読書会前のメモ
3つのメモを一つにまとめました。
【読書会前のメモ1】
明後日、李さんの本の読書会があるので、改めて熟読しています。
自分用のメモです。
【〝桜庭一樹〟という名の登場人物(ベテラン作家)が出てくる箇所】
(1)p99 『少女を埋める』論争
(2)p152 『少女を埋める』引用
ーー出ていけ。もしくは、従え。
桜庭一樹は小説『少女を埋める』の中で、共同体による同調圧力の力学をこのように形容している。〈美しすぎる娘、よそ者、異能者、マジョリティとは別の生き方をしようとする者は、共同体に変化を促し、平穏を乱してしまう。だからみんなで穴を掘って埋めちゃうんだよ〉〈現状維持することが共同体における正義である以上、異分子(マイノリティ)であることは罪人であることと同義とされる〉と桜庭は書いた。
(3)p356 トランス差別に反対を表明している作家の名簿
(4)p422 同性婚裁判の原告側に寄付
(5)p487 芥川賞授賞式で主人公のLと初対面
「綺麗ごとは大事だと思います」と桜庭は言った。「『少女を埋める』の中でも書いたけど、〈正論は理不尽なことから救ってくれる。だから、大好きだ。立場が弱いとき、わたしは命綱みたいにしがみつく〉」
打ち合わせが終わった後も、Lは桜庭の言葉を噛めしめた。そう、Lにしがみつけるものは正論しかない。正論の鏡をもって照らせば、目の前のすべてがあまりにもおかしい。
【気になった部分の写し】
Lは自分がつけたペンネームをとても気に入っている。柳は高潔な君子の象徴で、千慧は千の知恵を意味する。自分自身を含む人間の営みを俯瞰できる高い知性と、倉念を貫いて正義を見極め、悪に加担しない高潔さ、それこそがLの理想とする作家像である。(p23)
新宿二丁目を舞台として様々な出自を持つ女性の人間模様を描いた『北極星輝かしき夜』も、東京に住むウイグル人女性と台湾人女性の恋愛を描いた『星と月と夜』も、これまでLが日本文学で読んだことのない種類の小説だ。それに極論を言えば、文学をアップデートできない作品に、どんな存在価値があるというのだろうか。(p26)
しかしLは政治家でも首脳でもなく、作家である。政治家ならば時には思想の相違を脇に置き、共闘を選ぶ必要もあるだろうが、思想の相違を脇に置かれた時に犠牲になったのは誰か、と作家たるLは常に考えずにはいられない。国益や国防といった大義名分のもとで、個人などーーとりわけ法の狭間を生きるマイノリティなどーーいとも簡単に切り捨てられるということを、Lは痛いほど分かっている。独立した一個人として、複雑な国際情勢や政治的な現実に否応なしに巻き込まれることはあっても、自ら進んで巻き込まれようとすることは決してあってはならない。(p83)
特定の政権や政治家あるいは社会的事象を批判することはあっても、Lは日本そのものを貶めたことは一度もない。もちろん、両者間の違いも、Lが抱いている複雑な心境も、浅薄な言説を撒き散らすネトウヨや単細胞ネット民にはきっと分かることはないだろう。(p87)
揚げ足を取りたいあまりに、まったく揚がってない足すら取りに行こうとする愚かしさよ!燃料を欲しがるあまり、不燃物にまで火をつけようとするアホらしさよ!
