見出し画像

ショートショート97-①:友情努力勝利!

 俺の一週間は友情、努力、勝利から始まる。

 資格関連の講義を受けるために後期の毎週月曜日を友人のいない中野のキャンパスで過ごさなければいない俺にとって、唯一無二の戦友は少年ジャンプだった。

 電車に乗る前に駅前のコンビニで購入し、いつもぎりぎり一つだけ空いている席に腰を落ち着けて紙面を開く。大学の最寄りまでの二〇分間、友情と努力と勝利の世界に没頭する。

 そんな俺の熱血ルーティーンに突如としてその女性が現れたのは、十一月の末のことだった。

「ちょっといい?」

 突然頭上から声が降ってきた。誌面から顔をあげると、見知らぬ女性が俺が座るシートの前に立っていた。意志の強そうな鋭い眼差しをした、二十代後半くらいの茶髪のお姉さん。

「キミだよ、キミ。漫画雑誌の」

 そう言われてようやく俺は、彼女が自分に話しかけているのだと理解した。見上げた先、薄くて細い眉の下にで二つの眼が力強く俺を見つめ返してきた。

「な、なんすか」

 通勤電車の中で他人に声を掛けられるという状況に不慣れで、俺は思わず読んでいたジャンプを閉じて身構える。イチャモンでもつけられたらどうしようと不安になった。こちらとしては最低限の車内マナーは守っていたつもりだ。何か言われたら毅然と言い返そうと決意する。

 お姉さんは言った。

「それ、私に譲ってくれない?」

「それ?」

「それよ、それ。そのキミが今胸に抱えているモノ」

「胸に抱えているモノ?」

 胸に抱えているものなど一つしかない。俺の友人、少年ジャンプだ。

「もちろんタダでじゃなくて、お金は払うよ」

 お姉さんはそう言ってトートバッグの中から分厚い財布を出し、千円札を一枚抜き取った。

「千円出す」

「千円?」

 俺は危うく大声を上げそうになるのをどうにか自制する。

「足りないならもう千円」

「いや、いいっす。俺が読んだやつでよければ、どうぞ」

 通読はしていないが、毎週チェックしている作品だけはもう読んだ。あとは適当に流し読みするだけだったから、千円で売れるというならこれほどボロい商売もない。

 俺はジャンプを渡し、千円札を受け取った。

 お姉さんは礼を言ってジャンプを鞄の中にしまうとそのまま俺の正面で二駅ほど揺られ続け、ほかの乗客に呑み込まれつつ電車を降りていった。

 俺は労せず手に入れた千円札にポケットの中で触れながら、ホームを歩くお姉さんの横顔を電車の中から見送った。

 お姉さんに少年ジャンプを千円で売りつけてから一カ月がたった。

 彼女のことはたびたび電車内で見かけたし、どこの駅でノリどこの駅で降りるのかもなんとなく把握していたが、一カ月前のあの日以来、言葉をかわすことはなかった。

 その日は年内最後の授業日で、俺は半期を通じて仲良くなった中野のキャンパスの友人たちと授業終わりに小さな忘年会をした。

 会は思いのほか盛り上がり、解散したのは終電に間に合うかどうかという時間帯だった。JRの改札に引き取られていく友人たちを見送り、俺は一人メトロから帰路に着く。

 あまりに混雑していたので一本見送り、結局終電となった。金曜の夜だった。車内は熱気と酒臭さが充満し、十二月も終わりだというのに扇風機が回っていた。

 さすがに座ることは諦めてつり革に捕まる。席が空くのをうつらうつらしながら待っていると、俺は人口密度の下がった車内に彼女を見た。

 忘れもしない、千円ジャンプのお姉さんだった。シートの端の席に座っていた。いつのまにか乗り込んできたのだろう。通勤用のトートバッグを大事そうに抱え、小さく船を漕いでいる。

 ついさっきまであった眠気が遠のいていき、俺は気がつけば乗客を掻き分けてお姉さんへと近付いていった。

 ぐっすり眠りにつく彼女は、いつも見かけるときとは雰囲気がかなり違っていた。ジャケットには皺がつき、焦茶色の前髪は疲れ切ったように額へ垂れ下がり、手に握られたスマートフォンはニュースサイトを開いたまま待ちぼうけを食らっている。

