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『ガールズバンドクライ』7話/大人化する世界に抗う物語

『ガールズバンドクライ』7話視聴。またまた色々思うところの多い回だった。私は視聴者ターゲット年齢から大きく外れているので、たぶんかなり偏ったこと(的外れともいう)を感じているだろう。でも、思ったことを自分勝手に書いておこうと思う。

#ネタバレあり

今回、仁菜の過去が明かされた。そして色々感じることがあった。仁菜の父には「カリスマ教育者」という肩書があり、そのせいで仁菜の登校拒否を受け入れようとしなかった。更に「いじめ隠蔽」に同意する代わりに推薦を得るという「学校との取引」をしようとした。そしてそれを受け入れられない仁菜は、実力で大学に受かると言って家を出た。
このエピソードには、大きく二つの捉え方がある。一つは、目の前の損を捨てて、長期的な得を取るのは悪いことではない。父親の対処法も、一つの案として検討すべき、と言う捉え方。いわゆる「大人の対応」だ。
二つめは、父親の戦略は考えただけで吐き気がする。そんなものには唾を吐き掛けるべきだ、という捉え方だ。いわゆる「子供の対応」だろう。
私が気になったのは、どちらが正しい捉え方か?ではない。きっと、事実を知れば知るほど違う側面が見えて、その疑問には結論はない。気になったのは、今の時代が「大人の対応」の方をより求められる気がすること。そしてその傾向は、ますます強まっていくのではないか、と言うことだ。過剰コンプライアンス社会。新たな「○○ハラスメント」という言葉が大量に生まれる社会。世界は大人であることを私たちに要求するようになっている。そして私の個人的な感覚では、自分も無意識意にその要求に答えようとしているけど、若い人の方がその要求に「ナチュラルにちゃんと答える」ようになってきている気がしている。世代論はオジサンの習性だ。ルパさんなら「うざいですよ」と言うだろう。だからこの辺でやめておく。

つまり何を言いたいのか。いま世界は大人化している。だから「大人の対応」と「子供の対応」の対決を描こうとすると、大人側に偏った場所での戦いになってしまうのではないか。そして、この「ガルクラ」という作品は、その戦場を意図的に「子供側」に寄せた場所にしているのではないだろうか。私が思ったのはそういうことだ。なぜそう思ったのかを書いておく。

ガルクラは基本的に「仁菜と桃花の話」なのだと思う。仁菜は「取引という大人対応」に反発していて、いまはトゲトゲの人だ。そして桃花は「取引という大人対応」に反発し、そしてそれによって大事なものを無くした人、トゲトゲだったけどトゲナシになった人、なのだと思う。つまり仁菜は昔の桃花なのだ。桃花はもともとすごく「子供側」に立っていた。そこから大人になたばかり。だからこの二人がぶつかり合うとき、その戦場は「子供側」に大きく偏る。それは「レベルが低い」ように見える。「馬鹿じゃないの」と感じられる。でも今の私たちの問題は、レベルが低い戦いをちゃんとやれる場所がないことだ。ガルクラは巧みな舞台設定と語り口によって、巧みにその戦場のすぐそばに私たちを連れて行ってくれる。二人の戦いが自分たちに無関係じゃない、と感じさせてくれる。私たちは仁菜に「桃花さんの閉ざされた心」を揺り動かしてほしいと心から願う。それは桃花の中に、自分自身の何かを見ているから、なのだろう。

そんな小難しいことはさておき、今回もいい話だった。「脱退する。それでいい。」とサラッと言った桃花は、酔いつぶれて何かを抱えたまま苦しんでいる。そんな桃花に対して、予備校をやめるという「とんでもないバカ決心」をする仁菜。そのバカ加減で桃花を揺り動かす仁菜。親父ことはどうするんだよ。本当にバカだと思う。けど、本当にカッコいい。頼もしいバカ。それが仁菜だ。

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