映画『きみの色』を見て「色とは何か」について悶々と考える。
※注:悶々と考えたことをメモしただけの記事。考えが纏まってないし、結論もないです。
#ネタバレあり 。
映画『きみの色』の主人公たちはそれぞれ3原色の色を持っている。3原色とは「割合を変えて混合すれば、すべての色を表すことができる、基本となる三つの色」。つまり私たちの見る色はすべて、3原色の混合であらわすことができる、ということ。でもそれには疑問が浮かぶ。
色とはスペクトラム(連続的なもの)だ。なのに、すべての色は「3つの色」に還元できる、ということだろうか。自然の中に「特別な色」があるのだろうか?
この違和感は「すべての色が3つの色から作り出せる」という表現が厳密さを欠いていることによるものだ。どういうことか。ネットで見つけたわかりやすい説明を引用する。
私たちが「物理的な色」を見るとき、3原色に分離した粒度で知覚する。そのとき「光のすべての属性」を知覚することはできず、その3要素のみに注目して知覚する。だから異なった光でも同じ色として知覚するのだ。「黄色の波長のみの光」と「緑の波長と赤の波長が混じった光」は、どちらも同じように錐体細胞を刺激して黄色として知覚される。つまりこういうことだ。
「物理的な色」は本来3つの色に還元できない。でも私たちは「物理的な色」を3つの色の刺激に変換して知覚している。だから「私たちの見る色」は3つの色に還元できる。
つまり、私たちの「すべての色の感覚」は3つの色に還元できるが、色は本当はもっと多様なものなのだ。私たちはその違いを知覚できないが、けた違いに多様なのだ。なぜそんなに多様なのか。それは「様々な波長の色」が混じるからだ。混じり方の多様さは、私たちの頭ではとても想像できない。それを私たちの目は「一次元のスペクトラム」として捉える。私たちの見る黄色い光は一種類じゃない。でもそれを「同じ色」として知覚する。その能力のお陰で、たった3つの色から無限の色彩を作り出すことができる。そしてそれは「無限」であっても、私たちが認知できる程度に「きっちりとした秩序」を保ち続ける無限さなのだ。
これは、この物語で3人が作り出すものの可能性が無限であること、そしてそれと同時に、どんなに自由であっても絶対に崩れない秩序がある、という「相矛盾する感覚」の裏付けになっているもの、なのかもしれない。
物理的な世界はカオスだ。でも私たちは細胞からできているから、私たちの見る世界には「最低限の秩序」がある。連続的なものをそのままは知覚できない。細胞レベルでいったん離散化したものを、もういちど脳が「連続的な感覚」に再現している。そのとき、カオスという「絶対的な不安」に、「私たちにとっての安心」という要素が付与されているのかもしれない。そしてそれが、私たちにとっての「身体の意味」なのかもしれない。
映画の中で「きみ」はトツ子に対して、自分の心情をちゃんと明かすことはない。でもトツ子にも「なにか」が伝わっている。それは「きみ」の見ている世界が、トツ子にも少しだけ垣間見えたから。具体的なことはわからないけど、学校をやめるまで追い詰められた「気持ち」が伝わったのだろう。この「少しだけ垣間見える能力(共感とよばれるもの)」は、頭ではなく「体の声」を聴く力が試されるものだ。それは私たちの体がもつ「最低限の秩序」と関係しているような気がする。
多様性を表す言葉として「スペクトラム」はよく使われる。私たちの個性は枠にはまるものじゃなく連続的なものだ、と言いたいときに使われる。でも私たちの想像する「無限の多様性を持つスペクトラム」とは、たかだか一次元の無限だ。でも本当は(色の場合と同じように)その陰に、無数の次元の無限が隠れていて、それを私たちの知覚機能が「頭で理解できる程度の無限」に抑え込んでいるのだろう。そのとき、私たちの目で同じに見えるものは、その裏の物理的な機構では違っているのだ。私たちが知ることができる多様性は「3原色で受け取れる刺激」の場合のように「限られた多様性」でしかない。でもその事実は、なぜかとてもほっとする。私にはそう感じられる。この安心感、許された感じはなぜ生まれるのだろう。そのうち考えてみよう。