 なんとなくそのままお姉さんの前の吊革に掴まり続けた。

 なぜ一カ月前に俺から千円で少年ジャンプを買ったのかを知りたいと思った。そんなに急いでいたのか、それとも何か付加価値が会ったのか。起こして問いただしてみたかった。

 やがて電車はお姉さんがいつも乗り込んでくる駅に到着した。しかし彼女は起きる気配をまったく見せず、髪を顔の前に垂らして船を漕ぎ続けていた。

「あの、起きた方がいいと思います、よ」

 俺はささやく。お姉さんは唇の隙間から「んぅ?」とだけ漏らしてまた夢の世界に戻っていく。この駅での客はあらかた降りきった。もう間もなく発車する。

「起きた方がいいですよ、最寄り駅ですよね?」

 俺はしかたなくお姉さんの肩を揺すった。
「んぁ!?……あ、キミ」

 お姉さんは落とし掛けたスマホを握り直しながら俺を見つめ、半覚醒状態の頭でここが自分の降りる駅だと悟ったらしい。慌ただしく立ち上がって扉の方へと走っていった。ばさりと俺の足下で音がする。発車ベル。足下に目を向ける。空気が抜ける音。ジャンプが落ちていた。俺が今週の月曜に渡した号。扉に目を向ける。ドァシァリェアス。お姉さんはジャンプを落としたことに気がついていない。ドアが閉まり始める。俺は一瞬の迷いの後、ジャンプを拾って電車を降りた。

 背後でドアが閉まる。

 終電は俺をホームに置いて去っていく。

 改札を出てお姉さんに追いつくと、俺は拾ったジャンプを手渡した。彼女はちょうど鞄の中を漁っているところだった。

「ああ、やっぱり落としてたんだ……ごめんなさい」

 お姉さんはジャンプを鞄にしまいつつ首を傾げる。

「キミ、前に私にジャンプ売ってくれた子だよね」
「ええ、そうっすね」
「いつも私より先に電車に乗っているけど、降りる駅はここでいいの?」
「あ、いえ。俺の最寄りは隣です」

 向こうも俺を認識してくれていたのか、と少し嬉しくなる。

「じゃあこれを届けるためにわざわざ?」

 正直に「そうです」と答えるのはなんとなく憚られたので、曖昧な頷きでお茶を濁した。

「そっか。申し訳ないことしちゃったね。わかった、タクシー代を払うから乗って帰りなよ」

「タクシーってそれはさすがに」

「遠慮はしなくていいから。前に漫画雑誌を譲ってくれたお礼」

 言うが早しと駅前の道で手を挙げるお姉さんに、半ばしがみつくようにして俺は言った。

「歩きますから大丈夫ですって。一駅なんで、余裕です」

 三百円のモノを千円で売りつけているうえにタクシー代まで出してもらうのは気が退けた。

「ふうん。まあそう言うなら無理強いはしないよ。とにかく雑誌を届けてくれてありがと」

 そう言ってくるりとこちらに向けられた背に、俺は反射的に問いかけた。

「なんで俺からジャンプを買ったんですか?」

 なんとなくここが一番の聞き時だったのだと思う。

 お姉さんは足を止め、夜空を見上げて息を吐く。白い息が済んだ空気の中を立ち上っていく。そして彼女はこちらに背を向けたまま質問を返してきた。

「キミは明日学校休み?」

「はい、土曜日なので」

「そしたら今から私の家で一杯付き合わない?」

「未成年、じゃないわよね?」

「はい。21です」
「若いわあ。はい、じゃあこれどうぞ」

 俺の目の前に缶ビールとグラスを置くと、お姉さんのお母さんはスリッパをぺたぺた鳴らしながら台所に戻っていく。そしてすぐに冷凍唐揚げを載せた皿を持って引き返してきた。

「もういいから、寝ててよ」

「はいはい」

 お母さんはむっとした様子のお姉さんを適当に受け流し、

「こんなものしか用意出来なくてごめんなさいね」

「いえ、お気遣いありがとうございます」

「それじゃくつろいでいってね。ほんとに、もう娘がご迷惑をおかけして」

「おかーさんっ!」

「あはは」

 ぺたぺたという足音が階段を上がっていく。ダイニングのテーブルには俺とお姉さんと酒とおつまみが残された。

 なぜだろう。沈黙にもの凄く緊張する。

「まあ飲もっか」

「あ、はい。いただきます」

 ぷしっと缶ビールのタブが引かれ、お姉さんがグラスにビールを注いでくれる。白い泡がもこもこと膨らんでいくのを見つめながら、なぜ俺はこんなところにいるのだろうかと思う。お姉さんに家で飲まないかと誘われて、二つ返事で頷いたら本当に家まで連れて来られた。駅から徒歩五分ほどの住宅街にあるモダンな雰囲気の一軒家で、表札には『梨本』とあった。

 乾杯し、しばらくは他愛もない話をした。というより、お姉さんからの一方的な質問に俺が答えていくだけだった。何を勉強しているのか、お酒は飲
むのか、将来の夢は何か。質問の合間に俺は二本目の缶ビールをあけ、唐揚げを三個ほど食べた。

 そろそろ質問が尽きかけてきたという頃合いでお姉さんはおもむろに言った。

「──ちょっと来てくれる?」

(②へつづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?