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ここに舞い降りしものたち~高麗探訪~

2024年3月20日、春分の日にドラムのHIKO、モデュラーの濁朗と私の3人で「最後から二番目の偽り」というタイトルのライブに誘われた。この3人は「長髄彦」で一緒になったメンバーである。我々の持ち時間は30分。

長髄彦の公演終了の打ち上げで「最後から二番目の偽り」はフィリップ・K・デイック のSF小説の「最後から二番目の真実」から来ており、これは映画の「ブレードランナー」 の元になったんだと濁朗が語る。するとHIKOが「今の東京は東京大空襲で焼け野原になったその時の惨状が東京には残像となっている。それを表現したい」と語る。そして 「残像」という言葉が我々のキーワードになった。

そもそも東京は武蔵野国(むさしのくに)だった。つまり関東平野一帯を表す。関東平野を江戸として治めることになった徳川家康は、なんとしても自分は「清和源氏の流れである」ということを証明したかった。清和源氏の血を引いていなければ武蔵野国は治められない。なぜなら、ここは坂東武士の根拠地でもある。清和天皇の子孫が臣籍降下(皇族を離れて他の姓(かばね)を名乗る)し源氏を名乗り、軍事に強い一族となり源頼朝によって鎌倉幕府が開かれた。源平合戦で平家に勝った最大の理由は坂東武士が源頼朝に組したからである。坂東武士は主に秩父山脈の麓、高麗郷の武士だ。

6世紀ごろの朝鮮の三国時 (Wikipediaより)

高麗郷は、朝鮮半島の高句麗の国が滅びて逃げてきた人々。高句麗は、朝鮮半島でも北の山脈の連なる国で騎馬を得意とする人々だった。今の北朝鮮と中国の国境にある白頭山は、「どこまでも白い山脈」で聖地とされ、さまざまな伝説がある。20世紀では、白頭山は日本統治から独立を目指した人々の集まった革命の聖地とされ、金日成は白頭山の洞窟で女戦士を母として生まれたとか...。

白頭山(Wikipediaより)

朝鮮半島には、6世紀ごろ、花郎(ファラン)という青年集団の制度があった。彼らは集団で軍事、社会教育、官吏教育、文化的教養を身につけた。状況に応じてそれぞれが、戦士、文化人、貴族となれるようにと、新羅を中心として発展していった。10世紀の高麗時代に収穫祭と仏教節会を集合した行事で花郎たちは舞を舞ったと言われている。 秩父の山脈の麓にある高麗の郷。秩父山脈を花郎たちは、第二の故郷として、高句麗から逃げてきた若光王(じゃっこうおう)に仕えようと決めた、という私の物語が生まれた。

さあ、高麗の郷に行こう。

2月23日は、今の天皇誕生日なので祝日。JR高麗川駅を降りる。そこから、高麗村石器時代住居跡に向かおうとすると、1時間半雪の降る中を歩く羽目になった。 現在の飯能市(高麗郷)には縄文中期の遺跡が80箇所見つかっている。高句麗の人々が来る前から住んでいた人々。縄文人、アイヌの人々が秩父山脈を背にして、安住できる地形だったのだろう。

高麗村石器時代住居跡(筆者撮影)

666年に高麗王若光は使者を出し、大和朝廷に朝貢(貢物を捧げる)した。大和朝廷は、高句麗、百済、新羅と 渡ってきたものたちを武蔵野国に置き、先住民族の追伐を命令したと想像される。彼らは大和朝廷のためにアイヌを北へ北へと追いやった。坂上田村麻呂が全国津々浦々回ったというより、このような大和朝廷と結んだ一族が、先住民族の撃退と引き換えに土地を掴んだのかもしれないと、 私は想像した。しかし「坂上田村麻呂」なのは、日本書紀に朝鮮半島の渡来人の名を載せるのではなく、あくまでも大和の戦士が戦ったと伝えたいから。

そして高麗王たちの菩提寺聖天院へ。拝観料300円と書いた木箱が置かれている。お守り、お札など値段が書いてあってさらに木箱が置いてある。無人野菜販売のようなお寺。そして誰もいない。この壮大なる寺院。現在、韓国の昌慶宮(チャンギョングン)で再現されている宮廷舞踊が当時ここで行われていたんだろうなぁと思える構図。ある意味、本堂がありその正面に広大な舞台がある京都の清水寺のようでもある。この聖天院に高麗王若光の墓「高麗王廟」がある。高麗王廟を守っているのは左右にある羊さん。当時は馬と一緒に羊も来たのだろうか?