日本のネトウヨも、台湾の単細胞ネット民も、あんなにも国境や国籍にこだわっているのに、皮肉にも自らの愚行をもって一つの事実を示している。バカには国境がないということだ。
吠えたければ、吠え続ければいいさ。Lはもう、怖くない。(p88)
日本の表現の世界では政治的な事柄が忌避される傾向にあるというのは、厳然たる事実だ。それが当たり前だと思われてきた結果、表現の世界は現実の社会ととことん乖離し、あたかも関係のないパラレルワールドのような様相を星す。
マジョリティにとってはそれでいいのかもしれない。フィクションを現実から切り離し、あくまでフィクションとして安心して消費することで、大来的な娯楽文化が作られてきたという事実がある。素晴らしく深遠な作品だってたくさん生み出されてきた。
しかし、マイノリティにとってはそういうわけにもいかない。なぜなら、マイノリティは存在するだけで政治的だからである。「私はここにいる」「私たちは生きている」ーーそう言葉にするだけで、たったそれだけのことで、社会にとっては政治的なことなのだ。それは必然的に、「私たちを無視しないで」「私たちの声を聞いて」という政治的要求に繋がるからだ。
マイノリティとしてマイノリティを描くこと、それ自体が「表象の権力をマジョリティから奪還する」という政治的営為である。そのことの重要さは、日本のメディア表象では過小評価されてきた。そのせいで、マジョリティが消費するための、マジョリティによって想像され、歪曲されて描かれるステレオタイプで非現実的なマイノリティ像が広く流布され、それが現実に生きるマイノリティの生を困難にする。そんな表象を批判されると、例の陳腐な言い訳が作動するーーフィクションだから、面白いものを作るほうが大事だから、芸術性/文学性のほうが大事だから、政治的な意図はないから。そうした言い訳により、フィクション作品は「わたくし」の領域のものとされ、「おおやけ」への回路が切断される。
フィクション作品を「おおやけ」の領域から切断し、純粋なるフィクションとして生産することは簡単だ。「おおやけ」への回路を保ちつつ作品作りをするほうが遥かに難しい。ありがたいことに、「現実」への回路を保ちながらの作品作りを可能とする日本の伝統的な文学ジャンルがある。
「私小説」という。ただ残念なことに、「現実」に一番近いこの「私小説」というジャンルでさえ、その名の通りしばしば「わたくし」の領域に押し込められてしまう。
何か方法はないだろうか、と下手くそ小説家たるLは苦慮する。「おおやけ」への回路を保ちつつ、「わたくし」の領域の事柄を描く方法が。実際、Lがここ一か月半の間に耐えてきた苦しみは、「おおやけ」による「わたくし」への加害の事実抜きには語れないものだ。純然たる「わたくし」の領域の、個人的な物語としては到底片づけられない。
もしそんな語りを可能にするような言葉があれば、それは恐らく「おおやけ」と「わたくし」の間、「フィクション」と「ノンフィクション」の狭間にしか存在しないのではないか、とLは結論づけた。個人的な物語に回収されない、「フィクション」と「ノンフィクション」の狭間にある言葉ー振り返ると、Lはずっとそれを模索してきた気がした。(p104)
言葉は祓(はらえ)だ、とLは思った。厄災に立ち向かい、穢れを浄化してくれる言霊だ。(p106)
「まあ、これも有名税ってやつだね」
「有名税なんてものはないよ」
「えっ?」
「有名税なんて税金はないよ。誹謗中傷は誹謗中傷だよ」(p115)
Lは、ある台湾の記者から取材を受けた時に訊かれた質問を思い出した。
ー一座右の銘は何ですか?
その時、Lは清代の作家・張潮の随筆集『四夢影』の言葉を挙げた。
傲骨不可無、傲心不可有。無骨則近於郡夫、有心不得為君子。
傲骨は無かるべからざるも、心は有るべからず。傲骨無ければすなわち部夫に近く、傲心有れば君子たるを得ざればなり。
傲骨と傲心は、性質の異なる二種類の誇りである。傲骨とは人に屈しない誇りのことで、傲心は人を見下す驕り高ぶる心である。前者は日本語の「矜持」に近く、後者は「驕慢」に近い。
Lは作家だ。相手が言論のつもりで言いがかりをぶつけてくるのなら、言論で反撃する用意がLにはある。魂は売らない。差別には屈しない。それこそがLの傲骨なのだ。(p160)
