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ショートショート37:くたばれゴースト

 昨日と今日とで世界はその有り様を180度変えてしまった。

 もう二度と届かない彼のメッセージ、もう二度と聞くことができない彼の声。一週間前までは当たり前だった人が、死んでしまったみたいに目の前から消えた。

 原因は向こうの浮気で、別れを切り出したの向こうからだった。
 謝ってくれたなら許そうと思っていた私は、寝耳に水の別れ話に頭の中が真っ白になって、事実を受け止めて泣けたのは彼が私の部屋を出ていったあとのことだった。

 一夜明けて今日。泣き腫らして真っ赤になった目とハの字に歪んで一生治らないのではないかと心配になるような眉。彼の声を顔を、思い出す度に干からびるんじゃないかというくらい涙が出る。部屋のローテーブルには丸めたティッシュの山ができている。

 部屋のカーテンを閉じきって夜までベッドで丸くなっていた。

 流石にこのまま泣きっぱなしは身体にも精神にも良くないと思った私は、気分転換にゲームでもすることにした。気分じゃなかったけど、頭も身体も無理やり動かすにはそれしかないと思った。

 私は重い体を引きずってテレビ台のところに置かれた最新のゲーム機を手にした。スイッチを入れる。入っていたのは彼氏の一時期ハマっていたレースゲームだった。思えばこれは彼のゲーム機だった。飽きたから貸してあげると言われてそのままになっていたのだ。

 彼と一緒に遊んだ日々に泣きそうになるのをどうにかこらえてキャラとコースを選んでレースを始める。下手っぴながら何度か繰り返していると、“ゴースト”というシステムがあることをしった。

 それは各コースに記録された任意の誰かの走行データを、レースの最中にコース上にキャラクターごと表示できるというものだった。色が半透明で当たり判定がないことから“ゴースト”と呼ばれている。

 そのゴーストデータに元カレの名前があるのを発見した私は迷わず彼のデータを対戦相手に選んだ。かつての日々のように一緒にゲームを遊んでいる気分になるためだった。

 けれども画面の中に半透明のデータとしての彼が存在していても、隣にいなければ意味がなかった。自分が操作するカートの動きに合わせて身体を傾けてしまう私と、それを鬱陶しそうに、しかし笑いながら押し返してくる彼。物理的なやり取りがなければ、心の大事な部分は満たされなかった。

 もう止めてしまおうかと思い始めたとき、私は知らない女の名前がゴーストデータに登録されているのを見つけた。

 ななみ。

 知らない女の名前だ。
 直感した。元カレの浮気相手だと。

 途端に彼への思いは懐かしさから怒りへと代わり、私はコントーローラーを乱暴に入力して次のレースに2人のゴーストを召喚した。

 勝ちてえ。
 そう強く思った。

 手汗とともにコントローラーを握りしめ、一人の部屋で静かに始まるレース。元カレは言わずもがな早くてあっという間に置いてきぼりにされてしまったが、浮気相手のななみも負けず劣らず恐ろしいスピードだった。せめて浮気相手には負けたくない。その一心で身体を右へ左へ大きく傾けるが、その熱も虚しく周回遅れで潰された。

 負けた。
 認めたくなかった。
 もう一度。

 私は何度も何度も2人のゴーストに挑んだ。
 2人は私など眼中になく、トップ争いをしていた。彼らは最終ラップの最後の瞬間までデッドヒートを繰り広げている。あくまでデータ上の存在だから元彼が1位、浮気相手が2位というものは変わりないものの、最終盤まで肩を並べ続ける2人のゴーストの姿が無性に悪くて仕方なかった。仲の良さを見せつけられているみたいだった。

 繰り返している内に私は徐々にコースの特徴やカートの操り方を身に着けていった。当初は最高峰でモタモタとコースアウトしたり障害物にぶつかったりしているだけだったが、徐々に順位は上がっていった。

 やがてまもなく夜が明けようかというころになって私の実力はレースの中で安定的に3番手を張れるまでに成長していた。もう何回、何十回同じレースを走ったかわからない。コースの形もトラップのタイミングも何もかもを完璧に覚えてしまった。あとは2人に勝てさえすればいい。

 毎朝7時に鳴るように設定しているスマホのアラームがけたたましくなる。日曜の朝が来た。際どいレースの真っ只中。手は離せない。鳴るがままに任せる。

 気がつけば私の身体から、カートの動きに合わせて身体を傾けるという癖がなくなっていた。動作の全ては指先だけで完結していた。静かに繊細に怒りと執念を指先に一点集中させて命令を注ぎ込む。

 抜け、抜け、抜け、抜け。

 スヌーズ昨日でまた目覚ましが鳴る。
 そこから先、私の耳にはもう目覚ましは届いていない。

 意識はただ、元カレと浮気相手の半透明のデータにのみ向いている。
 三番手から二番手へ。しかし二番手で勝負を終えたくない。やるなら双方とも潰す。徹底的に、勝ってやる。

 そうして訪れた何百レース目ともわからないそのレースで、私はついに元彼を追い抜いて1位となった。

 まだだ。
 まだ足りない。
 徹底的に勝つのだ。完膚なきまでに叩きのめすのだ。

 私は昨晩とは違う血を滾らせた真っ赤な眼差しでゲーム画面を睨みつけ、獰猛に笑った。

 1位の座を手に入れたから、2人を引き離すテクニックをまでそう時間はかからなかった。

 午前9時23分。
 私は元カレと浮気相手を周回遅れにして、堂々の1位でゴールをした。

 その瞬間、私の中にあった未練と怒りと執念がすべて霧散した。

 ざまあみやがれのろまが。
 これが私の実力じゃい。

 2人仲良くちんたら肩を寄せあっていろ。私は先に行く。お前たちよりも圧倒的な先に。絶対に追いつけない。追いつかせない。もう何も譲らない。

 勝ち誇ったようにクッションに投げつけて、私はシャワーも浴びずにベッドに倒れ込む。勝利の余韻に震える体でブランケットに抱きついて、冴えきった目を無理やり閉じる。

 泥のように寝る。死んだように寝る。
 そして起きたら新しい私になる。
 180度違う私に。

 くたばれゴースト。
 あまりにも遅い2人のレースデータに毒を吐きながら、私は眠りに落ちていく。

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