ショートショート07-1:本気出す出す、いつか出す
「なあ、どうする? 人権、放棄する?」
いつもの居酒屋のいつもの席。俺はいつもの中ジョッキを手に、幼馴染みの栗田に尋ねた。
「もうすぐ俺たち30だろ?人権どうしようかなって最近悩んでててさ」
10年前に施行された特別動物愛護管理法によって、俺たち国民は30歳になると人権を放棄することができるようになった。
「人権を放棄するってのはどんな感じなんだろうね」
栗田がタコワサを箸でつまみながらポツリと呟いた。
「死ぬ、みたいなもんだろ」
俺は言った。
「人権を放棄したら戸籍を抹消されて、俺──後藤優吾という人間はこの世界から消える。けどそのかわりに就労や納税と言ったあらゆる義務と社会的責任から開放されて、自由が手に入るんだ」
「でも自力じゃ生きていけないから、人に飼われて生きていくことになるでしょ? 愛玩動物ってことだよね」
「いいじゃん愛玩動物。栗田さ、お前ペットとか飼ったことない?」
「ないよ」
「俺実家に犬がいたんだけど、あいつらマジで自由気ままだぜ。一日中家でごろごろしてるだけで寝床が確保されて食事が出てきて、羨ましいよ本当」
「そうかなあ」
栗田は釈然としない顔でレモンサワーのジョッキに口をつけた。
誕生日が近い俺と栗田は来月、30歳になる。
30歳にもなればいろいろと見えてくる。
自分の才能、社会での立場、力、将来性。挑戦と諦めの比率が逆転するのがこの30という節目だろうと俺は思うし、10年前にこの法律の制定に関わった人間もそう思っていたに違いない。
30歳から先の人生は、おそらく多くの人間にとって、代わり映えのしないものになるだろう。失った夢と潰えた希望を悔やみながら、目指したいゴールではなく目指せるゴールを目指すだけの、消化試合同然の50余年に。
だからここらで1つ人権を放棄してみてはどうだろうかか、と投げかけるのが特別動物愛護法である。
増えゆく自殺者を死なせるよりはいいだろうという妥協や、増加する通称"無敵の人”による無差別犯罪の抑止といった理由から生まれたこの法律は、施行から10年、可もなく不可もなくと言った状況で運用されている。
自殺者や無差別犯罪を実際に防ぐことができたのかどうかは悪魔の証明に近いから不可能だが、件数が減っているのは間違いない。法の施行で減少する税収の補填や少子化への影響などについても、今のところ大きな問題は確認されていない。増え続ける税金も、政府や有識者の説明によれば「"特別動物愛護管理法”によるものではございません」とのことだ。真偽は知らない。
「話を聞く限りだと後藤は人権放棄を割りと前向きに考えてるってこと?」
「おう。というか多分、よほどのことがない限り放棄すると思う」
「そんなに?」
「だってよ、俺、こんなんだぜ?」
俺は大げさに両手を広げて自分のでっぷり太った腹を前に突き出した。
「デブ、ハゲ、ブサイク、チビ。非正規雇用。定収入。童貞。Fラン卒。コンプレックスのヤマタノオロチだよ。こんな人間に将来があると思うか?」
「そんなの、これから先のことなんかわからないじゃんか」
「甘い、甘いよ栗田。お前自分のこと、ちゃんと客観視できてるか?お前だって俺ほどじゃないにしろ終わってんだよ。コミュ障で、中卒で、ヒョロガリで、チビで、ブスで、職歴なし、資格なし、いつまでも親のすねをかじり続ける根暗野郎」
「い、今から頑張ればまだまだ挽回できるでしょ?僕も、後藤も。チビとハゲとブサイクはどうしようもないけど、それ以外はまだ」
「どうしようもないとか言うなよ。どうしようもないけど」
栗田の言う通り、まだ挽回の余地はあるだろう。
今から必死に頑張ればデブと非正規雇用と低収入くらいは改善できるかもしれない。その3つが改善できればおそらく童貞とFラン卒も同時に解消できる。だがチビハゲブサイクは残る。ヤマタノオロチからキングギドラになるだけだ。
結局、何も変わらない。それに今から頑張るだけの意欲もない。だったら諦めて人権を手放したほうがずっと楽だ。
「俺の大学の先輩で、一昨年くらいに人権を放棄した人がいるんだ」
俺は新しいビールのジョッキを頼みながら、栗田に先輩の話をし始めた。
◯
先輩もまた俺同様にコンプレックスの塊のような人だった。俺とは対象的に痩せていたが、死んでるんだか生きているんだかわからないくらいいつも顔色が悪く、俺の5倍はブサイクだった。
先輩は30歳になる誕生日の当日、大学時代によく行っていた居酒屋に俺を呼び出して言った。
「後藤、俺、人間やめるわ」
身近で人権放棄者が出るのは初めてのことで、俺はどう反応していいか分からなかった。とりあえず「そうっすか」とだけ言ってビールを飲んだ。