暴力的な言葉は、言葉でしか抵抗できない。罪穢に満ちた言葉は、言葉によってしか清められない。卑劣な差別者たちが投げつけてくるおぞましい言葉の石がLの体内に溜めてきた毒素、それを解毒できるのはほかならぬ、L自身の言葉だけである。
言葉は祓だ。厄災に立ち向かい、穢れを浄化してくれる言霊だ。(p228)
Lには知識と文学がある。知識はLに客観の目を授け、文学はLに表現の手段を与えた。知識と文学の力があれば、Lは生きていける。これまでもそうやって生きてきた。(p251)
差別は嵐のような天災ではない。一人ひとりの人間でできた集団による人災だ。では、すべてが過ぎ去った後に、差別に加担していた人たちはどうなるのだろうか? 自分たちが犯した罪について何も懺悔せず、何ひとつ咎められないまま、おのおのの日常に戻っていき、人生を謳歌し続けるのだろうか。そしてLだけが彼らの差別行為の、犯罪行為の被害者として、一生苦しみ続けるのだろうか。
そんなこと、許されるはずがない。(p253)
差別者のほとんどが匿名なのに対し、差別に反対する人の多くは実名なのである。(p289)
「世界の大きな流れが、個人の命運に直結するということだよ。『おおやけ』と『わたくし』が切り離せるというのは、ただの幻想」(p299)
そんな目標を達成するためには、対話が必要だ。想像上の怪物と闘うのでも、顔が見えないネット上の匿名アカウントと罵り合うのでもなく、生身の人間同士で、互いの傷の経験について、身体の経験について、今直面している困難について、語り合い、分かち合い、理解できなくとも共有すること、それがフェミニズムの本来の姿だと信じている。フェミニズムは数十年の歴史の中で、数多くの対話と議論を蓄積してきた。様々な立ち位置にいる女性が互いの経験を語り合うことで、人種や貧困層、シングルマザー、セックスワーカーなど、抑圧されているマイノリティへの優しい眼差しを形成してきた。そんな取り組みは今でも必要だ。それは理想に過ぎないと、ネット上の冷笑的な人たちは嘲笑うかもしれない。しかし、理想でいいのだ。今年に入り、ロシアによるウクライナ侵略戦争が勃発した。目の前で戦争が起きている今、理想主義こそ必要だと思う。理想なしでは、私たちは到底生きていけないのだから。(p328)
〈私にとってのプライドーーそれは、自分が何なのかを他人に決めさせないこと。生きるか死ぬかを自分で決めること。「どうせ私なんて」と思わないこと。抗いたいことに抗うこと。逃げたいことから逃げること。誰かに「お前は〇〇だから」とレッテルを貼られたり、「どうせそんなもんだろう」と蓋をされたりする時に、しっかり怒ること。差別や偏見に立ち向かうこと。変に空気を読まないこと。「私たちはここにいる」と言わんばかりに恋人と手を繋いで街を闊歩すること。生き延びること〉(p379)
【読書会前のメモ2】
●「厄災」からの「厄祓い」
物語は台湾出身の小説家のLが、日本で芥川賞を受賞した2021年7月に始まる。Lの友人の高瀬が芥川賞を受賞する1年後で終わる。
物語の最初にLは、2021年が自分にとって「本厄の年」だと気づき、不吉な予感を覚える。
Lは新宿の花園神社で白い服の女性(神?)から「大きなものが崩壊する」「引き返せ」と注意喚起される。
それからの1年間、Lへの誹謗中傷が、日本の文壇からも、日本と台湾のネット民からも、しつこく繰り返された(バカに国境はないから!!!)。それらの被害が「災厄」「穢れ」という言葉で説明される。
Lは作家として、言葉を書き、災厄と戦い続ける。
1年後。Lは若手批評家の水上文(実家は神社で前職は巫女⛩️)による、厄祓いの詔を聞く。次第に霧が晴れていく。
以下、本文のコピー。
Lは女性で、平成元年生まれである。ということは、今年は本厄だ。よりによって本厄の年に芥川賞候補になったなんて! 厄年一覧を眺めながら、Lは不吉な予感がした。(p14)
「厄災はすぐそこまで来ている」
Lの問いを無視し、女性はそう告げた。(p203)
女性の言葉の一つひとつが、刻みつけるような力を持っているようにLには感じられた。「あなたの存在は厄災ではなく祝福で、絶望ではなく希望だ。いつなんどきもそれだけは忘れないでくれ」(p204)
ーーあなたの存在は厄災ではなく祝福で、絶望ではなく希望だ。
新宿の白い霧の中で出会った女性の言葉が、Lの脳裏に蘇った。Lはめまいがして、泣きたくなった。ただいるだけで世界から痛めつけられるような存在が祝福であり希望であると、一体どうすれば信じきれるというのだろうか。
