荒川洋治 『真珠』と格闘する
荒川洋治氏の最新詩集を読む,いえ,読もうとしている。あまりに読めないので現代詩手帖の12月年鑑の佐々木幹郎,藤原安紀子,石松佳三氏の鼎談を参照しながらよんでみた。分からない。このわからなさは,私の理解力の乏しさによる。それは確かなこと。この詩集が近年稀な、画期的で詩の愉しさを十分味わえる詩集であるとされる藤原さんの読み,背景を示唆する佐々木氏の解説でようやく掴んだこと。
それはこの詩集が現代詩の最先端,最前線,独走するトップランナーの総集編だということ。荒川洋治氏は,叙情を否定しているし,それは他の現代詩人の多くに共通する認識だとおもうが、叙情なくて何が詩歌かとおもっている旧世代のわたしが荒川洋治氏の作品の良き読者であるわけはないのだ。それでも現代詩を書く限りは,氏が何を試みているかは知りたかった,それが少しわかったように思う。
巻頭の,タイトルポエムである 『真珠』という作品の一行目,エピグラムのように置かれた
身の程が輝く真珠
という言葉,それに続いて平日の四時ごろ老夫婦と思われる男女の喫茶店での会話がことこまかに語られる。男性の方が一方的に語る野球の話から
異常な細かさが世の根幹となる
という評言になる。ここがこの詩の根幹なのだろう。
そこから歴代社会党党首の話になり,社会党は数は大したことなかったが愛敬があったね,というご老人の批評になる。この辺の描写には荒川氏の思想が出ているのだろう。荒川氏は,朝日新聞絶対善、産経新聞絶対悪という思想の人だし,反権力が正当だという方なので、本詩集のあちこちにその要素は垣間見られる。詩人という種族はこういう立場の人が殆どでしょうから,支持されるのも当然なのかもしれない。とすると、このご老人は,荒川氏その人ではないかと思う。その,異常な細かさに、この詩集全編がみたされているのだ。細かい,表面には見えにくい、
細かい事実が真珠のように輝く,世の根幹なのだと,言っているのだと思う。
歴史や地理,あるいは文学作品の詳細な事実をしらなければこの詩集は全く読めない,つまり,私に読めなくても全くしかたのないことなのだ。私ばかりか、詩人ならぬ一般の読者には、読めなくてあたりまえなのだ。背景をそれこそ細かく調べると,とても面白く示唆に富み、そこからある情感が、詩情が滲み出るということなのだろう。やはり現代詩は,相当の読書家,知識人でしか書けない,読めないのかという私の批判に帰結してしまうのです。
今の所ここまでが私の拙い感想です。おいおい,さらに考察したことを,書き継いでいきたい。