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ショートショート35:神様にできること

 築30年木造二階建て。204号室。
 ベニヤ同然の扉の向こうに借金取り達がいる。 
 アパート全体を揺さぶるノック音と、凄まじい巻き舌の罵声。

 鳴り止まないスマホを断腸の思いでトイレに沈めて一件落着にしたつもりでいたが、よくよく考えずともそんなはずはなかった。
 連中には電話番号も住所はもちろんのこと、実家の住所や両親の職場まで知られているのだ。

 逃げ道はなかった。
 扉の外には二人。窓を出たところにもいるだろう。連中は絶対に部屋の中に押し入ってくることはない。だからここにこもり続ければ負けることはない。だがここにこもり続けるほどの持久力はない。水も食料も、何もかも。

 友だちに誘われて足を運んだ競馬場。100円券で脈拍が上がった最初のレースがもはや遠い過去のように思える。たった半年前の出来事なのに。

 いつかのレースで転がり落ちてきた大金と勝利の快感を自分の実力と錯覚した瞬間、何かのタガが外れた。賭ける金は雪だるま式に膨れ上がり、負ける金はその倍以上に膨れ上がった。

 次こそ次こそ次こそと根拠のない自信だけを握りしめ、血走った目で見る馬と騎手のケツ。

 貯金、消費者金融、そして闇金。

 落ちるのは一瞬で、這い上がるのは今なおできていない。

「終わりだ。終わりだ。終わりだ」

 クーラーのない五畳間。万年床のカビ臭いタオルケットにくるまって、夏だと言うのにガタガタ震えが止まらない。

 前も後ろも借金取り。
 捕まったら最後。どこへ連れて行かれるのか何をされるのか。

「──お困りのようじゃの」

 朗らかな声が聞こえてきたのはそのときだった。
 ついに乗り込んできたかと焦ってタオルケットの隙間から部屋の様子をうかがうと、目の前に見知らぬ老人が浮いていた。

 浮いていたのだ。

 男は二、三度目を瞬いてこれが現実であることを確認した後、静かにタオルケットから首を突き出した。老人の顔には本当に見覚えがなかった。白い作務衣に白いひげ、色艶のいい頬に柔和な表情。

 借金取りの佇まいではない。
 しかしどこからどうやってこの部屋に入ってきたのだろう。

「あなたは」

「私は神じゃ」

「……神?」

「そう。神じゃ。お前の考えていることも分かる。私は神出鬼没だ。どこからだってこの部屋に現れることができる。窓や扉を用いずともな」

 神を名乗る老人は男の脳内を正確に読み取って答えた。

「困っているみたいじゃが、どうだ? 当たっているだろう?」

「困っているどころじゃないです」

 男は首を横に振った。

「今日で俺の人生がすべて決まります。決まってしまいます。死ぬか、生きるか」

「そりゃ大変じゃ」

 神はのんきに笑う。

「だが私は神じゃ。困っている人間に寄り添うのが仕事じゃ。そうじゃの。お主の願いを今ここで3つ、聞いてやろう」

「願いを、3つ?」

「そうじゃ。なんでもいいぞ。今すぐ私に消えて欲しい、というのでも構わん。いつでも消える準備はできている」

 そう言う神の身体が徐々に薄くなっていくのを見て男は慌てたように手を伸ばす。神だかなんだか知らないし、本当か嘘かも分からないが、今はワラどころか糸くずにだってしがみつきたい気分だ。

「待て待て待て。願い事ならある。3つある。聞いてくれ」

「よかろう」

「今すぐ百億円欲しい、このアパートの周りにいる借金取りたちを追い払って欲しい、どこか遠いところへ高飛びしたい」

「ふむ。その3つか」

「その3つだ」

「それでいいんだな?」

「それでいい」

「わかった。確かに聞いたぞ」

 神は頷き、作務衣の懐から髪とペンを取り出して何かを書き始めた。男はしばらくその様子を眺めていたが、特になにかが変わった様子はなかった。相変わらず自分は五畳間の万年床の上にいるし、玄関の外からは借金取りの汚い罵声が轟いているし、百億円が湧き出ることもない。

「……なあ、俺の願いは?」

「ん?」

 神は書き物をする手を止めて顔を上げた。

「聞いたぞ。ちゃんと」

「あ?」

「叶えるなんて一言も言ってないぞ。切羽詰まった人間がどんな願い事をするのか、そのアンケート調査をとっている最中でな。うむ。貴重な意見をありがとう」

 神は書き物を終え五畳間から消えた。

 借金取りたちは飽きもせずに扉を叩き続けている。

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