言葉は祓だ。厄災に立ち向かい、穢れを浄化してくれる言霊だ。(p228)
祭場に着くと、スピーカーから音楽が流れ、水上は音楽に沿って巫女舞の奉納を始めた。白と赤の鮮やかな装束と、緩やかに回転しながら舞う優雅な所作。濁った太鼓と悠揚とした笛の音の合間に、透き通った鈴の音が鳴る。Lを含め、参加者たちは水上の演じる巫女舞に目が釘付けになり、醬察と公安までもが怪訝な表情を浮かべながらも見入ってしまっていた。
神々に捧げる鈴の音は、夜闇に覆われる永田町の大地に清らかにこだました。(p448)
●「三度目の出生」の比喩
Lは、この世に生まれた時を「一度目の出生」と、自分自身になったときを「二度目の出生」と定義する。そしてこの本(フィクションとノンフィクションの間の作品)を書くことを「三度目の出生」だと考える。Lは1年後、大きなお腹で臨月を迎え、「李琴峰」を産む。
いつからそう思うようになったのか、もはや思い出せません。
「生まれて、すみません」ではなく、「生まれてこなければよかった」です。自分で選んで、自分の意志で生まれてきたわけではないのだから、生まれ落ちてしまったことについて、なんら申し訳なさを抱く必要はありません。それよりむしろ、生まれさせられてしまったことに対して、やり場のない怒りと絶望感を抱きながら生きてきました。(p91)
私はこのエッセイを書くことによって、三度目の出生を経験している。(p235)
生まれてくるのは女の子で、その名前もLはとっくに決めてある。まるで記憶が始まるよりも前から、天地開闢よりも遥か昔から宿命づけられているかのように、Lはその女児につけるべき名前について、これ以上ないほどの確信を持っている。
そう、李琴峰、と名づけよう。(p490)
●「作家」という仕事は?「小説」とは何か?
昨日の記事との重複が多いです。読書会のためのメモとして、ここにコピペします。
Lは自分がつけたペンネームをとても気に入っている。柳は高潔な君子の象徴で、千慧は千の知恵を意味する。自分自身を含む人間の営みを俯瞰できる高い知性と、肩念を貫いて正義を見極め、悪に加担しない高潔さ、それこそがLの理想とする作家像である。(p23)
極論を言えば、文学をアップデートできない作品に、どんな存在価値があるというのだろうか。(p26)
しかしLは政治家でも首脳でもなく、作家である。政治家ならば時には思想の相違を脇に置き、共闘を選ぶ必要もあるだろうが、思想の相違を脇に置かれた時に犠牲になったのは誰か、と作家たるLは常に考えずにはいられない。国益や国防といった大義名分のもとで、個人などーとりわけ法の狭間を生きるマイノリティなどしいとも簡単に切り捨てられるということを、Lは痛いほど分かっている。独立した一個人として、複雑な国際情勢や政治的な現実に否応なしに巻き込まれることはあっても、自ら進んで巻き込まれようとすることは決してあってはならない。(p83)
言い換えればーージャーナリスト・北丸雄二の言葉を借りてーー、日本の表現の世界では〈「わたくし」の領域と「おおやけ」の領域との間の回路〉があまりにも欠如しているのだ。「わたくし」とは個人的な、私生活的な領域であり、「おおやけ」とは政治的な、社会的な領域である。日本のメディア表象は、そもそも「おおやけ」の領域にはあまり踏み込まないし、たとえ「おおやけ」の領域の事柄を扱う時でさえ、「わたくし」の領域への回収を求められる傾向にある。社会の変革を要請するのではなく、個人の物語として回収されるのだ。したがって、「おおやけ」の領域での意思決定や遍在する不均衡によって「わたくし」が被る不利益の現実を明示的・批判的に描くことはあまりないし、「わたくし」が「おおやけ」を相手に闘うような物語も少ない。(p102)
Lは作家だ。相手が言論のつもりで言いがかりをぶつけてくるのなら、言論で反撃する用意がLにはある。魂は売らない。差別には屈しない。それこそがLの𠊷骨なのだ。(p161)
清水(晶子)は溜息を吐いた。
「笙野さんの件は、今の文壇の人たちはみんなスルーしているけど、二、三十年後に女性文学の歴史を振り返った時、一つの大きな事件や転換点になると思う。何しろ、九〇年代にあれだけ頑張って闘って、女性文学を作ってきた人がマイノリティを差別しているのだから。そのとき後世の人たちは『同時代の人は何をしていたのだろう』と思うに違いない」(p409)
