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P.17|風と景と唄のかさなり

さまざまな土地の鯨と人の接点を訪ねていると、離れた土地と土地をつなぐものに出会うことがある。語りや唄、絵や写真など、ある場と別の場の〈間〉に残されているものに出会うとき、回遊する鯨たち、鯨を追って海を渡った人たち、捕鯨の技を海の向こうへ伝えた人たちの旅路が、ひとつの土地の視点ではとらえきれない物語となって汀にあらわれる。

昨年から今年にかけて出会ったいくつかの印象的な風景や物語、唄のかさなりについて振り返ってみる。

2024年前半の半年間滞在した青森県には八戸で語り継がれてきた「八戸太郎」の伝説がある。「八戸太郎」は八戸・鮫の西宮神社にある「鯨石」の由来だ。〈昔々、毎年イワシを連れてくる鯨がおり、人々から「八戸太郎」と呼ばれた。八戸太郎は伊勢参りを成就して神になろうとしていたが、紀伊半島で鯨取りの銛に打たれてしまい、息も絶え絶えに八戸まで泳ぎ着き、死んで石になった〉という。

青森県八戸市、西宮神社へ向かう。だれかが昆布を干していた。
西宮神社のくじら石、八戸太郎。


2024年後半から訪れ始めた愛知県と三重県で八戸太郎の伝説に通じるような唄や伝説に出会った。伊勢参りをする鯨、「参宮鯨」の伝説は三重県でも伝えられてきたらしい。『海の伝説と情話』(朝日新聞社・大正12年)という本に「伊勢参りの夫婦鯨〜龍神の託宣を破った漁夫の群(紀伊大白ヶ濱の伝説)」(著・西村武良太)という話を見つけた。〈海から龍神が現れて「自分に長く仕えた年寄りの鯨夫婦に伊勢参宮を許した。鯨の夫婦が大白ヶ濱と大王崎に姿を現すが(鯨取りの)銛を打たぬよう」と神官に伝える。神官は漁師たちに龍神のお告げを伝えるが、飢饉に見舞われていた漁師たちは鯨漁の準備を始める。じきに大きな鯨の夫婦が現れ漁師たちは銛を打つが鯨を逃してしまう。龍神との約束を破ったことで怒りに触れ、嵐となり集落は波に飲まれてしまった〉とあった。

三重県尾鷲市、梶賀町のハラソ祭。三重県には鯨にまつわる行事や伝説がいくつもある。

伊勢神宮の神宮農業館では大きなセミクジラの下顎骨一対が鯨の肩甲骨や椎骨と共に展示されていた。まるで鳥居のように向かい合わせに置かれた下顎骨と、額のような肩甲骨が印象深かった(館内撮影不可なので画像はなし)。明治20(1887)年に宮城県の金華山沖で捕獲された大型のセミクジラの骨で、宮城県・気仙沼の宮井常蔵氏が寄贈したという。鯨の通り道である太平洋沿岸各地の人たちは、回遊する鯨たちに祈りと願いを重ねてきたのかもしれない。

かつて愛知県の知多半島で行われた捕鯨では、鯨取りたちが捕鯨の成功を祝う鯨唄のなかで伊勢のご利益をうたった。対岸の三重県の四日市市や鈴鹿市の北勢地域に今も伝わる「鯨船行事」では知多半島で歌われていた鯨唄によく似た唄がうたい継がれている。捕鯨が行われていなかった北勢地域に伝わる「鯨船行事」は対岸の知多半島の捕鯨に由来するという話もある。

三重県四日市市・南楠の鯨船行事。鯨のハリボテをかぶって鯨を演じる。
南楠の鯨船の銛は、かつて古式捕鯨で使われた銛によく似た形。
三重県鈴鹿市、長太の鯨船行事


愛知県では1570年代から捕鯨が行われていた記録があるが、伊勢湾や三河湾の捕鯨はやがて途絶え、捕鯨の技は和歌山県(紀伊半島)、神奈川県(三浦半島)、そして高知県に伝わっていった。2025年2月、久々に訪れた高知県ではかつて尾張(愛知県)から伝えられた捕鯨にゆかりある場所を訪ねた。

