『ごんぎつね』の技法分析(4)
『ごんぎつね』の技法分析シリーズは、ヒロなんとか氏の「物語の才能」の枠組みを筆者が学習すると同時に『ごんぎつね』で用いられている技法を見ていく記事である。
また、一先ずの方針として、学習範囲の「物語の才能」の枠組みをまず他の作品に適用してその勘所の把握に努める。しかる後『ごんぎつね』にもその枠組みを適用する形を取りたいと思う。それというのも、「物語の才能」において説明に用いられている具体例の作品と『ごんぎつね』との方向性が異なることがままあり、勘所を把握していない状態で説明文そのままを『ごんぎつね』の分析に適用することに私が不安を覚えるからである。
ただし、この行為によって「物語の才能」の該当箇所に関する曲解が生まれている可能性も否定できない。その辺りに関しては当記事および当シリーズをご覧になる読者諸賢の判断に委ねたい。
今回の学習範囲は、以下のヒロなんとか氏の「物語の才能」における「面白いストーリーの作り方」の中の「当初の目的とは違うものを手に入れる」である。また、振られた節番号は筆者による。
1.2.4 当初の目的とは違うものを手に入れる(上)
ヒロなんとか氏は上記の引用文にあるように、ストーリーの結末の型は「当初の目的とは違うものを手に入れて終わり」の型を基本形としている。また「物語の才能」で具体例として示されているストーリーの型をみると、「当初の目的は未達でそれとは異なる(それよりも主人公にとって重要な)別の何かを手に入れて終わり」になる型となっている。
だがこれは、ヒロなんとか氏がクリエイター側の観点で推奨しているストーリーや結末の型であるので、作品の鑑賞の枠組みとして考えると不都合な面が存在する。なぜなら、傑作とされる文学作品をみてみると必ずしも上記のの型に収まるわけではないからである。
そこで、まずはストーリーの型にはどのようなものがあるか分類してみよう。
ストーリーの型の分類
当初の目的、当初の目的とは異なる別の何か、主人公が達成あるいは獲得するものに関して場合分けをすると、以下になる。
当初の目的も別の何かも主人公は達成・獲得する
当初の目的は達成・獲得するが、別の何かは達成・獲得できない
当初の目的は達成・獲得できないが、別の何かは達成・獲得できる。
当初の目的も別の何かも主人公は達成・獲得できない
「物語の才能」においては、「ストーリーの基本はタイプ3のストーリーの型であるべきだ」としている。そして、なぜタイプ1のストーリーの型にしてはいけないかその理由を後の章で詳しく解説している。
ただし、この事に関しては「物語の才能」では悲劇の作品をあまり想定していないことに起因するものと感じられる。作品が悲劇であればタイプ2~4は当然として、タイプ1も確実に失われる運命を示せば、十分に悲劇の名作になり得る。
具体的にそれぞれの結末を持つ悲劇作品をこれまで見てきたものを中心に挙げよう。
新美南吉『ごんぎつね』
トルストイ『アンナ・カレーニナ』,マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』
伊藤左千夫『野菊の墓』
プーシキン『スペードの女王』
タイプ2のストーリーの型の悲劇作品はこれまで取り上げていないので2例挙げたが、見ての通り悲劇作品はストーリーの型の自由度は高い(※1,※2,※3)。
だが、作品が悲劇作品ではないのであれば、基本的にはタイプ3のストーリーの型である。これまで見てきたドストエフスキー『罪と罰』もアラン・シトリー『長距離走者の孤独』もそうであったことを再確認して欲しい。
この事に関して注意と予定を述べておく。悲劇でない作品において「当初の目的をそのまま達成する」というストーリー展開は、フィクションよりもノンフィクション向けのストーリー展開であると、「物語の才能」の後の章で詳しく述べられている。したがって、その件についてはまた後程扱う。
この節で見ていく作品
この節で見ていく作品は、ヘミングウェイ『老人と海』、梶井基次郎『檸檬』、『ごんぎつね』である。
ストーリーの型において、作品は必ずしもタイプ3に限るわけではないことは見たが、悲劇作品ではないなら作品は基本的にタイプ3である。したがって、タイプ3の作品を2つ見ていくことで「当初の目的とは違うものを手に入れる」ことの重要性とウラのストーリーの重要性を学ぶ。
残念ながら『ごんぎつね』は悲劇作品であるため、先に述べたようにストーリーの型がタイプ3の構造をしていない。それゆえ、「当初の目的」に関する部分が「物語の才能」で推奨されているものと少し異なる。
まず、『老人と海』を見ていく。この作品は「物語の才能」における「当初の目的とは違うものを手に入れる」の節で述べられた内容をそのまま当てはめて考えることの出来る作品である。『老人と海』では主人公の老漁師サンチャゴが当初の目的とは違うものを手に入れるストーリー展開になっており、また、オモテのストーリーとウラのストーリーの2枚合わせの構造になっている。『老人と海』を分析することで「主人公が当初の目的とは違うものを手に入れる」ことが作品において如何に重要であるかを確認する。
