「手が届く」
広島では手が届かないことを「たわん」と言う。「あれ届かないから取ってくれない?」を、「あれたわんけえ取ってくれん?」と言う。
手が届く。何気ない言葉だけど、手が届くということは当たり前かつこの上ない幸福だとも思う。わたしの世界は、わたしの手が届く範囲のすべて。
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初めて千駄木駅に降りたった。商店街は昭和にタイムスリップしたような雰囲気で、Googleマップと睨めっこしながらお花屋さんを目掛けて歩く。
店頭には薔薇とチューリップが並んでいて、3本のチューリップを包んでもらう。鮮やかなピンクのリボンに浮かれて2回もありがとうございますと言ってしまった。
トナカイさんの展示「手が届く」は千駄木駅から商店街を抜け、路地の伸びた先にあった。古民家「谷中トタン」はひっそりと、あたたかみのある明るさで佇んでいた。
引き戸をスライドさせる勇気がなく、一度通り過ぎ、引き返して外から眺め、そろりそろりとドアを引く。
誰かのお家に間違って入ってしまったような錯覚に陥って緊張したのも束の間、挨拶をしてくれた人がトナカイさんだとすぐわかった。優しい目が、数々の言葉と写真を届けてくれた人だとわかって嬉しくなる。
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狭い空間に大人たちがまじまじと作品を眺めている。仕事帰りらしき人、或いはそうじゃない人たちがゆっくりと作品を拾っていく様を見て、この場所をなぜトナカイさんが選んだのかわかるような気がした。
軋む階段を登った先に飾ってある写真に、そういえば祖父母の家も階段を登った先に花の写真が飾られていたことを思い出す。
あの写真はそもそも誰が撮って誰が飾ったのか、わたしは知らないまま祖父母の家は手離されてしまった。
展示物の中にトナカイのツノが置いてあって、握ってみてください。と書いてある。
おそるおそる触れるとツノはひんやりとしていた。これがトナカイの頭に生えていたのだ。わたしは折れた自分の長い爪を思い起こす。身から離れた途端物体になってしまう自分の爪。違うところは、トナカイのツノには生命力が含まれているような気がするということ。
自然界を生き抜く者は美しいよな、と改めて思い、しかし人間として人間のあたたかさを目に見える形にしてくれるトナカイさんがいて、現金なわたしは人間でよかったなどと思う。
また、わたしは男木島の展示を思い起こす。
友人と巡った島々のひとつ、島を見渡せる高台にある男木島図書館。まるでここはトナカイさんの展示のために作られたんじゃないかと思うくらい、風が吹き抜け光が差し込む空間に作品が馴染んでいた。
谷中トタンも違う色でトナカイさんの空間になっていた。やわらかな光、夜の闇を弾かない光。昼間はきっと光が差し込み、雨が降ればぱらぱらと音を立てるのだろう。
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チャイがおいしい、とTwitterで見たのでお願いする。スパイスがまろやかに甘さと溶けあってあたたかく、「今まで飲んだチャイのなかで1番美味しかった」という感想の通りの味だった。
チェキも撮れますよと言われ、すこし悩んでお願いする。写真を撮ってもらうことはあまり得意ではないけれど、トナカイさんには撮って欲しいと思うのは、生命の輝きを見出してくれるから。
いつか家族や友人といるわたしを、或いは二本の足で立っているわたしを、撮ってもらいたいな。
チェキを構えたトナカイさんの目はまっすぐで、前髪も整えてない、リップも塗り直してないわたしをそのまっすぐな目で「とっても綺麗だと思います」と言ってくれる。
輝き。わたしたちは輝いているはずなのに、それに気づく人は少ない。陽の光や、やわらかな夜の灯り、温度によってそれは美しく照らされているというのに。
帰り道、猫が数メートル寄り添って歩いてくれた。こんなところにいたの、とすれ違うおばさまが話しかける。わたしまで毎日、昼夜問わずこの道を歩く猫になったような心持ちになる。そして電柱の影から見送られ、わたしはわたしの住む町へ帰りつく。
「だって愛すると決めたとき世界は手が届く」
トナカイさんの詩、個展のタイトルにもなった手が届くの最後の一節。なんて素敵なんだろう!
手がたわんくなったもの、手放してしまったもの、これから手が届くもの、色々あるけれど、でもだって、愛すると決めたとき世界は手が届く!
追伸 : はじめてトナカイさんとお話をさせてもらったり、人と話しているのを聴いて、嗚呼やっぱりこの人の見てる景色を共有して貰っているんだなと思った。丁寧な言葉と口調でやさしく静かに、ただそこに存在するこの人の中心には、あたたかくも激しい炎が燃えている。わたしは生命の輝きを目撃する。