P.10|汀線をゆく 〜《「せんと、らせんと」6人のアーティスト、4人のキュレーター》 (札幌大通地下ギャラリー500m美術館)に寄せて〜
「日本人だから鯨が好きでしょう?」
そう微笑んで、私のお皿に山盛りの鯨肉を分けてくれた。
アラスカで暮らした頃、鯨猟の町で育ったクラスメイトの思い出。
私の生まれ育った瀬戸内海には、大型の鯨類はほとんど来ない。学校給食でも鯨を食べなかった世代の私にとって、鯨はそれほど身近とも思えない食べ物だった。けれど、その一皿を受け取ったときの満面の笑顔は、忘れられない瞬間となった。
昔は、よく食べていたのに。
昔は、飽きるほど食べたのに。
昔は、 。
鯨はいつも誰かの記憶の深度を潜っていく。
くじら、クジラ、鯨。
まるでその言葉が、海底に突如射す光のように。
鯨は舟
舟は鯨
記憶の海をゆく
「本島の地勢は南部東西に開壙して北部は狭く其形恰も鯨鯢の尾を棹ふに似たり。」(野村直助編著、『倉橋島誌』、明治42年)
私の故郷は広島県の倉橋島にある。島の北側は狭く、南側は左右に広がり、三枚羽のスクリューのような形をしたこの島を「鯨・雌鯨(鯢)の尻尾」に似ていると表した、この一文を読んで、はっとした。100年以上も昔、この島で誰かが鯨を思い浮かべていた。その人は海岸線を舟で辿りながら、鯨の尻尾を想像したのだろうか。全体を見渡せないほど巨大な鯨の上に、私は生まれたのかもしれない。
さまざまな土地に残された、鯨の欠片のような物語を集めていくことで、巨大な鯨が姿を現わす。その輪郭線はきっと、海と陸の間、鯨の世界と人の世界を絶え間なく行き来する汀線のように揺れている。
鯨は舟
舟は鯨
海から海へと導いていく
宮城県で暮らした頃、気仙沼市の唐桑半島の先端にある御崎神社を訪れた。地元の人たちから「おさきさん」と親しみを込めて呼ばれるこの神社の神さまは、その昔、かつての日向国(現在の宮崎県)から移されたという。遠く南の土地からの航海の途中、船が嵐に遭った。その時、2頭の白い鯨が現れて、神さまの船を唐桑半島に導いたのだそうだ。以来、鯨は神さまの使いとして敬われ、氏子は鯨を食べることを忌むという。
御崎神社の近くに3基の鯨塚がある。浜に上がった鯨が食料となり、その感謝を捧げたもの。暴風にあった船を助けた鯨を称えたもの。今でも毎年正月七日の朝、鯨塚には煮干しと七草粥が供えられるそうだ。宮城県内のスーパーの鮮魚売り場や居酒屋のお品書きで、頻繁に鯨肉を目にしていた私は、その話を不思議な気持ちで聞いた。鯨を捕り食べることだけが、〈日本〉の中で当たり前ではなかったのかもしれない。そう考えながら、東北から北海道へ、太平洋の沿岸部を旅すると、全く異なる風景が見え始めた。
鯨は舟
舟は鯨
岩手県宮古市を訪れた時のこと。宮古湾奥の赤前の御前堂と周辺地区の神社には、元禄14(1701)年に漂着した139頭の鯨の骨の一部が奉納されている。「寄り鯨」のおかげで大飢饉を乗り越えた人々がその霊を弔い、さらなる大漁を祈願した。その後、津波により何度も被害を受けたが、今でも鯨の骨が地元の人たちによって守られている。
その骨を、見せてもらった。崩れ落ちそうな、砂の塊のような、土っぽいような灰色の骨。かろうじて、椎骨の一部に見えるもののもあれば、もはや鯨の体のどの部位だったのかさえわからないものもあった。
進化の過程で陸から海へと入った鯨は、水中生活に適して体を軽くするため、骨は穴だらけでスカスカになっていったそうだ。数百年前のその骨は、とてももろく、人の手によって大切に保管されていなければ、すでに形をとどめていなかっただろう。
鯨は舟
舟は鯨
2019年頃からたびたび訪れていた苫小牧に、私は2021年の秋に移住した。ここ数年、苫小牧の砂浜でかつて祀られていた鯨の骨のことが気になっている。
江戸時代からイワシ漁場の盛んな「樽前浜(たるまいはま)」として全国に知られた北海道・苫小牧の海辺。明治32年から昭和のはじめまで「マルモ漁場」という漁場があった。この漁場を知る人たちの昔語りに、鯨の骨が登場する。
「川から海までは砂浜で、トドクサがたくさんと生えて、ハマボウフウが一面にありましたの。
ハマナスもいっぱい。砂が山になったところにはお稲荷さんと恵比寿さんが祀ってあって、恵比寿さんの建ててあるところなんか、プーンとハマナスの香りが臭ってきました。秋になれば、大きな手籠にいっぱいのハマナスをもぎにいくんです。赤く熟していて、甘味があっておいしいの。
砂山の恵比寿さんはクジラの胴の骨の中に『恵比寿神社』と書いて祭ってありました。
クジラは縁起がいいんです。クジラが沖でシューッと潮を吹いたり泳いだりすると、イワシはおっかながって岸へ寄ってくるんです。それを網で獲ったんです。だから、恵比寿神社を拝んで商売したの。」(佐藤トワ、苫郷文研まめほん第二期第一号『苫小牧村字川尻マルモ漁場〜扇ヶ浦にソーラン節が聞こえる〜』、1990(平成2)年11月30日発行、苫小牧郷土文化研究会)