次に、『檸檬』を見ていく。オモテのストーリーに関しては起伏がほぼ無い『檸檬』を見ることで、ウラのストーリーが作品において如何に重要かを見ていこう。
最後に『ごんぎつね』をみていく。ストーリーの型としてはタイプ1であるが、「オモテのストーリーとウラのストーリーの2枚合わせ」の構造を『ごんぎつね』は持っている。『ごんぎつね』に関してはこの節ではそこを見ていくことにする。
「物語の才能」における「当初の目的とは違うものを手に入れる」の節を見ていくにあたってまたしても長編になってしまったので、上中下に記事を分割する。「当初の目的とは違うものを手に入れる(上)」では、ヘミングウェイ『老人と海』を用いて「主人公が得た当初の目的とは別のもの」をみていく。また「当初の目的とは違うものを手に入れる(中)」では、梶井基次郎『檸檬』を用いて「ウラのストーリーの重要性」を明らかにしていく。そして「当初の目的とは違うものを手に入れる(下)」では『ごんぎつね』に関して「オモテのストーリーとウラのストーリーの2枚合わせ」の構造をみる予定である。
■『老人と海』:主人公が得た当初の目的とは別のもの
『老人と海』は「題材をカジキ漁にとった、自然の脅威と峻厳さに翻弄されつつも、屈することのない人間の精神を描いた小説」との説明が為される作品である。つまり、よくある説明の時点でオモテとウラのストーリーの存在が示唆されている。それだけ明確にオモテとウラのストーリーが表現されている作品という事なので、今回の「オモテとウラのストーリー」という構造を示すにはうってつけの作品である。更に、「当初の目的とは違うものを主人公は手に入れる」という構造も、これ以上ないくらいハッキリしている作品でもある。この点でも今回の記事で取り上げる例として非常に都合がよい。
『老人と海』という作品の概要
『老人と海』がどういう作品か、日本大百科全書の「老人と海」の解説を確認しよう。
上記の解説には書かれていないが、老齢である事に加えて84日間の不漁によって主人公サンチャゴは周囲から軽侮される。また、自身も飄々としている姿を見せながらも自尊感情が磨滅していっているのが端々から窺える。そのような状況の中、解説にあるように巨大なカジキは苦闘のすえ釣り上げる。しかし、その釣り上げたカジキはサメに食べられてしまい骨しか残らない。だが、サメとの格闘のなか屈しない精神を得るのだ。そして、持ち帰った巨大な骨をみた周囲の漁師からそれだけ大きなカジキを釣り上げる力量をもった漁師としてサンチャゴは敬意を受ける。
つまり、当記事の目的に沿って簡潔に示すと以下のようになる。
『老人と海』
オモテ:カジキを釣るストーリー
ウラ:屈しない精神と敬意を得るストーリー
当初の目的:売り物になるカジキを得ること
主人公にとって重要の別の何か:屈しない精神と敬意
さて、なぜ『老人と海』が上記のような構造(タイプ3のストーリーの型)であり、その構造によって名作になっているかを考えていこう。
主人公は何を間違っていたか
『老人と海』の舞台は「陸上-海上-陸上」と移り変わる。メインは海上の話なのだが、前者の陸上のパートも非常に重要である。なぜなら、ここに主人公サンチャゴの間違いを示されているからだ。この陸上の話においてサンチャゴは人生が老いによって緩やかに朽ちていくことを飄々と受け入れている。人生への諦念がその飄々とした態度を生み出している。
だが、海上での戦いにおいて、そんな人生への諦念は間違っているとサンチャゴは気づく。『老人と海』における名言とされる部分を引用しよう。
人間は老いを含む様々なものによって殺される。だが、それで死ぬのだとしても、そんなものには人間は負けない。そういった人間の在り方、人生の在り方をサンチャゴは主張するのだ。
それは、はじめの陸上のパートにおけるサンチャゴの緩慢な自殺ともいえるセルフネグレクトの姿勢の間違いを示すものだ。
そして、人生が老いによって緩やかに朽ちていくことを諦念から受け入れていたことに関しても変わっていく。それを示す部分は以下である。
最後の陸上のパートにおいてもサンチャゴは飄々としているが、それは人間は老いを含む様々なものによって殺されることを知りつつも、それによって人間は負けることは無いとの希望を持っているからだ。
前半の陸上のパートでサンチャゴが飄々としているのは諦念による。だが後半の陸上のパートでサンチャゴが飄々としているのは希望によるのだ。そしてそれは「人間の在り方、人生の在り方」について認識が変化し、屈することのない精神をサンチャゴが手に入れたゆえなのである。
もし「当初の目的」を達成していたら?