翌日、彼は本当に人権を放棄してしまった。先輩から来た最後のLINEは、市役所の前で申請書片手に俺の五倍ブサイクな顔で自撮りをしているものだった。
そして人間でなくなった先輩とはそこで音信不通となり、関係が絶えた。
と思いきや一年ほど前に町中で偶然再会した。先輩は大型スーパーの駐輪場にいて、柱と首をリードで繋がれていた。
「久しぶりじゃん、後藤」
声をかけてきたのは先輩からだった。服も髪も顔もどこかこざっぱりした雰囲気の彼を、俺は最初先輩だと認識できなかった。
数秒考えて眼の前にいるのが先輩だということに気がつき、言った。
「何してるんですかこんなところで?」
「飼い主が中で買い物してるから、それ待ってんだよ」
先輩は人間だったころよりも遥かに生き生きしていた。
俺は驚くほど変わってしまった先輩に驚いたが、二言三言話してみると中身はそんなに変わっていないことが分かって安心した。
「どうですか、人権放棄後の生活は」
「一言で言えば最高だな。捨ててよかったよ人権。愛玩動物最高。ありがとう人外生活」
「そんなに?」
「聞いて驚くなよ?」
先輩は「ずっとこの話がしたくてウズウズしてたんだ」というような顔つきで俺の耳に口を近づけ、誰にも聞こえないような小さな声で言った。
「飼い主がな、夢原ノエルなんだよ」
「え!?」
先輩の言葉に俺は嘘偽りなく腰が抜けかけた。
夢原ノエルはGカップの巨乳と100センチヒップを売りにする、現役女子大生グラビアアイドルだった。
「マジで言ってます?まじでノエル?俺ノエリスなんですけど」
ノエリスというのは夢見ノエルのファンのことだ。
「本当の本当にノエル。まじノエル。ここで待ってたらそのうち出てくるよ」
「羨ましい。本当に羨ましい。あのおっぱいと四六時中一緒ってことですか?」
「もちろん。てかそれだけじゃねーから。風呂とか一緒に入ってるし、何なら一緒に寝てる」
「はい!?!?!?!?」
「ペットと飼い主の関係だからお触りとかは基本ないけど、風呂入るのとか寝るのとかはやるじゃん? 当たり前じゃん?」
「たしかにペットと風呂は当たり前だし、一緒に寝るけど。実家にいたとき犬とよくそうしてたけど、でも!でも!それは、さすがに、ずるくないですか!?」
「あ、おい。ほら、見ろ、出てきたぞ俺の飼い主様が」
先輩に言われて俺はスーパーの入口を振り返った。マスクとサングラスと帽子で顔を隠したスタイルのいい女性がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。確証はない。だが俺はファンとして、あれが夢見ノエルなのは間違いないと思った。実物は思っていたよりも小さくて、そして思っていたよりも胸と尻の迫力がすごかった。
「ちなみに仕事が忙しくない日は手料理にもありつける」
「は?」
「まあグラドルだから基本はバランス重視で俺の好みじゃないんだけど、でもノエルの手作りだったら俺は泥団子でも食える自信があるわな」
「俺だって泥団子とか余裕です。なんならそのへんの生ゴミまとめたやつでも全然いけますよ!」
「わはは、まあ、お前が家に来る日は一生来ないけどな」
悔しがる俺と得意げな先輩のところに夢見ノエルらしきスタイルのいい女がやってきて、先輩に声をかけた。
「ショコラおまたせ〜。ちょっと買いすぎちゃった。半分持てる〜?」
その声は間違いなく夢見ノエルだった。
「もちろん、任せてくれ!」
「ありがとね。そちらは?お友達?」
「人間だったころのね」
「そうなんだ。どうも〜。じゃ、ショコラ行こうか」
「うん。帰ろう──じゃあな後藤」
先輩は最後に懇親のドヤ顔を披露すると、夢見ノエルに首のリードを引かれてスーパーの駐車場から出ていった。俺は横並びに歩く二人の後ろ姿を、呆然と見送っていた。歩く度に左右に揺れる夢見ノエルの尻が、ただただ美しかった。
そして先輩の姿が見えなくなってから俺はふと思った。
「……ショコラ?」
人権を捨てれば名前もなくなるため、飼い主から新しい名前をもらうことになる。
夢見ノエルが呼んでいた「ショコラ」というのが先輩の新しい名前なのだろう。似合わないユメカワな4文字に対してさえ、そのときの俺には羨ましい以外の感情がわかなかった。
◯
「──だから俺は人権を放棄する。こんな掃き溜め同然の生活が先輩のような生活に変わるなら、放棄する以外の選択肢はないだろ?」
先輩の話をしているうちに高ぶってきた俺とは対象的に、栗田の反応は終始冷ややかだった。
「そんなの、ただの運でしょ? 後藤の先輩がたまたま運がよかっただけで、後藤も同じになれるとは限らないじゃないか」