高知県黒潮町の佐賀港の目の前に鹿島がある。島の鹿島神社には尾張出身の尾池四郎右衛門正次が1652年(慶安5/承応元年)に奉納した鰐口があるという。慶安(1648-52)の頃に土佐へ招かれた尾州の尾池義左衛門が室戸の沖に多くの鯨の来遊するのを見て鯨突きの盛んな郷里の尾池四郎右衛を招き幡田郡佐賀で捕鯨を行い成功を収めた。尾池四郎右衛門は大漁を感謝し鹿島神社に鰐口を奉納したという。

高知県黒潮町にて、高台から鹿島を眺める。島には渡れない。


海の上の小山のような鹿島を眺めながら、私は愛知県蒲郡市の八百富神社を思い起こした。竹島にある八百富神社には1724年に奉納された「捕鯨図絵馬」がある。銛を手にした漁師たちが船を漕ぎ出し、荒波の間に鯨を追いたてる様子が生き生きと描かれている。絵馬を奉納した人物は不明だが、おそらく三河湾でも捕鯨が行われていたのだろう。信仰の島はその向こうの海の世界、鯨たちが回遊する大海に通じている。異なる海辺に立っていても、イメージは海の彼方で重なっていくようだった。

八百富神社のある竹島(愛知県蒲郡市)


今回の高知滞在中、高知県立美術館で開催された「生誕200年 河田小龍—激動期への眼差し」展の図録を入手した。表紙が鯨図でうれしい。幕末から明治期に活躍した土佐の画人・河田小龍の「捕鯨図」の自画賛に、尾張国から土佐国へ捕鯨が伝えられた経緯が書かれている。尾張(愛知県)から紀伊半島、三浦半島、そして土佐へ捕鯨技術が伝えられた記録が和歌山県や高知県の伝播先に残っていることは興味深い。土地から土地へと伝わっていった鯨取りの足跡やその記録を集められたらおもしろそうだ。


室戸の浮津八王子宮では「鯨舟の唄」がうたい継がれている。かつて行われていた古式捕鯨の鯨組の浮津組の幹部が祝宴でうたった唄だったという。もしかしてこの唄は、他の土地の捕鯨や鯨の唄に重なるだろうか。調べてみたいと思っている。

浮津八王子宮(高知県室戸市)


浮津八王子宮を訪ねてみた。境内を歩くと、昭和12年建立の「南氷洋捕鯨出漁記念」の碑があった。土佐の二つの鯨組(津呂組・浮津組)が行っていた古式捕鯨はやがて外国の技術を取り入れた銃殺捕鯨へと移り変わっていった。銃殺捕鯨の時代が終わると、捕鯨漁夫は大洋漁業や極洋漁業の捕鯨船の労働者として捕鯨に従事した。大洋漁業は銃殺捕鯨会社を吸収合併して設立された。極洋捕鯨を設立し南氷洋(南極海)へ出漁した山地土佐太郎は室戸出身だったそうだ。

浮津八王子宮にある「南氷洋捕鯨出漁記念」の碑


「南氷洋捕鯨出漁記念」の碑は、捕鯨の歴史の上に生きていた室戸の人々が辿り着いた、南極海という遠い海での捕鯨の成功への感謝として、昔から鯨取りたちの信仰をあつめてきた浮津八王子宮に奉献された。鯨と人の関わりの大きな変化を経て、捕鯨がこの土地から消えた後も、うたい継がれる唄があり祭りがある。
人と鯨の関わりはこれからどこへ向かうだろう。さまざまな土地に残されたものをつなげたら、その先にあるものを見渡せるかもしれない。

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