さてここでサンチャゴが巨大カジキを水揚げできた仮定のストーリーの場合を考えてみよう。
長い不漁で生活も苦しくなった、年齢による衰えが大きい老漁師が、巨大カジキを釣って帰ってきて、カジキの売却代金も手に入って主人公は一儲け、そして周りにもまだまだやれることを示したといったストーリーだったとしよう。
すると『老人と海』は一気に駄作になる。なぜだろうか。
84日間の不漁によってサンチャゴの金銭事情と周囲からの軽侮は悪いものになっている。だが、巨大カジキを水揚げできたならば、金銭事情も周囲からの評価も好転するだろう。つまり、ショートスパンでみたサンチャゴの人生は一変する。
だが、それで本質的にサンチャゴの人生は一変するだろうか?
巨大カジキの売上代金を使い切ってしまえば金銭事情は元通りになる。そして何より、時間が経てば経つほどサンチャゴは衰えていくのだ。巨大カジキを釣り上げた今回は良いだろう。だが、さらに老いて衰え、漁に出れなくなってしまえば、人生を好転させた巨大カジキを再び得ることは不可能になる。つまり、最終的には老いに負けてサンチャゴは人生に対して希望を持てなくなってしまうのだ。そしてそれは、はじめの陸上のパートのサンチャゴの間違った状態と同じである。
もし『老人と海』のストーリー展開が、巨大カジキを水揚げできたストーリーだとすると、それは元の木阿弥になる人生を描いた駄作に過ぎなくなる。
『老人と海』のストーリー展開において、当初の目的である巨大カジキ水揚げをサンチャゴが達成できなかった代わりに「屈することのない精神」を手に入れたからこそ、老いによっても負けない人生をサンチャゴは手に入れることになるのだ。
『老人と海』はなぜ名作なのか
ヘミングウェイが『老人と海』で示した人間の在り方は、パスカルが『パンセ』でも述べている。
もっとも、パスカルは続く箇所で「人間の尊厳は考えることにある」と主張する点で、『老人と海』でヘミングウェイが示したものとは異なる。だが、「そりゃ人間は殺されるかもしれない、けれど負けはしないんだぞ」という根本的な人間の在り方の認識において、パスカルとヘミングウェイは共通している。
そして、人間の在り方を示しているからこそ『老人と海』は名作となっている。
余談:『老人と海』と映画『ロッキー』の類似性
余談なのだが、『老人と海』の構造は「物語の才能」で挙げられた映画『ロッキー』と殆ど同じといっていい構造を持っている。もっといえば、『ロッキー』は『老人と海』の翻案なのではないかと感じる。対応関係を示してみよう。
人生を諦めていた主人公のロッキーとサンチャゴ
主人公を全面的に信じ応援する、恋人エイドリアンと少年マノーリン
主人公が格闘する日常から離れたリングと海
当初の目的である巨大なトロフィーとしてのチャンピオンベルトとカジキ
格闘でズタボロになっても闘志を失わないロッキーとサンチャゴ
チャンピオンには勝てないロッキーとカジキを水揚げできないサンチャゴ
そして人生を取り戻すロッキーとサンチャゴ
上記のような対応関係を推測できる『ロッキー』はアメリカで大ヒットした。つまり、アメリカが他の国より増して不屈の精神をとても大事にする風土だからこそ『ロッキー』は大ヒットしたのだとの印象を受ける。世界的にみても当然ながら『老人と海』は名作なのだが、作品を書いたヘミングウェイがアメリカの文豪だけあって、世界中のどの国の人よりアメリカ人の琴線に触れる作品なんだろうなと映画『ロッキー』を思い返すとより強く私は感じる。
「当初の目的とは違うものを手に入れる(上)」のさいごに
今回の記事では、悲劇作品のストーリーの型に関して、ヒロなんとか氏の「物語の才能」が推奨するストーリーの型とは異なる型もあることを確認し、『ごんぎつね』が「物語の才能」が推奨するストーリーの型ではない点に注意を促した。
また、ヘミングウェイ『老人と海』の主人公の当初の目的とはなにか、最終的に主人公が得たものとは何かを確認することで、ストーリーにおいて「当初の目的とは違うものを手に入れる」ことの重要性を見た。
「当初の目的とは違うものを手に入れる(中)」においては、梶井基次郎『檸檬』を詳しくみていくことでウラのストーリーの重要性と作品の理解におけるテーマの重要性を確認する。
