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ダンまち5期 9話感想/ジレンマから抜け出すために、意図を自分から隠せ

アニメ『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか(ダンまち)』5期を見ている。5期は神フレイヤの中にある2つの人格をめぐるお話なのだけれど、その二重性の描き方がとても興味深かった。感じたことをメモしておく。(作者の意図とは全然違うかも)

#ネタバレあり

●複雑な設定の謎
神フレイヤの中には「ボスキャラ人格」と、シルという「ただの少女人格」が居る。そしてその二つの人格を、フレイヤはヘルンという他人と共有している。つまり二重人格を二人で共有するという複雑な設定だ。なぜそんな複雑な設定が必要だったのだろうか。そして私たちはなぜこんな複雑な設定を「さらっと理解してしまう」のだろうか。

●心の構造を映しだす二人の関係
私たちは、自分の中に二つの人格がいると感じることがある。例えば、誰かに対して優しくありたいと思っているのに、辛く当たってしまう時がある。優しい自分を思い描いているのに、「辛く当たる自分」を止められなくなるときがある。そういうとき「優しい自分」と「辛く当たる自分」が自分の中で分裂している。そして分裂している自分に気づいている「3人目の人格」がいる。この3人目の自分は、自分をメタ的に見ている人格だ。そしてよく考えるなら、この3人目のメタ人格も「優しくなれないこと」に自責を感じている部分と、「辛く当たること」に対して仕方がないことだ、と言い訳する部分に分裂している。この「3人目のメタ人格」がフレイヤにとってのヘルンに当たる、と考えることは可能だろう。つまり、私たちは自分の中に、自分にとってのヘルンを持っているのだ。自分とは違う角度でメタ的に状況を把握し、自分より状況を正しく理解しているもう一人の自分。そういう「別の自分」がいると感じることがある。だからフレイヤとヘルンの一見複雑な関係性は、私たちには意外と「飲み込みやすいもの」なのだろう。

●フレイヤとヘルン、共有する感情と共有しない意図
ヘルンはフレイヤとは別の意図をもっている。フレイヤの深い苦しみを知っているヘルンは、ベルならフレイヤを救えると感じている。フレイヤ本人はそうは考えていない。自分の苦しみを救えるのはベルではない。ベルを手に入れた時に初めて、自分の苦しみを「紛らすことが出来る」と信じている。でもその考えは客観的に考えて無理がある。ベルを手に入れることが出来たとき、フレイヤの中のベルへの執着は消えるだろう。そして苦しみは深まる。フレイヤは聡明な人だ。だから本当はフレイヤはそのことに気づいているはずだ。でもフレイヤはベルに助けを求められない。そんなことをすれば、ベルの行動の中に「自分への同情が含まれている疑い」が消せなくなってしまう。「救ってほしいという気持ち」は自分から隠さなければならないのだ。だからヘルンというメタ人格が、フレイヤの意図に反した暗躍を行い始めた。この物語はそう捉えることが出来るだろうと思う。

●意図の隠蔽の物語
フレイヤの意図に反してヘルンがフレイヤを救うために暗躍する。これはヘルメスが、自分のやることに集中することで、記憶のリセットを防いだ方法と同じだ。ヘルメスは「過去の自分が考えた隠された意図」に気づくことなく、何かを進行させなければならなかった。そのときヘルメスは、ヘスティアに託したメモに「意図」を任せた。そして目の前のことにだけ集中した。これは巧妙な「意図の隠蔽」だ。
フレイヤの物語も同じだ。「同情」を避けるためには「誰かに救ってほしい」という意図は隠蔽されなければならない。自分が「誰かに救ってほしい」と願っていることに気づいてはいけないのだ。そしてフレイヤは、ヘルンの暴走を苦々しく思いながら止めることが出来ない。それは「隠された意図」を無意識にヘルンに託しているからだ。そしてフレイヤは自分の暴走(力づくでベルを手に入れる)を推し進めることに集中する。これはメタ的に見るなら、フレイヤとヘルン二人の共同作業だ。そしてそれは、ヘルメスとヘスティアの共同作業と鏡のようになっている。ヘルメスはフレイヤの魅了を破るたに、他者との共同作業を必要とした。フレイヤは「強い力を持つことの深い苦しみ」をベルに救ってもらうために、自分とは違う意図を持つ他者が必要だった。ヘルメスには、ヘスティアの神威という切り札があった。フレイヤの切り札は「ベル」だ。彼なら何かが出来るのではないか。その「何か」とは一体どういうものなのか全く想像できない。だからこそ、とても楽しみだ。

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