ⅳ. {対談}「海を旅して見る、風景と物語」/鈴木克章・是恒さくら|前編「風景が語りだすとき」
シーカヤックで日本の沿岸を一周した経験をもつ鈴木克章さん。『ありふれたくじら』のVol.5執筆のため、私が宮城県気仙沼市の唐桑半島を初めて訪れる際に、海を旅した経験から唐桑半島のことを教えていただきました。今回発行した『ありふれたくじら』Vol.6をもとに、海や自然の中に身をおくことで見えてくる世界、鯨との出会い、物語が教えてくれることについてお話ししました。(2020年9月12日)
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|前編|風景が語りだすとき
是恒:『ありふれたくじら』のVol.5の取材で、宮城県気仙沼市の唐桑半島を初めて訪れる前に、鈴木さんにご相談したことがありました。唐桑半島で、鯨が神様の使いだとされているという話は知っていたんですが、唐桑半島に知り合いがいなかったので。鈴木さんがカヤックで日本一周をして、海を旅した視点から手がかりを持っているかもしれないと思いました。そして、Vol.5を発行して、約2年が経ち、今年の8月に『ありふれたくじら』のVol.6を発行しました。アメリカのニューヨーク州、ロングアイランドという島の先住民の話です。まずは、この本を読んだ感想をお聞かせください。
鈴木:全体に優しい感じの読み心地が残る、印象だなと思いました。僕はロングアイランドに行ったことはないのですが、地図を見て、まず地理的条件として、素晴らしい天然の良港であっただろうと思います。島の地形が波や外海のうねりを遮っています。海と共に暮らしていく人たち、海に食料を求めて生きる人たちは、この土地を選ぶでしょう。舟では、上陸するときが危険です。外海側にはうねりがあるので、例えばサーフィンをするような大きな波に乗ってしまうと、操船がとても難しくなります。それで転覆することもあります。湾の中に入ることによって、その危険性を低くすることができます。
ロングアイランドの先住民の人々が鯨を捕っていたということは知りませんでしたが、『ありふれたくじら』Vol.6を読むと、現代のアラスカで鯨を捕っている鯨組の人たちと交流もあり、ひとつのつながりになっているという話が印象的でした。例えばニューヨークを東京に例えて、銀座辺りにそうした先住民のような人たちがいるのかと考えると、日本列島の都市部ではそうした風景を追うことは難しいと感じます。
今年の3月まで国立科学博物館の「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」に参加していました。その中で、台湾の原住民・アミ族の人たちに竹の筏舟を製作していただきました。その人たちと交流する中で、日本の昔からの歌を歌ってくれと言われたとき、何も出てこなかったんです。日本の歌とは何だろうか、と思ったときに、頭に浮かんでくるのは童謡の『赤とんぼ』などですが、昔から残っている音楽、自分の中でも覚えている音楽とは何なのかと考えてみると、祭りの中のお囃子であったり、太鼓のリズムであったり、そこら中にあります。ただ、そうした音楽の歴史も聞くところによると400年程度ということです。昔からの歌とはまた違うかもしれない。ロングアイランドに住まわれている方々の昔からの伝統は、もっと長い歴史からのともしびとして残っているという印象でした。
是恒:私もロングアイランドを訪れるまでは、ニューヨーク州なので都会というイメージでした。でも、実際に訪れてみると、ロングアイランドの島の奥のほうは畑なんかが広がっていて。もともとは一面森だったようですが、開拓され木々が全て切り倒されてしまった時代があったそうです。現地在住の方でも、現代のシネコックのような先住民の居住地の存在を知らない人も多いです。もともとの風景を語り継いでいる人の言葉に耳を澄ますと、目の前のものが全然違って見えるということを、滞在中に考えました。自然そのものも変化していて、もともとは鯨の多い海だったけれども、捕鯨産業の時代を経ていなくなっていた。そこで鯨がまた戻ってきたときに、そこに住んでいる人たちは、どうやって自然との関係を築いていけるんだろうかということが、問われていると思いました。鈴木さんから、地理的にはもともとの良港だっただろうということを聞けたのは、大きな気付きでした。
