アニメ『ダンダダン 7話』 優しい世界へ/ろくでもない美しいものと、優しい世界
アニメ『ダンダダン』7話視聴。凄い回だった。とりあえず何か書いておきたいので、ぜんぜん考えは纏まっていないけど、いま思っていることをメモしておく。
●感動ポルノ的なものではない、という確信
「感動ポルノ」という言葉がある。Wikipediaによると「主に身体障害者が健常者に同情・感動をもたらすコンテンツとして消費されることを批判的に表した言葉」だ。「感動」は快感を伴うので、安易に感動を味わえるドラッグ的なものが作られたりする。だから「泣かせに来る演出」を見ると、その言葉がどうしても頭にちらつく。7話で私は「強烈な演出」によって泣かされた。ずるいよそれは、と言う演出の連続だ。それは私にとって感動ポルノ的なもの、だったのか?いや違う。そういう確信がある。私のこの確信はどこから来るのだろうか。
●悲しみの中でしかつかめないもの
7話の後半は、怪異「アクロバティックさらさら(アクさら)」の壮絶なバックストーリーだ。深く愛していた娘と引き裂かれた彼女。貧しくても幸せだった二人。借金取り(?)に傷つけられて引き裂かれる二人。それは、言ってみればありがちなプロットだ。人には悲劇の型がある。そこを刺激されると泣いてしまう「泣かせるツボ」のようなものがある。感動ポルノの特徴は「泣かせるツボ刺激に特化した演出」だ。7話の演出は感動ポルノにとても似ていた。でも決定的に違う効果があった。この演出で私は悲しい気持ちにさせられただけじゃない。その悲しみの中でしか感じられないものを感じ取ることが出来たのだ。それは「彼女の存在自体が持っている、どうしようもないほどの美しさ」だ。それは彼女のダンスシーンで気が付く。このシーンは美しい。光も音楽も動きも。でも、このシーンを見ながら一番感じるのは、光や音楽や動きの美しさではない。彼女の人生の儚さと悲しさの中にある「どうしようもないほどの美しさ」の方なのだ。いくらきれいな映像と音楽と素晴らしいアニメーションがあっても、そこに「胸を締め付けられるほどの悲しみのツボ刺激」が合わさらなければ、私たちはこれほど深い美しさを感じ取ることは出来ない。この「深い美しさ」を感じるために、まるで感動ポルノのような「ズルい演出」が必要だったのだ。そう私は思っている。
●ろくでもないけど美しいものと、優しい世界
崩れ行く「アクさら」を見ながら、ターボババァは憎まれ口をたたく。
まぁどうせろくでもない人生さ。こんな奴の存在が消えたところで、どうってことないわ。
確かに「アクさら」の人生は「ろくでもない人生」だったのだろう。でもそんな奴の存在が「消えてしまうこと」に、私たちは耐えられない。思わず抱きしめたアイラのように、なんとかして救われてほしいと必死に願う。それは彼女の存在の中に「どうしようもないほどの美しさ」があることを知ってしまったからだ。
アイラは最後に「忘れない 絶対」と呟く。それはもちろん、「アクさら」のことを忘れない、という意志表明だろう。でもそこには「あの美しさに触れた経験は、絶対に忘れられるわけがない」という確信が含まれていたのだと思う。そしてその確信は、モモとオカルンも感じていたのだろう。忘れられるはずもない美しさを知った三人のあの最後のシーン。あの瞬間あの場所は「優しい世界」だった。私にはそう感じられた。