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ショートショート12:弟のサンドバッグ

 仕事で急なトラブル対応に追われ、実家についたときには午後6時を過ぎていた。予定では午前中には着いているはずだったから、1日無駄にした気分だ。

 スマホで動画を見ながら夕食の支度をしていた母に声をかけ、まずはこの鬱陶しいスーツを脱ごうと、ネクタイをほどきながら2階の自室に上がる。

 自分の部屋に入ろうとして、ふと向かいにある弟の部屋が目に入った。ふすまの向こうの暗がりで、何かが天井からぶら下がって揺れているのが見えた。

 揺れているものはちょうど成人男性くらいの大きさだった。

「おい、おいおいおいっ、まじか」

 俺は本能的に弟の部屋に飛び込んだ。壁を弄って電気をつける。しかし眩しさに目を細めながら部屋の中を見て、揺れていたものの正体を知り、俺は心の底から安堵した。

「……んだよ、びっくりさせるなよ」

 それは格闘技の練習なんかで使うようなサンドバッグだった。てっきり弟が首でも吊っているかと思ったのだが、杞憂だったらしい。

 俺は冷や汗を拭いながらサンドバッグに近づいてみた。前に帰省したときはこんなものはなかった。弟は新しく格闘技でも始めたのだろうか。

 軽くサンドバッグを手で押してみる。手前に戻ってきたタイミングで、パンチを一発打ち込んでみた。思いのほか柔らかい手応えに拍子抜けしつつ、俺はもう一度、今度は逆の手で殴った。不思議な感触が、気持ちいい。

 仕事のトラブル対応でストレスが溜まっていた俺は、拳を握りしめ、何度もサンドバッグに叩きつけた。一発殴るごとに心の中の黒い影が一段回薄くなるような感じがした。やがて拳に飽きた俺は、弟の部屋を見渡して壁に金属バットが立てかけてあるのを見つけた。今度はそれを握りしめ、右から左から思うがままにサンドバッグを叩いた。

 5分も動けばスーツが肌に張り付くほど汗を掻いていた。

「いい運動になったわ」

 額の汗を拭い、バッドを元の位置に戻して自室に戻る。スーツから部屋着に着替えて一階に降りると、母親が出来上がった夕飯のおかずを食卓に並べているところだった。

「あれ、あんたいつからいたの?」

「さっきだよ。声かけたろ」

「ごめん、動画見てたから気が付かなかった」

 母は悪びれずに言う。

「ほら、あんたも食器とか色々出すの手伝って──ところで、弘樹の部屋のアレ、みた?」

 弘樹というのは弟の名前だ。

「アレ?」

「あのサンドバッグみたいなやつ」

「みたいなやつっていうか、サンドバッグだろ」

「違うのよ」

 母は炊飯器の中をしゃもじでかき混ぜながら言う。

「あれ寝袋なんだって」

「え?」

「お母さんもよくわからないんだけど、立ち寝用の寝袋らしいよ。立ち寝るは血行促進効果があってぐっすり眠れるし、疲労回復にもいいんだってさ」

 お母さんもよくわかんないだけどね、ともう一回言って、母は炊飯器からご飯をすくって手際よく茶碗によそっていく。

 それから天井を見上げて困ったように言った。

「あの子まだ寝てるのかしら。ご飯の支度始める前に上に行ったきり降りてこないけど……ねえ、起こしてきてくれない?」


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