続いて、お聞きしたいことがあります。現代のアメリカの都市や町の名称は、歴史上の偉人だったり、ヨーロッパから持ってきた名前であることが多いのですね。ニューヨークだったり、サウサンプトンという、ロングアイランドのシネコックの人たちが住む場所近くの地名もそうです。けれど、もともとは例えば「ナンタケット」という島には、赤い砂の崖があって、そこは昔、伝説の巨人が鯨をたたきつけて殺した場所であるという話がある。シネコックの人たちからそうした話を聞いて、もともとの風景の名前は、その土地ごとの物語に結び付いているなということを強く思いました。そこで、これまで鈴木さんがあちこち旅をしてきて、中には誰も知らない、名前の付いていないような場所もたくさんあったと思うんですけれども、そうした風景に名前を付けたくなるというか、そこで何か物語が立ち上がってくるようなことはあるのでしょうか。
鈴木:名前を付けたくなるというのは、何か気に入った場所です。そこを自分が覚えていたいから、名前を付けるのかもしれない。ちょっと話が変わるかもしれないですが、そういった話の中で巨人が海から鯨を投げるという行為だと思うんですけど、すさまじい話ですよね。僕は、その想像力というのがすごいと思うんです。やっぱり海の神様にしてみても、精霊のお話としてみても、名前というか、イメージというものがあるわけですよね。『ありふれたくじら』の本の中にもあったのですが、竜という得体の知れない巨大な存在のことが出てくる。どうしてそうした名称が生まれたんだろうかと考えると、興味深いなと思うんです。
誰かが最初に巨人が鯨を投げるところを見たのか。竜を見たのか。最初の物語とはどんなふうに起きてくるのかと自分なりに考えてみると、現代の文明の中に生きている僕たちとは違う世界観があったのでしょう。いつ野生動物に襲われて亡くなるかもしれないし、COVID-19のような得体の知れない感染症もあったでしょう。生と死を本当に紙一重の者として生きている人たちの生活は、研ぎ澄まされた日々を送らざるを得ない。野外で暮らしていく中で、朝起きることにも喜びを感じるくらい、研ぎ澄まされた世界観であると思います。そういった状況の中で、海に出ると、鯨も含めて、野生生物全般は怖かったと思います。言い換えると、自分の生命に関わる野生生物が多いということですね。
そういった状況の中の、研ぎ澄まされた想像力を突き詰めて考えていく。例えば、去年僕は台湾から沖縄県の与那国島まで220kmを、時計やコンパスを持たずに海を渡ったんです。体力とか、喉の渇きとか、人の体というのは、時代が変わってもそんなに大きくは変わらないと思うんです。30時間くらい連続をして海をこぎ続けていくと、精神力の限界も訪れてくるんです。そういうときに何が起こるのかというと、幻覚が現れてくるんです。明らかに幻覚がはっきり見え始める。幅1kmくらいの大きな女性像がずっとこちらを見ていたり、空がいきなり迷彩柄にバシバシバシバシと変わってしまったり、そんな幻覚が起きてくるんです。僕にはそれがはっきり見えているんですが、写真で撮影したりすることはできない。
そういうところで見てくる幻覚が、精霊や海の神につながっていって、今も残っているんじゃないのかなと思うんです。それが神話や民話となって残っていくのかなと。『ありふれたくじら』Vol.6に、100人乗りのカヌーの話が出てきますね。100人の中で2人でも3人でも同じ幻覚を見てしまったときに、それは現実のこととして話に残るかもしれない。そう考えていくと、竜のような存在でも、最初の発想というのがあると思うんです。背骨の長い生き物で、頭もかなり大きいという生物とか。僕の勝手な想像なんですけれども、例えば陸を歩いて旅している集団が、シロナガスクジラの頭蓋骨を偶然見てしまったとか、大昔の恐竜の頭蓋骨に出会うとか。そういうことがあると、ここにはそんな動物がいるのかと、自分が食べられる側としての想像力につながっていくと思うんです。