また、「当初の目的とは違うものを手に入れる(下)」においては、『ごんぎつね』のオモテのストーリーとウラのストーリーの二枚合わせの構造を見ていくことにする。
(1.2.4 当初の目的とは違うものを手に入れる(中)につづく)
註
※1 トルストイ、プーシキン、ドストエフスキー、あるいはシェークスピアのような姓だけを書く作家と、マーガレット・ミッチェル、アラン・シトリー、ジェイン・オースティン等の姓だけでなく名も書く作家が居ることに違和感を感じる人もいるかもしれない(エミリー・ブロンテは姉にシャーロット・ブロンテがいるからまた別)。この扱いの差は私の独断による知名度の差に基づく。なんとなく、姓だけで良いと感じる作家と姓と名の両方を記した方がよいと感じる作家がいるのだ。別の例で譬えれば、歌人に関して柿本人麻呂や藤原定家は人麻呂、定家とだけ書いてあっても良いように感じるのに対して、文屋康秀や清原元輔については二人が六歌仙や三十六歌仙(さらに清原元輔は清少納言の父)であるにもかかわらず、書いてあるのが康秀や元輔だけだと個人的には違和感を感じるようなものである。つまり、なにか明確な基準によって区別しているわけではない。
※2 別の読みをすれば、『ごんぎつね』はタイプ4「当初の目的も別の何かも主人公は達成・獲得できない」とも解釈できなくはない。アクロバティックな読みをすれば、タイプ2や3の読みも(敢えてそう読む必然性は無いと私は思うが)可能かもしれない。また、『風と共に去りぬ』に関しても、あの有名なラストシーンでのスカーレットの台詞から『風と共に去りぬ』を悲劇とは捉えず、不撓不屈の精神を描いたヒューマンドラマと解釈する向きもあろう。つまり、あのラストの状況ではスカーレットがレットの愛を取り戻せないだろうなと感じる人にとって『風と共に去りぬ』は悲劇であるが、レットの愛を取り戻せると感じられる人にとっては悲劇ではない。もっとも、あそこまでいったならレットの愛は取り戻せないだろうなと私個人は感じるが。
※3 伊藤左千夫『野菊の墓』に関して、なぜタイプ3なのか納得のいかない人もいるかもしれない。そのため『野菊の墓』を少し解説をしておこう。
『野菊の墓』もまた間違いが正されるストーリー展開を持つ作品である。そして、ストーリー展開によって正される間違いは作品のテーマに密接に関係する。そこで『野菊の墓』ではなにが正されたのかを見ることで『野菊の墓』のテーマを見ることができる。
では、『野菊の墓』では誰が間違っていたのか。それは主人公やヒロインではなく周囲が間違っていたのだ。
「物語の才能」においては主人公が間違っているタイプの作品を推奨するが、名作となり得るストーリーの型として周囲が間違っているタイプのものもある。これまで挙げた作品では『長距離走者の孤独』も周囲が間違っているタイプのストーリーの型である。つまり、テーマを示すには何かが間違っている必要があるのだが、間違っているのは主人公側でもよいし周囲の側でもよい。
さて、話を『野菊の墓』に戻そう。
『野菊の墓』において主人公とヒロインの周囲は、下種の勘繰りを行い、世間的な外聞を重視して、主人公とヒロインの仲を裂く。そして自分たちの家の都合を押し付けて、分限者の家にヒロインを嫁がせてしまう。その後、ヒロインは産褥で死んでしまう。
ヒロインの死によって周囲は自分達が間違っていたことを知る。そして、自分達が重視していたものなど主人公とヒロインの純愛に比べて如何に価値が無いものであったかを痛感する。そして、自分たちの無理解について主人公に詫びるのだ。つまり、このストーリー展開で『野菊の墓』におけるテーマが純愛であったと読者は確信できるのである。
そして、この周囲の謝罪によって主人公とヒロインの純愛は(ヒロインが亡くなっているので結ばれはしないが)周囲からも認められることになる。又、ヒロインの永訣の話を聞き、自分たちの純愛の確かさを主人公は再確認する。
さて、当然ながら主人公の「当初の目的」はヒロインと結婚し幸せに暮らしていくことである。だが、主人公はそれを得られていない。一方で、主人公はヒロインとの純愛を再取得する。したがって、『野菊の墓』はタイプ3「当初の目的は達成・獲得できないが、別の何かは達成・獲得できる」とのストーリーの型であると判断できる。