水上はTwitter でこのように投稿した。
〈表現/言論に関わる方々が国家権力による抑圧に対して使われるべき語を一個人による批判に対してあてはめて批判を封じる言動を繰り返したこと、作家の原稿を掲載/出版するか否かの決定権は出版社にあり、私企業としての判断は国家権力の弾圧とは全く性質の異なるものであることを無視したこと、そして出版社による判断を批判するよりも私のような本格的に仕事を始めてからまだ一年も経っていない人間に何か「権力」があるかのように騙り中傷し続けたこと、それが公然と行われたこと、そういう業界なんだということ、今後も絶対忘れません。あと黙りません。仕事を、私は私の出来ることをします〉
水上の決意表明を読むと、Lは襟を正す思いになり、彼女にリプライを送った。
〈このことを、恥ずべき人たちの名とともに、恥ずべき文学史の一ページとして刻もう。決して忘れず、私たちは私たちの時代を築いていこう〉(p486)
消去(キャンセル)するのではなく、記録するのだ。それが文筆に携わる人の戦い方である。(p486)
きっといつか、自分を翻弄したこの時代へのアンサーを、自分は書くことになるだろう、とLは思った。それと同時に、こんなややこしい時代へのアンサーを書くなんて、一体原稿用紙何枚分必要になるだろう、そう考えると気が遠くなった。少なくとも、Lがこれまで書いてきた小説のどれよりも長いに違いない。しかし、それでもいつか、きっと、Lはそれを書かなければならない。(p490)
【読書会前のメモ3】
●漢詩
李さんから、漢詩初心者であるわたしがお薦めいただいた詩人が、李清照と李煜。二人とも政変で国を失った流浪の詩人。
李清照の「聲聲慢」、李煜の「虞美人」…。
どちらも「アイデンティティーを奪われながら、自分自身でいようとする人の絶唱」のように、わたしには読める。
李煜の「胭脂淚(相見歡)」について、中國語のサイトに、こういう解説がある。
「仍然在他人手下忍辱含垢,生不如死,像一個玩偶,這更是人生最大悲哀」
(他人の手による屈辱に耐え続け、死よりもひどく、人形のように生きることは、人生最大の悲劇だ)
『言霊の幸う国で』を読んでから、この解説のことを何度も思い返している。
500ページもある本なのに、わたしは読んだ後、「一本の漢詩を読んだ」ような不思議な読後感を持った。
李清照と李煜の詩を、李さんが愛読することの意味について、考える。
この本も「アイデンティティーを理不尽に攻撃された人の苦悶の絶唱」として読めた。だから、わたしは読みながら涙を流した。
●世界文学
以前、李さんの『ポラリスが降り注ぐ夜』を読んだとき、わたしは「世界文学のような構え」を持っていると感じた。
小説の中に、たくさんの個人の人生、土地、国、歴史(時間の流れによる文化の変化)があった。作者から、歴史そのものと、その歴史に翻弄された人々について書き殘そうという決意を感じた。
今回の本を読んで、フランスのヴィクトル・ユゴーが19世紀に書いた『レ・ミゼラブル』のことを思い出した。
これはものすごく長い大長編小説。
しかも、個人の物語の合間に、当時のフランスの歴史の解説が百ページぐらい続くので、読むのが本当に大変だった。
当時のフランスは激動の時代だった。前世紀後半のフランス革命、ナポレオン皇帝の誕生と失脚、七月革命、ルイ=フィリップ王政…。革命が繰り返されて、王政と共和政の間を激しく行き来した、恐怖の季節だった。ユゴーは身の危険を感じてベルギーに亡命し、流転の日々を送りながら、この小説を書いた。
ユゴーは「正史(国家がまとめた歴史)に対抗して、我々の時代の真実を小説として書き残す」という使命感を持っていたのではないか。さらに「悪政の犠牲になったのは貧しくみじめな人々(レミゼラブル)だ」という憤りもあったのではないか。
李さんの本にも、個人の物語、歴史を後世に向けて書き残す使命感、立場の弱い側の人たちへの思いがある。この姿勢はユゴーと共通していると思う。
●構成がテーマに奉仕する
この本は、構成が優れている。
建築物のように立体的。論理によって骨格が考え抜かれている。
複数の柱に、建物が支えられている。
わたしは、とくに四つの太い柱があると感じた。
