはない。つまり、メタファーはシミリーと大して変わらないのだ。単に「~のようだ」と付けているのがシミリーで付けないのがメタファーと考えて良い。もちろん、先に具体的に見たように、「~のようだ」が付くシミリーは擬えたものと擬えられたものが別個のものであることが明確である一方で、「~のようだ」が付かないメタファーは擬えたものと擬えられたものが別個のものであることが曖昧になって同一視される働きが強まるという違いはある。しかし、比喩に用いられた対象のイメージを重ね合わせるという性質は同じなのである。

 さて、「メトミニー(換喩)」について見てみよう。

 メトミニーとは、指し示す対象を隣接性のあるもので表現する比喩である。情景が思い浮かぶ具体例を挙げよう。

 展示パネルを見ていると横から「おい、そこのメガネどけ!」と怒鳴られたとしよう。この怒声における「メガネ」の言葉が指している対象は、「展示パネルの傍にいる眼鏡をかけた私」である。当然ながら、私がかけていた眼鏡自体を指している訳ではない。このように、隣接しているもので指し示す対象を言い表す表現がメトミニーである。

 また、別の例も挙げよう。

 渋谷ヒカリエホールで開催されていたデジタル展示の「グラン・パレ・イマーシブ;永遠のミュシャ」を鑑賞した人が「ミュシャを見に行ったけど、良かったよ」と感想を伝えてくれたとしよう。この感想における語の「ミュシャ」は当然ながら故人であるミュシャその人ではない。「ミュシャの作品のデジタル展示」が、感想の語における「ミュシャ」の指し示す対象である。換言すれば、「ミュシャ」の語で「ミュシャの作品のデジタル展示」を表現している。この比喩表現がメトミニーである。先の「メガネ」のメトミニーの例とは異なって、「ミュシャの作品のヒカリエホールでのデジタル展示」と「ミュシャその人」は物理的には隣接していないが、関係性としては隣接している。

 メトミニーにおける隣接性は物理的な隣接性を思い浮かべやすいが、別に物理的隣接性に限定されたものではない。

 最後に、「シネクドキー(提喩)」について見てみよう。

 シネクドキーは2パターンあって、上位概念で下位概念を表すシネクドキーと下位概念で上位概念を表すシネクドキーがある。それぞれ、具体例を見てみよう。

 まずは上位概念で下位概念を表すシネクドキーの前者のパターンについて、情景が思い浮かぶ例で見てみよう。

 居酒屋チェーンで隣の女性グループがワイワイと楽しそうに会話をしている。ある女性が「ねぇねぇ、最近なんかキレイになってるんだけど男できたの?」と仲間の女性を揶揄っていたとしよう。この女性の言葉の中の「男」が指し示す対象は「交際相手の男性・ボーイフレンド」である。つまり、本来は男性全体を指す「男」という単語が、男性全体からすれば一部にすぎない「交際相手の男性・ボーイフレンド」を指す表現となっている。このような上位概念で下位概念を表す比喩表現がシネクドキーの前者のパターンである。

 次に下位概念で上位概念を表すシネクドキーの後者のパターンは、一時期は詭弁の代表格のような勢いで取沙汰されていた「ごはん論法」で注目された、詭弁ではない一般的な表現での比喩表現が典型例である。

 さて、「ごはん論法」は下位概念で上位概念を表すシネクドキーの構造を悪用した詭弁である。

 「あなたはゴハン(=上位概念:食事)を食べましたか?」と質問したとき、下位概念で上位概念を表すシネクドキーを用いて表現している。このとき、食事としてはパンを食べたが米の飯は食べていないので「いえ、私はゴハン(=下位概念:米の飯)を食べていません」と回答することは、下位概念で上位概念を表すシネクドキーの構造を知りつつ、それを無視した詭弁である「ごはん論法」となる。

 まぁ、ごはん論法のような不穏な例ではなく、もっとハートフルな、シネクドキーの後者のパターン例を出すならば以下のような例が挙げられるだろう。

 バレンタインデー前にデパートで若い女性2人が「友チョコはマシュマロでいいかなぁ?」「クッキーの方が無難じゃない?」という会話をしていたとしよう。この会話における「チョコ」は、下位概念であるバレンタインデーに配るチョコレートを指しているのではなく、バレンタインデーに配る候補となり得る上位概念のお菓子全般を指している。このような比喩表現が下位概念で上位概念を表すシネクドキーの後者のパターンである。


