『詩と思想』誌2024・11月号 荒川洋治特集を読んで
要介護3の夫の介護、病院の付き添い、家事と庭の管理などで疲弊の日々、自分のための時間がほとんどとれずnoteの記事を読むことも中々かなわず、むろん書く時間もなかったが、病院の待合室でようやく『詩と思想』の11月号を読むことができた。荒川洋治の特集だったから、なんとしても読みたかった。現代詩手帖ならぬ詩と思想誌が荒川氏を取り上げる等、それだけでも心に引っかかるものがあったからだ。恐らく小川英晴氏の荒川氏への傾倒ゆえの企画だろうと推測する。
とても読みたかった。
そして、読んだ。
結論、とても面白かった。が、無益だった。私の詩作にとっては。
誰もマネできず、後を追うこともできない、今や独走というか唯我独尊というか、詩の世界のてっぺんにいる人、天才と言われる人の営為を読んで、感嘆はすれど理解も及ばない自分の力を思い知ってうなだれるばかりである。こういう世界の、「末端にいるぞ、わたしは」、と「あたらしいぞわたしは」をもじって言いたくなる。
ただ、名だたる詩人、評論家のかたがたの座談会は、面白かった。詩に力があり、普通の学生たちが現代詩文庫を書棚に並べていた時代を知っている方々の昔話と現代の状況の落差。若人が詩に何かの力を感じ、欲していた時代と今との違い。社会の変化が詩ばかりでなく、文学を衰えさせているのだ。 文学が力を失ってきているのだ。それでも,虹が消え去ることがないように、朝焼け夕焼けが見られなくなることがないように、私は詩が死ぬことはない、と思う、からこそ詩を書いているのです。垣間見えた詩人型の本音、高名な詩人や評論家でも、詩が分かってない とコメントされていたのに、ひざを打ちもした。そうなんだ、難し気な評論を読んでもふ~んとしか思えなかった事再々だったから。
本誌には様々な評論も掲載されているのだが、読んで参考になったものは少なかった。皆さん、荒川洋治を分かっているように書いておられるのだが、どこをどういう風に読み解けばいいのかは全く分からない。ただ珠玉のフレーズとかで
方法の午後、ひとは,視えるものを視ることはできない。
キルギスの草原に立つひとよ
君のありかは美しくとも
再び ひとよ
単に
君の死は高低だ
「 キリギス錐情」
を上げている人が多い。私には全く意味不明のこのフレーズが今までにない新しさと美しさを備えた素晴らしい詩句だと、各評論の書き手の方々は言う。方法の午後って、どういう事?などと思う幼稚な私などは置いてけぼり。意味など追う必要はないのでしょう。でもところどころ私にもつながりが分かる部分もあるので、分かったようなわからんような中途半端な気持ちと、この美しさが分からない私は能力不足なんだという惨めさで、不快になるばかりなのだ。たぶん、ひねりにひねってあるのでほどけない糸の玉のような仕掛けなんだと思う。そもそもキリギスというほとんど場所も分からない地名が謎をもたらす。そして錐情、(たぶんスイジョウと読むのかな、)というのだからきっと情緒のある地なのだろうと、錐とキリはかけてあるのね、くらいしか分からない。この未知の地の草原に立つ人がいて、その人の死は高低だと。
何が何だか分からないこの詩句に幻惑されると評する人がいるのだから、分からないけど表現の斬新さに魅了されているのでしょう。そして私も魅了されなければ詩人などと自分を思えなくなる。人間の死に高低があるのだろうか。立派な、穏やかな、名誉な、不運な、不条理な、無念な死などならあるだろう。が高さ低さで死を測るとは確かにユニークである。
わたしは君を
地図の上に視ている
ときおり私のてのひらに
錐のように夕日が落ち
すべてがたしかめられるだけだ
この作品はこうして終わる。この連は美しいと思う。作者は地図をたぶん指でなぞりながらこの想像を繰り広げたのだろう。ただ地図を眺めて。草原に立つひとを想像し創造し、その美しい場所でいずれ死ぬであろうその人の
その死は美しいか惨めか誰にもわからず、ただ高低のように数字ではかられるだけだろう…と思うと架空のこのひとの運命のはかなさが思われる。地図をなぞるてのひらに細くさす夕日がそれを確信させる。何を言いたいという詩ではなくただただ美しい、という詩なのだ、と私流の鑑賞が残りました。決してマネできない技法だとも。