「へっ、お前は先輩を知らないんだ」
俺は栗田の浅い想像力を鼻で笑った。
「あの人は生まれつき不幸なんだ。現役で大学を受けたときはインフルにかかって全滅し、親を必死に説得してどうにか掴み取った最初で最後の浪人は年明け早々家が火事になって受験票が燃えてなくなり、唯一燃えずに残っていたFラン大しか受けられなかったんだ。そんで入学後は新歓でマルチ商法の勧誘に引っかかって地元の友達を丸ごと失い、バイトでは片思いしていた同僚が閉店後の店でバイトリーダーとヤッてるところを目の当たりにし、しかもそれで店が汚れたのを先輩のせいにされてクビになり、三年生になって心機一転加入したサークルでは下級生にも奴隷のように扱われ、そのせいで留年してんだ。就職だってもちろんブラック企業で昼夜逆転生活さ。死ぬ寸前だったんだ。先輩は「自分の運は『90年代の日本に生まれる』ということに使い果たしたんだよ」って言ってんだ。そんな先輩が偶然、幸運にも、たまたま、奇跡的に、夢原ノエルのペットになれるわけないだろ!?」
人間としての経歴に泥が付きすぎているやつほど、幸運な飼い主に巡り会える。俺はそう信じている。
一気に先輩の不幸ぶりを捲し立てた俺に、栗田は何も言い返せない様子だった。
努力すれば、諦めなければ、笑顔でいれば、考え方を変えれば。そんな程度のことで人生が好転すると信じているようなやつは、はっきり言ってポジティブという宗教にドはまりした狂信者だ。
「努力や我慢や笑顔や思考ではどうにもならないことが、この世界には山ほどあんだよ。お前だってそれくらい知ってるだろ」
「……でも、だからって」
「じゃあお前今からどうやって勝ち組になるんだよ。具体的に教えてくれよ。なあ? え?」
「そ、そんなのわからないだろ!僕だって、本気出せば」
「いつだよ。いつ出すんだよ本気。お前それ中学生ぐらいからずっと言ってるよな? 本気で勉強すれば出せば学年1位なんて余裕だし、手加減やめたらスポーツ推薦だって余裕で取れるとか、お前、いろいろふかしてたよな」
「だから本気出せばそれくらい、僕だって──」
「それっていつだよ。本気出すのっていつだよ。今まで何もしてこなかったやつが、今これからなにかできるのかよ。無理に決まってんだろ? 30間近まで生きてみてわかったろ?」
俺は安居酒屋の古ぼけたテーブルを指さした。
「これが俺たちの本気なんだよ。本気を出した結果がこれなんだよ」
居酒屋の喧騒に包まれて、俺たちは互いを睨むように見つめ合った。騒がしい沈黙があった。栗田はおしぼりを握りしめ、唇を噛み、言った。
「わかったよ。じゃあもう僕は何も言わないよ。後藤の好きにしなよ」
「当たり前だろ。好きにさせてもらう。俺の人生なんだから」
すると栗田はテーブルを叩いて立ち上がった。
「帰る。お釣りはいらない」
尻ポケットから財布を乱暴に抜き取って、千円札を二枚叩きつけるようにテーブルに置いた。
栗田が出て言ってからしばらくして、俺も会計をして店を出た。栗田が置いていった金はまるで足りなかった。三千円ほど余計に俺が負担する羽目になった。
むしゃくしゃした気持ちで電車に乗った。優先席に堂々腰を下ろし、腰の曲がった老婆の譲ってほしそうな目線を、真正面から打ち返した。
俺はスマホを取り出し力の限り画面をタップして栗田にLINEを送った。
「全然足りねーんだけど金」
いつまでたっても既読はつかなかった。俺は舌打ち混じりに目を閉じた。
栗田と飲んだ次の日。俺は前日の会話で今一度人権を放棄したい欲が高まったことに気が付き、バイトをサボって役所に行った。人権放棄は30歳を迎える1カ月前から申請が可能だ。俺は申請書に必要事項を記入し、その場で提出した。
審査には1ヶ月近くかかる。弾かれるケースも多いと聞くが、俺は絶対に弾かれないという自信があった。それは窓口で応対してくれた市役所職員の、同情するような眼差しからも明らかだった。
俺は人間としての最後の1ヶ月で身辺整理をした。バイトを辞め、いらないものを捨て、アパートの解約手続きを行った。その間に30歳を迎えた。一人で祝った。
人権を放棄することは実家の両親にも伝えた。一応の引き止めは受けたが、両親も両親で「厄介者がいなくなる」と少し喜んでいる節があった。悲しかったが、でも、ある程度は予想していた反応だった。こんな息子、俺だっていらない。
1ヶ月の間、栗田とは一度も会わなかったし、連絡も取らなかった。
そして俺は運命の日を迎え、人間をやめた。
【②へ続く】
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