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ショートショート01:豚がいた家

 家を出て最初に見つけた老人に優しくすることにした。

 気がつけば午後4時を過ぎていた。三連休の終わりが始まり始めた。朝からこの時間までずっと狭い自室にこもって動画を見ていると流石に休日に対して罪悪感が湧いてくる。かといってなにか予定があるわけでもない。予定がないのに外に出るのも、それはそれで悔しい。

 何か外に出る予定ができないかとYouTubeのショート動画を思考停止で眺めながらぼんやり考えていると、今日が「敬老の日」であることを思い出した。これだ。老人に優しくしてやろう。自己肯定感も上がるし、老人も嬉しいだろうし、一石二鳥のWin-Winだ。

 僕はさっそくマンションの部屋を出て、困っていそうな老人を探しに行くことにした。実家に行けば祖母がいるし、両親ももう老人に半歩足を踏み入れている年齢だが、今日これから実家まで行くのは少ししんどい。自己肯定感をあげるにはコスパも大事だ。

9月半ばとは思えない暑さに少しだけ外に出たことを後悔しながら、僕はマンションの前の坂を下っていった。暑さのせいか時間帯のせいか老人はおろか、若い人さえあまり出歩いていない。見つかるまで探し回っても大変なだけだから、近所をぐるりと一周したら帰ることに決めた。諦めも大事だ。無理してあげる自己肯定感には意味がない。

適当な角を曲がって児童公園に差し掛かると、ベンチに腰掛けている老婆を見つけた。ネイビーのバケットハットを被り、ハンカチで頬の汗を拭っている。傍らには荷物がパンパンに詰まったエコバッグを座らせていた。

「こんにちは」

 僕は老婆に声をかけた。老婆はハンカチで汗を拭うのを止めて僕を見た。警戒するような目をしていた。

「はあ、こんにちは」
「よければ荷物持つのお手伝いしましょうか?」
「はい?」
「その隣の買い物袋、よければ僕が家まで運びましょうか?」

 老婆はよりいっそう警戒するような目をした。

「怪しいものじゃないです。いきなりすみません。僕近所に住んでる者です。今日って敬老の日じゃないですか。だからお年寄りに親切にしようと思って」
「……はあ」
「嫌だったら断っていただいて結構です。自分がお婆さんの立場だったら同じように警戒すると思うので。ただ本当に、嘘偽りなく、善意です。これは」

 正確には善意と、ほんの少しの承認欲求だ。

 僕は老婆の反応を伺いながら、彼女が手に奇妙なものを握りしめていることに気がついた。首輪の付いた、犬用のリードらしき赤い革紐だった。しかしその先に繋がれているはずの犬がいない。空っぽのリードだ。

「お散歩ですか?」
「え? ああ、いえ、これは違うんです」

 老婆は革紐を大事そうに指で撫でた。

「飼っていた豚を、数年前に亡くしまして」
「豚ですか」

 豚をペットにしている人はYouTubeやSNSなどではたまに見かけるが、実際に遭遇するのは初めてだった。詳しく聞いてもいいのだろうか。会話の先を迷っていると、老婆は話を続けた。

「この公園は豚との思い出の散歩コースでした。だからついつい寂しさが募るとここに来てしまうんです。お気に入りのリードまで持って」
「そうなんですね。でもその気持ち、少し分かるかもしれません」
「そう?」
「僕も実家で犬を飼っているんです。その犬が死んだら、感傷的になっていつもの散歩コースを一人で巡ってしまうかも」
「あなたもペットを飼ってらっしゃるんですか。かわいいかしら?」
「ええ、それはもう。小型犬で、よく吠える悪ガキのような犬ですが」
「上手く躾けられなかったんですね」

 老婆は僕に向かって優しげに微笑んだ。警戒心が緩んだようだった。

「ところで本当に荷物を運んでくれるのかしら?」
「はい、ご迷惑でなければ」
「そう。ならお願いしてみようかしら」
「まかせてください」

 僕は老婆の隣の荷物を持ち上げた。中々の重量があった。

「これを一人で持って帰ろうと?」
「もちろん。家には私しかいませんから。そんなに遠くないので、1つよろしくお願いしますね」

 老婆は豚用のリードをぐるぐると腕に巻き、パチンパチンと音を鳴らしながら歩く。僕は彼女を追い越さないよう、歩幅に気をつけながら隣に並んだ。老婆は足取りこそ遅いが、年齢を感じさせない綺麗な姿勢をしていた。

「聞いていいかどうか迷ったんですけど」
「何かしら?」
「豚がペットって珍しいですよね」
「あはは、そうですよね。珍しいと思います。散歩させるたび、近所の人たちから変な目で見られましたもの。職務質問されたことだってあります」

 しかしそんなトラブルさえ今となってはいい思い出だったと懐かしむように、老婆は秋の迫る高い空を見上げた。

「私は人生で何匹もの豚を飼ってきたけど、最後の豚が一番だった。大人しくて、従順で、とても素敵な鳴き声をしていた」

 一匹だけではなく過去に何匹もということは、本当に豚が好きなのだろうと僕は思った。珍しい。珍しいが、悪い人ではないのはよく分かる。豚の話をするときの老婆の表情は、とても楽しげで、まるで少女のようだった。

「新しい豚を飼おうとか思ったりって、しないんですか?」
「考えたことはありましたたけどもね。でも今言った通り最後の豚が一番の豚だったんです。あの豚は私のすべてでした。私のすべてを受け入れてくれれました。あれ以上の豚は見つけられないと思うんです。だからもう豚を飼うのはやめにしました」
「いいパートナだったんですね、お互いに」
「そうですね。あなたの言う通りです。死んだらまたあの豚に会えるかもしれないって考えたら、死ぬのも楽しみになってきましたもの最近」
「いやいや、そんなこと言わずに」

 突っ込みにくい自虐ジョークに、しかし僕は胸の奥が少し暖かくなった。一瞬の思いつきで始めた今日のこの行動は、無駄ではなかったと思った。

「ああ、ここです」

 話しているうちに老婆の家についた。小さな二階建ての一軒家だった。表札には「西岡」とあった。老婆は鉄の門扉を開けて、僕を玄関まで招いた。

 僕は玄関の上がり框のところにエコバッグを置いた。首筋にじんわりと滲んだ汗を手の甲で拭っていると、老婆が柔らかな声で言った。

「重かったでしょう? 少し上がっていきなさいよ」
「いえ、そんな」
「大したもてなしはできませんけれど、冷たいお茶とアイスくらいなら用意がありますから、どうか遠慮しないで」
「そしたら、少しだけ」

 老人に優しくするつもりが、優しくされてどうするんだと思うが、正直、喉はとても渇いていた。

 靴を脱ぎ、老婆に案内されて一階奥のリビングに向かう。

「そう言えば豚の名前は何ていうんです?」
「名前? ありませんよそんなもの。豚は豚です」
「そんなもんですか?」
「ええ、そんなものですよ」

 リビングダイニングを入ってすぐ右手のキャビネットに写真が飾られていた。頬が垂れた黒縁メガネの男性の、おそらくは遺影だ。

「これはご主人ですか?」

 尋ねると、隣に立っていた老婆は遺影を覗き込んでおかしそうに笑った。

「ご主人? 主人は私よ」

 それから老婆は家に向かって、日課のような口調で言った。

「ただいま。帰ったわよ、豚野郎」


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