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離婚は連鎖というけども。

前回の話

A(元旦那)と結婚してからしばらくは本当に穏やかで幸せな日々が続いていた。

仕事もせず、通ってみたかったヨガに通い、時々家の近所を散歩したり、家のインテリアを整えてみたり。

夕飯は作っていたけれど、外食好きのAが高いお寿司屋さんや焼肉さんによく連れて行ってくれたから毎日支度する必要はなかった。
新卒時代冷凍のチャーハン1袋を3回分に分けて少しずつチンして食べていた私からは考えられないくらい自由で豊かな暮らしである。

こういう日々があったから、私はひどい扱いを受けても嫌だと言えなかったし、未だに彼に対して負い目のようなものを感じているのかもしれない。
自分1人では逆立ちしてもできなかった体験を、彼はたくさん与えてくれた。

ではなんでその生活を捨ててまで別れたのかというと、やっぱりそれでもしんどかったからというのと、このままでいると母のようになるかもしれないという、ある意味我慢の成れの果てがどうなるかを知っていたからだと思っている。

母はとても綺麗な人だった。
「だった」というのは父と母は私が中学生の時に離婚して、以降会っていない為今の姿は分からないからである。

母は貧しい家庭に育ち、苦労して国家資格を得て自立して働いていた。
身なりには無頓着であったが、それでも周りが目を見張るほど美しかった母に当時バリバリ出世して飛ぶ鳥落とす勢いで稼いでいた父がアタックし、二人は結婚することになった。

「映画のプリティウーマンみたいな感じで、最初のデートで洋服から靴から全部揃えてあげた」
父は当時のことを武勇伝のようによく語っていた。

そう、まさに「男は金、女は顔」の世界線である。
私がA(元旦那)と結婚したことがそうであるように、父と母も同じようにお互いの条件で結婚した。

そんな父母の関係は私が小学4.5年生くらいの時にはもう完全に冷え切っていて、家の中はカオスだった。
母が統合失調症を患ったからである。
家の中は荒れ放題、母はいつも誰もいない壁に向かって話しかけたり怒鳴ったりしていて、食事もまともに作ってくれなかった。
学校から帰る時「今日はどうかお母さんが普通でありますように」と何度も願いながら帰宅した。

父はちょうどその頃仕事が激務で帰ることはほぼなく、私と弟2人でそんなネグレクトサバイバルを生き延びた。
父は私たちが「お母さんがご飯を作ってくれない」と打ち明けてからやっと事の異常さに気がつき、色々な何かを経て(この辺は子供たちには語られなかった)、ついに2人は離婚することとなった。

そんな形で育ったから、母は悪で、父は私と弟を救ってくれた救世主だとずっと思って生きてきたが、自分が結婚することになり、Aと過ごす中で(母はもしかして、今の私と同じだったのではないだろうか)と考えるようになった。

思い返すと統合失調症を患う前の母は家の中でもつねに化粧をしていた。
専業主婦だから外に出ない日もあっただろうが、そんな日でも日中すっぴんで過ごす母を見たことはなかったし、病気になる前は家もチリひとつないくらいいつも綺麗に整っていた。

お菓子も手作りでケーキやクッキーを作ってくれて、ソファに寝転んでいるだけの私たちに「お茶とってきて」だの「お腹すいた」だの言われても嫌な顔ひとつせず、なんでも持ってきてくれたし、遊びにもずっと付き合ってくれていた。

経済的に夫に頼るしかない中で、実家も頼れず、子供も生まれ、知り合いも友達もいない田舎町でひとりきり。
そんな閉鎖的な空間で美しく完璧な母親を全うし続ける。
趣味も仕事も何もなく、ただただ家族のためだけに生きる。

今の自分にそれができるのか?といえば間違いなくNOだし、顔にも口にも出さずいつもニコニコしていた母の、心の中は一体どうなっていたんだろうと思うと未だに苦しい気持ちになる。

「お前たちの母親は病気に逃げたんだ。」

父は何度もそう語った。
育児から、夫から、自分の人生から、精神病を患えば「病人」として扱ってもらえて何もしなくても良くなるからと。

私も最初はそう思っていた。
けど、本当にそうなんだろうか?

母は、逃げなかったから病気になったのではないだろうか。

そう思った。

自分が逃げてしまったら子供たちはどうなるんだろう?
夫から逃げずにきちんと向き合わなければならない。
そういう強い責任感と、田舎の実家には頼れないという後ろ盾のなさが母を追い詰めてしまったのではないかと思えたのである。

なぜそんなふうに考えるに至ったかというと、シンプルに私にとって結婚生活がどんどん過酷なものになっていったからである。

冒頭で述べた幸せで満ち足りた生活も確かにそこにはあったけれど、もちろんそれだけではなかった。

食事を作る際は市川海老蔵のインスタグラムを見せられて「こんな感じの小鉢がたくさんある料理が良い」と言われる。

(海老蔵のご飯の画像はここに載せていいか分からないので気になる人は「市川海老蔵 朝食」とかで検索してみてほしい。
簡単にいうと品数が尋常じゃない旅館の食事のような豪華飯である。)

「こんなに品数を一気に作るとしばらく作り置きで同じおかずが続くけど大丈夫?」と聞くと「それでもいいし、お惣菜を買っても良い」と言うのでその様にすると、なぜか翌日私の作る食事には手をつけず、デパートで買ってきたひとり分のお弁当を食べ始めるA。
なんで作ったものを食べないの?と聞くと

「え、だって桜子が作るものお惣菜ばかりじゃん。これとか昨日食べたし連日は飽きるよ」

お、ま、え、が、言っ、た、ん、だ、が?!

全くもってその通りなのだけどそんなことを言えば大変なことになることを知っている私は、残して処分するとやっぱり逆鱗に触れることになるので吐きそうになりながら2人分の食事を平らげた。

ああ、書いていると「こんなことで?」と思われるかもしれない。
けど、「こんなことで」の連続は結構心に来るのである。

作った食事を「味がないねぇ」と残されること。
見た目があまり良くないと手さえつけてもらえないこと。
私は未だに人に手料理を振る舞うことが得意ではない。

友達でも恋人でも食べてもらうまでの時間は緊張感で心臓のあたりが重くなり、喉が渇いて逃げ出してしまいたくなるし、「おいしい」と言ってもらえても(お世辞なのでは?)と思ってしまう。

そんな感じの日々だったので、外食の日は気が楽だけど、家で食事をとってもらう時はいつも萎縮して苦しかった。

そんな生活の中でも当時はまだ「離婚」という文字は本格的には浮かんでいなかったが、Aの兄弟に子供ができたことで二人の生活は決定的に変わることとなった。

続く

モラハラ編の全編はこちらから


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