■象徴としてのファルスと去勢と比喩表現

 本稿の冒頭にて、ファルス概念が「自由自在に自己と快とを結びつける何か」の象徴であることと、典型的に当てはまる具体的身体器官が男根であるから象徴となったことを述べた。このことに関して、これまで見てきた比喩の性質から考察していこう。

 さて、男性器に限らず女性器であっても性器に触ることで自己と性的快感を結びつけることは可能である。また、幼児自慰は別に男児に限定される行為ではなく、女児であっても広く見られる行為である。つまり、「ファルス=男根」と言いつつ、女性器も含む「自由自在に自己と快とを結びつける何か」である。

 まず、性的快感に限定して考えてみても、「ファルス=男根」との表現がシネクドキー(提喩)に当たることが理解できるだろう。

 では、次に考えるべきは「自由自在に自己と快とを結びつける何か」における「快」が性的快感に限定されるのかという点である。もちろん、源流に近いフロイト理論では性的快感に限定される。しかし、性的快感が変形して他の快感になるといった、快不快についてのフロイトの源流に近い解釈はかなり不自然である(註)。もっと素直に、性的快感も含む快感・不快感全般として考えるほうが自然である。

 より一般的な形で快不快の領域を広げて考えた場合、「ファルス=男根」の比喩表現としての、下位概念で上位概念を表すシネクドキーが指し示す「上位概念」の範囲は広がっていく。すなわち、「男児の性的快感→男児女児双方の性的快感→幼児が感じる快感全般」といった形で広がっていくのだ。

 情景が思い浮かぶ形で幼児が快感をどのように望むか、また、それらの快感を得る事の保護者による禁止が幼児にとってどのようなものであるかを具体的に考えてみよう。

  • 性器を触って性的快感を得ていたい

  • 好きな苺だけを食べていたい

  • 夜寝る前でもリンゴ味の飴を舐めたい

  • アンパンマンのビデオを好きなだけみていたい

  • まだまだ布団のなかで寝ていたい

  • 家に帰らずに遊園地でずっと遊んでいたい

 上記のような「好きなだけ飲んで食べて寝て起きて遊びたい」という状態になることは大人でも夢想する。この桃源郷にずっと居たいと感じることに関して、大人にも増して幼児だと猶更感じることだ。それが妨げられるとき、床を転がり回り、足をバタバタを打ち付け、保護者を困惑させる。

 もっとも、最終的には「いい加減にしなさい!」と保護者に叱られて首根っこを掴まれてひっぱり上げられる。つまり、「好きなだけ飲んで食べて寝て起きて遊ぶ」を可能にし、「自由自在に自己と快とを結びつける何か」は、幼児の認識において保護者によって自分から切り離されている。

 なぜ性器を触っていてはダメなのか、なぜ苺だけを食べていてはダメなのか、なぜ夜にリンゴ味の飴を舐めてはダメなのか、なぜアンパンマンのビデオを見るのをやめなければいけないのか、なぜ布団の中にいつまでも居てはいけないのか、なぜ遊園地でずっと遊んでいてはダメなのか、・・・。

 エディップス期の子供の認識能力の範囲では理由が分からない。認識能力に限界のあるエディップス期の子供にとって、これらの禁止はすべて「保護者が禁止するからダメなこと」なのである。

 幼児は何が快であり、何が不快であるかを認識している。しかし、それらの快不快について「自由自在に自己と快とを結びつける何か」は持ち合わせていない。いや、より正確にいうならば、エディップス期の子供にとって自分が持ち得るであろう「自由自在に自己と快とを結びつける何か」は、保護者によって奪われているのである。

 そして、この「自由自在に自己と快とを結びつける何か」を、源流から離れたフロイト理論の枠組みでは「ファルス」と呼んでいる。そして、エディップス期の子供の認識下における「自由自在に自己と快との結びつき」を保護者によって禁止されることを、「保護者によるファルスの去勢」と表現するのである。



 因みに上記の話との関係で言えば、好きなだけ飲んで食べて寝て起きて遊ぶことによって充足される快感を「変形した性的快感」と解釈することは、私個人は不自然だと思う。

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