シリーズせんまや百人図鑑第一弾。『渡邉京子さん』
せんまや人物図鑑第一弾。
記念すべき第一弾に取材させていただいたのは『渡邉京子さん』。
出身は千葉県香取市で緑のふるさと協力隊として1年間岩手県一関市千厩(せんまや)町に派遣され、任期終了後の現在は千厩に定住し、町内の農業法人で働いています。
大学でも農業を学んでいたという京子さん。農業に興味を持ったのは幼い頃から土遊びが好きだったこととと、何より動物が好きだったことがきっかけでした。
動物に関わりたいと畜産を専攻し、研究室では様々な動物のお世話や、サークル活動でもカエルやサンショウウオなどの野生生物の生態調査を行うなど、常に生き物が身近にいる学生生活を送っていたといいます。
学生時代から緑のふるさと協力隊の存在は知っていたという京子さん。途上国に派遣される青年海外協力隊にも興味があったと言いますが、「まずは就職」と考えて千葉の養豚会社に就職。生き物の命に関わる仕事のため朝は早く、夜は遅い生活をしていくうちに、いつの間にか月日が経っていたと言います。
そんな時、緑のふるさと協力隊の存在を思い出し、自分を試したいと一念発起して仕事を退職。はじめは青年海外協力隊に応募するつもりだったといいますが家族の反対があったため緑のふるさと協力隊に応募。千厩への派遣が決まりました。
「はじめは1年間だけいるつもりだった、だから、これが最後のつもりで何でもやってみた。」と語る京子さん。
千厩に住み始めた頃は、呪文のような方言に戸惑ったと言います。千厩地域では相槌に使われる「だから」も標準語圏では接続詞。「だから」という言葉の後ろに何か来ると思って待っていたのにいつの間にか会話が終わってしまっていた。という経験も。極め付けは「あべ」。千厩地域では行こうという意味で使われますが、当時は知らず「京子ちゃん、あべ、あべ」と言われたことを苗字を間違われていると思って「私は伊藤です(当時の姓)」と答えてしまったこともあるそう。
また、朝が苦手な京子さんが大変だったと語るのは、みんな朝が早いことでした。早朝、まだ寝ている時に、家の呼び鈴で起こされることも多かったそうで、初めの頃は頑張って起きて対応していたと言いますが、関係性ができてくるうちに「今寝てるから後にして」と、布団に入りながら言えるようになったと言います。
そんな京子さんの、緑のふるさと協力隊時代の一番の思い出は、当時の借家前の小さな田んぼで米づくりをしたことだと言います。自分で米づくりをしたいと、持ち主を説得して田んぼの一部を借りることに成功。「自分でやってみらい」と言葉をもらい、昔ながらの方法で田植えから脱穀まで全て手作業で行いました。コツを掴むのが難しくそれぞれの工程で苦戦したと話す京子さん。植えたばかりの苗が倒れてしまっているのを見つけて「帰ったら直しておこう。」そう思って帰宅すると、なんと苗が綺麗に植え直されていました。秋に、刈り取った稲穂を干したものが倒れてしまっていた時も、いつの間にか元通りに。地域の方がこっそり直してくれていたのだとか。
小さな田んぼから、地域の人の手助けを経て出来上がったお米。
「はじめてお米を食べて泣いた。人との関わりを米づくりを通して学べたいい機会だった。」と京子さんは語ります。
緑のふるさと協力隊の任期の1年間で終わるつもりだった京子さんの千厩生活でしたが、地域のみんなが可愛がってくれてくれたこと、そして自分に役割を与えてくれた方々への恩返しのために千厩に残ることを決意。現在は町内の農業法人で水稲や大豆、スイートコーンの栽培から、麹や味噌作りを行っています。
そんな京子さんには夢がありました。
「農家さんは生産で精一杯。地域で自給自足できるマーケティングの仕組みづくりや、農泊のような、誰でも農業を体験できる場所をつくりたい。」
廃棄野菜を利用し農家さんを助ける取り組みや、体験型農業を通して人と人とを繋ぎ、たくさんの人に農業を知ってもらいたいと、京子さんは語ります。(取材:遠藤)
【編集後記】
千厩の人曰く、京子さんは「地元の人より千厩に詳しい」とのことでした。私生活でもアクティブで、三味線や民謡の教室にも通い、日本酒が大好きな京子さん。人脈も広く、すぐ人に繋げてくれるので何度も助けて頂きました。農作業用のトラクターを操縦する姿がとてもカッコ良かったです。