昌慶宮で「順祖紀軸年」宮中舞踊再現 (大韓民国公式電子政府サイトより)
聖天院(筆者撮影)
高麗王廟(筆者撮影)
聖天院の風神、雷神。かっこいいと思った。(筆者撮影)

さらに聖天院を離れ高麗神社に向かう道から祭囃子が聞こえてくる。その音を頼りに歩いていくと高麗神社があった。住人の姿はどこにもなく、誰もいないのが聖天院だが、高麗神社は「日高まつり囃子のつどい」が行われ、人で賑わっている。

高麗神社本殿 (筆者撮影)
高麗神社神楽殿でのお囃子の演奏 (筆者撮影)

高麗神社は、毎月何かしらの行事が行われており、訪れる人があとを断たない。安倍政権の時代、嫌韓ムードが広がった時に、現在の明仁上皇夫妻は足繁く高麗神社を訪れた。嫌韓ブームとか、負の歴史はすぐに忘れる日本人だが、2020年に国民の平均賃金を韓国が日本を追い抜いた、その途端に日本から嫌韓ブームは姿を消した。「強い者には迎合」の安倍晋三のセオリーに従えば、もう嫌韓は終わりにしようということになる。GDP(国民総生 産)を韓国が日本を上回るのもほぼ時間の問題だろう。

17世紀に建造された高麗家の住宅跡。 4月には美しい枝垂桜が咲く。(筆者撮影)

そんな「弱い日本」であったとしても、高麗神社は、2月23日の現在の天皇誕生日には高麗郷一帯の祭囃子を招 いてこの祝日を祝い、2017(平成29)年9月に明仁上皇が天皇として高麗神社を訪れたことを記念して「行幸啓記念神恩感謝祭」を9月23日の秋分の日に毎年行っている。それは、666年に高麗王若光が大和朝廷と手を結んだ、その歴史が彼らをいまだに皇室(大和朝廷)寄りの心へと繋がっているようだ。これが彼らの生きる術(すべ)でもあった。

高麗神社に着いたころには雪も止み、今日の私の行程も終わり。高麗神社を跡にして橋をわたると高麗川に鷺がいた。この鷺の姿に何かほっとした気分になった。

高麗川の鷺(筆者撮影)

鷺、あっ、そういえば600巻から成る大般若経を写経したものが高麗神社に現存(456巻)していることを思い出した。高麗神社、聖天院も廃仏毀釈の前は同じ領地だったと思われる。彼らの菩提寺は、712年に創建。現在、聖天院は真言宗だが、奈良時代の彼らは仏教を布教する役割もあった法相宗の寺だった。若光王の23代の子孫、麗純の末子慶弁が修行のためと7年間にわたって大般若経を写経した。その第593巻目に「如是我聞、一時、薄伽梵住王舍城竹林園中白鷺池側」 (ある時、バガヴァーンは1,250人の群衆と一緒に、ラージャガハの竹林庭園にある白露池のほとりに滞在していました。)
というくだりがある。ここで初めて「白露池(はくろち)」という言葉が出てくる。ブッダが教えを説くための庭、日本人が知るところの祇園精舎にある池が白露池。白露池という言葉を知っているということは、大般若経を最後まで読んだ者の証となる。その固有名詞は白拍子の代表曲「水猿曲(みずのえんきょく)」にある。 「水の優れて 覚ゆるは 西天竺の白露池 尽澄(しむしょう)許由(こゆ)に 澄み渡る」

「坂東武士ー高麗王若光ー宮廷舞踊ー花郎ー大般若経ー白拍子」これらが武蔵野国の残像となった。 HIKO、濁朗、桜井真樹子のトリオ「真卑濁」は、全員シャーマンとなってステージに立つ。性を越えた存在としてのシャーマン。桜井は白拍子なので、もちろん平安時代の男装。HIKOは女装、濁郎は時代の降った花郎のようなトランス・ジェンダーな女装で、みなさまをお迎え致します。

真卑濁(桜井真樹子+HIKO+濁朗)

■最後から二番目の偽り
3月20日(水) 17:15 open 1800 start
会場:EARTHDOM(新宿区大久保2-32-3リスボンビル B1F)
アーティスト:真卑濁(桜井真樹子+HIKO+濁朗)、人間石鹸、Deficients, Risatipa, Kazumoto Endo
チャージ:前売り2,200円+1drink(500円) 当日 2,500円+1drink(500円)

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