気の抜けた愛
愛とか恋とか一生考えている。
ポルノグラフィティが「僕らが生まれてくるずっとずっと前から変わらない愛の形を探している」と歌っていた気持ちが今ならわかる。
愛はそこかしこにあって、どこにも見えない。古いビルの階段で煙草をふかすくたびれた早朝にだって、わたしは愛を探している。くたびれたワンピースを着て、何をしているんだとも思うけど、そういう朝だってあるとここで言っておきたい。
毎日目まぐるしく色んな人に会って消費されていると定期的に電池が切れる、と思う。にこやかに愛想をばら撒いて、でもそれがうまくいくと嬉しいとも思う。
昔から休むのが下手だった。
窮地に追い込まれると人間は元気になる。やってやろうじゃねえかという気になってくるのだ。人間は、というかわたしという人間は。
もう嫌だ、つかれた、人間やめたい、解脱したい、そういいながらもさざなみのように寄せては返すお客様方ににこやかに丁寧に接する時、そこには愛に似た何かがある。
人を楽しませて自分が嬉しくなる、というわたしの性格のいいところ、もしくは社会を生きる人間のサガかもしれない。
不器用で汚くて、いいとこばかりではない歪な人間たちは鬱陶しくて愛おしい。
面倒な人間を愛している。
けれど親しくなるのはまだこわい。
かつてわたしが恋をした男たちは隣にいるとそわそわして落ち着かず、何を話していいやらわからなくなる。気の抜けたソーダ水のようなわたしでいられる男には恋をしたことがないので、たぶんまだあんまり大人じゃない。
着飾らないでいられない。好きな人には嫌われたくない。だから付き合わないでいいし楽しく生きてほしいと思う。願わくばわたしの近くにもいてほしい。
でも男と女でその関係性が成り立つことはほとんどないし、そうこうしているうちに近づくことがこわいまま、愛を持て余している。
恋とか愛とか嫌になるくらいやって、そうしたらいつかくたびれた愛を手に入れることができるのだろうか。気の抜けたソーダ水みたいなわたしで、気の抜けたソーダ水みたいな人と生きる日々。気の抜けた愛。
それはきっと間抜けであたたかく、体に馴染むのだろう。