是恒:神話とか民話とは、どうやって生まれたんだろうと考えることがあります。現代の私たちがそれを理解しようとしても、自分たちが生きている時代の体験がもう、その神話や民話が生きたものとして語られたころとは違うから、完全には理解できないんだろうと思っています。『ありふれたくじら』Vol.6では、ロングアイランドで見つかった竜のようなものが描かれた鉱物の話が出てきます。私は州の博物館でその実物を見たとき、唐桑半島でやっぱり竜神の話が頭をよぎりました。唐桑半島の辺りの人たちが語ってきたことの中では、竜神は海の底に住んでいるという話があります唐桑に住んできた人たちも、海と共に生きてきた人たちだし、体一つで海に出て生活をした人間は、もしかしたら同じようなものを見ることもあったのかもしれないなと考えました。それが幻覚だったとしても、人間の体と自然との間に起きることとして、太平洋と大西洋の片隅で似たようなことが起きていたこともあり得るのかなと。旅をしたり、自分の体を通して考えることでしか見えてこないことはあるんだろうと思うんです。
鈴木:そうですよね。
是恒:鈴木さんがカヤックで日本一周されて、印象に残っている言葉が、「日本が本当に島国なのかを知りたかった」という言葉でした。自分たちが話に聞いたり、習った知識として知っていることじゃない知識の在り方というのは、そういう体験からしか得られないものなのだろうと。今日、お話ししてみたいと思っていたんですが、COVID-19の感染が広がって、いろんな体験がオンラインに移行して、学校教育もオンラインで行われている中で、人はどんどん自分の体で体験をするということから離れていくんじゃないだろうかと思っているんです。自分の体を通してしか知れないことや感じられないことは、これからの生活の中で、どうやって得られると思いますか。
鈴木:インターネットでのこうしたやりとりというのは、言ってみたら疑似体験をしていることになるんですけれども、目的があれば活用ができるとは思うんです。それでも、あくまでも見ているのは画面で、音声も生の声ではない。そこは理解しなければいけないと思います。テレビなんかもそうですね。やっぱり血が通っているものというのは気を付けないといけないと思います。例えば、海の生き物です。普段みんなが知っているのはスーパーに並んでいる、死んでしまったものだけど、実際は、海の中で躍動感を持って生きている生命なんです。その想像力が欠けてしまった時点で、危うい方向になる可能性はあるなと思っています。
僕もテクノロジーは嫌いじゃないので、丸ごと否定はしないんです。これはこれで面白いなというふうなVRの作品もあります。それでも疑似体験というものは、飽きると思うんです。生の体験に勝るものはなくて、人間の体も急激に変わるということはないと思うんです。家の中にこもって、毎日VRで夕日を見ていても、ある日実際の夕日を見ると、感動が違うと思います。そこには風の動きもある。外に出るということによって出会いがあるんです。人間だけじゃなくてもいいんだけど、例えば海に行ったときに偶然鯨を初めて見てしまったとか。そういう可能性もやっぱりゼロじゃない。
是恒:そういう自分の体で体験することは、自然の中に行けば行くほど予想がつかないこともありますね。さっきお話しされた、幻覚が見えるというのも、自分の体を極限まで連れ出していって、全くコントロールができない状態で体験できるものなんだろうなと思います。
鈴木:極限の状態に入って、幻覚を見ることによって自分を落ち着けようというふうに、何か錯綜していくのかもしれません。ただやっぱり人間というのは極限の状態になっていけばいくほど、何かを信じるということが必要になってくる。何かを強く信じることによって、パニックにならなかったり、冷静な状態を引き続き保つことができたりする。そう思っています。
(後編に続きます。)
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|プロフィール|
鈴木克章
シーカヤック日本一周最長記録保持者。丸木舟にて台湾から沖縄与那国島まで航海成功。「3万年前の航海徹底再現プロジェクト」漕ぎ手。ガンジス川源流域の氷河を起点にカヤック旅を敢行するなど複数の巨大河川を漕ぐ経験を持つ。静岡県生まれ。浜名湖シーカヤックツアーズ代表
http://hirumanonagareboshi.hamazo.tv/
(今回の写真:唐桑半島から見える海)
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