(1)杉山文野から水上文へ
2022年3月31日。「トランスジェンダー可視化の日」。Lは活動家の杉山と初めて会い、相談をする。(p242)
4月22日。「東京レインボープライド」の日。Lは友達のめぐと、新宿の「とんかつ茶づけ すずや」で食事をする。この店は杉山の実家である。
めぐは差別発言を繰り返し、Lを傷つける。二人は決別する。Lはこの事件を漢詩「摸魚児」に書き残す。(p380)
7月4日。「同性婚裁判東京二次訴訟」の4日後。Lは批評家の水上文と初めて会う。その場所も杉山の実家「とんかつ茶づけ すずや」である。
古い友と決別し、新しい友と出会い、二人は共闘を誓う。(p433)
(この別れと出会いの物語を、実家のとんかつ屋を通して、杉山の魂が見守っているようにも読める)
(2)厄災から祝福へ
2011年11月。Lは「本厄の年」だと気づき、不吉な予感を覚える。(p12)
日本の文壇、日本と台湾のネット民から、誹謗中傷が繰り返される(バカに国境はないから)。
Lはこれを「厄災」「穢れ」と呼ぶ。
Lは「作家は言葉で穢れを祓う」と考え、「言葉での戦い」を決意する。
Lは水上と出会い、連帯する。
水上の「巫女の舞」によっても、穢れは祓われる。(これは、Lは一人で戦うのではなく、「同じ問題意識を持った仲間と連帯する」というシーンだと思われる)(p435)
(3)三度目の出生
Lは、生まれたことを「一度目の出生」と、自分自身になったときを「二度目の出生」と定義している。
さらに、誹謗中傷やアウティングの被害を受けるうちに、言葉で戦うこと、つまり、この本を書くことを「三度目の出生」と認識し始める。
最後に、Lはこの本を書くことを決意する。
同時に、一年かけて、臨月になって大きくなったお腹を、手でさする。
Lは、作者の「李琴峰」を産むと宣言する。
(これは作者からの力強い「作家宣言」である)
(4)桜庭一樹「キメラ」
(フィクションとノンフィクションの狹間にある文章を書いて戦う、という手法は、桜庭一樹の「キメラ」(『少女を埋める』収録)でも使われている)
桜庭一樹の名前は、小説の最初のほうから後半にかけ、四回繰り返される。
1『少女を埋める』論争(p99)
2『少女を埋める』の本文引用(p152)
3トランス差別に反対する作家たちの話題(p356)
4同性婚訴訟への寄付の話題(p422)
これは、最後にいきなり桜庭を登場させると、唐突になるから、伏線として、ときどき名前を出しているのかも?(違うかも)
そしてp487。残り8ページとなったところで桜庭とLが初めて会う。
1年後の2022年11月の芥川賞受賞パーティー。
Lの長い1年間が終わる。
この夜、Lは、生まれてくる子供は女だと、その名は「李琴峰」であると、読者に向けて高らかに宣言した。
●おまけ
Lが大先輩の女性作家の差別発言について、抗議したことを、年配の男性批評家が批判するシーンがある。Lが大先輩の女性作家の作品を「あまり読んでいない」と言ったから? 先輩への敬意が足りないと?
この件について、(大先輩よりは歳も下だけど)ベテランの桜庭が、最後の初対面のシーンで、
「先輩とはいえ、後輩に対して、自分への敬意を強要することはできないのでは?」
という内容の意見を言う。
「そもそも師弟関係とは、師匠からではなく、弟子が師匠を選ぶことから始まります」
と。
このシーンがあること、つまり、先輩作家の側がそういう意見を言うことが、ストーリーの風通しをよくしているかも? 構成のバランスの中で、意外とここも大事だったかも。建築に例えると「ここに大きな釘を打つ」のような。(ちがうかも。わからないや)
同様に、清水晶子(学者。わたしと同世代)が、文壇の外部(アカデミア)から、大先輩作家の差別発言について、
「今の文壇の人たちはみんなスルーしているけど、二、三十年後に女性文学の歴史を振り返った時、一つの大きな事件や転換点になると思う。何しろ、九〇年代にあれだけ頑張って闘って、女性文学を作ってきた人がマイノリティを差別しているのだから。そのとき後世の人たちは『同時代の人は何をしていたのだろう』と思うに違いない」
というシーンも、建築に例えると「重要な釘」のように感じる。
どちらも、外部からの声だから。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?