「樽前浜で鰯をとるため網を積んで沖に出る船は大船と言つて、石倉及び蛯谷村での造りでそれを皆さんがた真似て造つた様です。又船の古物は丁度、古桶のようなものでよく他に利用することのできるものです。この船の廃船となつたとき、先にある『みよし』だけを漁業の神社、稲荷神社等に流れよつた大きな鯨の大骨と向い合つて、両側に祭られたのを方々で見たこともありましたが、今は跡もないと思います。」(川辺己之吉筆、整理:近江謙三、『研究ノート 古老の記憶-明治の苫小牧漁業の記録』、1971年12月発行、苫小牧郷土文化研究会)
みよしは船首の部分で、「水押」とも書かれる。帆柱の無い舟では、「フナダマ」を祀る場所。舟の守り神であり、豊漁をもたらすフナダマは、船玉、船霊、船魂などと表される。川辺さんの聞き書きのスケッチでは、みよしは「海神」を祀るところとされていた。おそらく、フナダマに近い存在だったのではないか。
フナダマがおさめられる舟の一部と、鯨の骨が向かいあって祀られる砂山の神社を想像してみる。そうして人々から信仰され、浜を見守るような鯨は、大海を回遊する巨大生物とも食卓にのぼる肉の塊ともちがう、神に近い何か——エビスと呼ばれてきた鯨、縁起の良い存在——であったのかもしれない。
鯨は舟
舟は鯨
鯨そのものが、一艘の舟のように思えてくる。
2021年8月9日。苫小牧から白老方面に向かう国道36号線をゆくと、樽前に入るあたりにある覚生川の河口。道路から、浜辺に大きな黒っぽい固まりが見えた。頭を樽前山の方に向け、暗い色の砂に横たわった一頭の鯨だった。尻尾の付け根には黄色い浮きのたくさんついた漁網が重そうにからまっていた。近づくと、小山のような体の上からカモメが飛び立った。黒いゴムのような弾力のある皮膚は、すでにカモメの足跡だらけ。まだ新鮮な肉をついばもうとしていたのだろうか。ひと昔前なら、鯨を見つけた人も肉を切り分けて持ち帰ったかもしれない。あるいは、その骨は人々が大切に祀る何かになっただろうか。
8月8日の朝、砂浜に打ち上がっているところを発見されたマッコウクジラ。発見されてしばらくは生きていたそうだ。体長約6メートルのオス。成長すると15〜18メートルになるというから、まだまだ小さな子どもの鯨だ。そのマッコウクジラは、力なく口を開けていた。細い下顎にはまだ生えていない歯のふくらみが、ぽこぽこと並んでいた。紫色の舌は端がぎざぎざとしていた。母鯨のミルクを吸うような年齢の幼い鯨の特徴らしい。お腹には、渦巻きのような白っぽいもようがあった。黒い鯨の体のその模様は、暗い宇宙に現れた星雲のようにも見えた。
宮城県の石巻市で、捕鯨船の船長であり銛を撃つ砲手だった人の話を思い出す。「年をとった大きなマッコウクジラだとね、人間のように禿げてきて、頭が白くなる」と教えてくれた。数え切れないほど鯨を獲った彼は、たった一頭、全身真っ白なマッコウクジラを獲ったことがあったそうだ。樽前の浜の子どものマッコウクジラにあった星雲のような模様も、大人になるにつれて白く、大きく広がっていったのかもしれない。いくつもの銀河系を抱える宇宙のような鯨が、樽前からずっと遠くの深い海を泳いでいる姿を想像した。
鯨は舟
舟は鯨
想像のはるか彼方をゆく一艘の舟を思い浮かべる。
苫小牧の沼ノ端から勇払あたりは、約6000年前の縄文海進のころ、海浜から海底だった。ある時そこで見つかった、鯨の「あごの骨」がある。おそらく、縄文海進の時代に死んだ鯨の骨だ。約6000年前——この地下空間も、おそらくは海の下だった頃。
2メートル57センチのあごの骨。
まるで、一葉の小舟のような形をしている。そっと、紙の上に置き、その影の輪郭を写し取り、対にする。舟の骨組だ。
鯨は舟
舟は鯨
船体布は海と空の色に染めよう。苫小牧の太陽光で、海辺の草花や波に洗われた小石、拾った漁網の形を写しとる。それらは白い影となってあらわれる。夏に浜辺で息絶えたマッコウクジラの体の模様を思い浮かべる。あの模様も、あの鯨が旅した海を写しとった、白い影だったとしたら。
鯨は舟
舟は鯨
そうして、私は一艘の舟を縫い合わせる。水平線の向こう、まだ知らない海辺へと案内してくれる、一艘の舟。一頭の鯨を。
2021年12月 苫小牧にて 是恒さくら
〈協力〉
苫小牧市美術博物館
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【展覧会情報】
「せんと、らせんと」6人のアーティスト、4人のキュレーター
会期| 2021年12月11日(土)~2022年2月2日(水)7:30-22:00
会場|札幌大通地下ギャラリー500m美術館
札幌市中央区大通西1丁目~大通東2丁目
(地下鉄大通駅と地下鉄東西線バスセンター前駅間の地下コンコース内)
展示作家|進藤冬華、朴炫貞、是恒さくら、マリット・シリン・カロラスド ッター、モーガン・クエインタンス、ピョートル・ブヤク
本展キュレーター|飯岡陸、四方幸子、柴田尚、長谷川新
主催|札幌市
企画|CAI現代芸術研究所/CAI03、一般社団法人PROJECTA
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