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本日の一曲 vol.517 フェラ・クティとロイ・エアーズ:2000人の黒人が開放される (Fela Kuti & Roy Ayres: 2,000 Blacks Got To Be Free, 1980)
フェラ・アニクラポ・クティ(1938年10月15日生~1997年8月2日没)さんは、ナイジェリアのミュージシャンであり、いわゆるアフロビートの先駆者であるとともに、ナイジェリアの軍事独裁政権と闘った政治活動家でもありました。政治活動においては、軍事独裁政権の腐敗を告発し、自由・民主・平等を求め、「アフリカ人の誇り」を取り戻そうとしていました。そして、「カラクタ共和国」というコミューンを設立し、政府からの独立を宣言したりしていましたが、弾圧を受けました。
音楽面では、20歳のころの1958年、ロンドンのトリニティ音楽大学に留学し、トランペットを学び、1963年の帰国後、本格的に音楽活動を始めました。フェラ・クティさんは、自らの音楽を「アフロビート」と名付け、その音楽を完成させました。
フェラ・クティさんは、1974年に警察によって拘束され、「カラクタ監房」(「カラクタ」とは現地の言葉で「カルカッタ」のこと)に収容され、釈放後、自宅を前述の「カラクタ共和国」と命名して、同志と共同生活をするようになります。1977年に軍隊の襲撃を受け、建物は焼失、フェラ・クティさんの母親のフンミラヨ・クティさんはこの襲撃のときに受けた怪我が原因で、翌年に亡くなりました。フェラ・クティさんは、裁判を経て、結果的には釈放されましたが、「カラクタ共和国」の名称は禁止されました。
一方、ロイ・エアーズ(1940年9月10日生)さんは、アメリカのジャズミュージシャンでヴィブラフォン奏者です。音楽の分野としては、主にジャズ・ファンクでしたが、ロイ・エアーズさんがナイジェリアを訪れたときに、フェラ・クティさんと知り合って意気投合したと言われています。その成果が1970年代後半の6週間のナイジェリアのツアーと1980年のアルバム「Music Of Many Colors In Nigeria」のリリースでした。
このアルバムから「2000 Blacks Got To Be Free」です。
その後、フェラ・クティさんは、1981年にエレクトリック・サウンドを導入した「オリジナル・サファー・ヘッド(Original Sufferhead)」をリリースし、このころから日本でも日本版が発売されるようになりました。
このアルバムから「パワー・ショウ(Power Show)」です。
このころのサウンドは、日本でも暗黒大陸じゃがたらなどに強い影響を与えました。
この後の1984年、フェラ・クティさんは通貨密輸の罪で投獄されましたが、20か月後に釈放され、数年間は音楽活動をしていたものの、1990年代からアルバムのリリースがなくなり、1997年8月3日、エイズ関連の合併症で亡くなりました。
(by R)
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