“ひどい“と噂の映画『逃走中 THE MOVIE』を見て学んだこと
はじめに
諸事情により『逃走中』の映画を観る必要が出たので、観てきました。
TV版の『逃走中』は小〜中学生のころによく見てました。が最近はめっきりで、なので『逃走中』のファンというわけではないです。主役の6人を演じたJO1やFANTASTICSのファンでもないです。
LDH出演作と聞くと『High & Low』という化け物コンテンツが過去にあるのでどうしても一抹の期待をしてしまう脳みそになっているのですが、それを踏まえても今回の『逃走中』には興味がありませんでした。
が、諸事情により観に行くことになりました。諸事情は割愛します。大した理由ではないので。
「まあ興味ないけどたまにはこういう映画もいいか〜」くらいの気でいたのですが、観に行く前日に本作を見たXアカウントの「逃走中の映画だけはマジで論外。あまりに酷くて画面から視線を逸らしたくなったのは久しぶり」という予想を上回る酷評ぶりを目にしてしまって、かなり行く気を削がれたのですが「とはいえワンチャン面白い可能性あるだろ。たまたま刺さらなかった人がいるだけで」と、1,800円(ムビチケ料金)を惜しむ気持ちの方が勝って見に行ってしまいました。
結論から言うと「観に行かなければ無駄にするのはお金だけで済んだのにな」です。
元から低い期待のハードルが直前の誰かのX投稿でさらに極限まで下がり、高さ10cmくらいまでになったのですが、驚異的な脚本と演出がその10cmのハードルを限界ギリギリリンボーで華麗に潜り抜けていきました。
いやー、ひどかった。
この映画に使った1,800円と1時間半があれば飢餓に苦しむ貧困地域の子どもたちを100人単位で救えたかもしれないと考えると本当に胸が痛いです。
ムビチケ料金の1,800円でも見る価値はとてもなく、正規料金の2,000円ならなおさらです。道に捨てた方がまだましかもしれません。だって捨てるだけなら時間までは無駄にしまえせんから。
この映画はYouTubeで無料公開されていて、もしも暇で暇でしょうがなくて足の指毛の本数を数えるくらいしかやることがないというような状況に陥った時に、睡眠導入のために試聴するくらいでちょうど割にあうレベルです。
とはいえたぶん企画側もこの作品に映画としてのクオリティは求めていないし、むしろわざとクソ映画に仕立てたような気がします。
ここから先は完全に想像ですが、本作のメインターゲットはJO1、FANZTASTICSの太ファンでしょう。そしてサブターゲットはTV版『逃走中』ファン。でもそこだけだとたぶんペイできないので、それ以外の層にもリーチさせないといけません。となると通常の宣伝以外に役に立つのはSNSでの拡散。しかし題材的やテーマ的に映画史を揺るがすようなハイクオリティな作品は作れそうになりません。そこを目指して中途半端なクオリティに落ち着き「ああ、うん、まあ悪くないんじゃない」と思われるよりは、思いっきりクオリティを下げてネガバズさせて「そんなこと言われたら逆に観たくなるなあ」というカリギュラ効果的な何かを発動させた方がいいでしょう。
もしも本当に企画側がその意図を持って本作のクオリティをドブ底の廃材レベルに下げたのだとしたら、大成功と言えるでしょう。それくらい『逃走中』の映画は酷評を受けています。
そんな映画『逃走中』ですが、鑑賞から1日経っていろいろうなされた結果、「全くの無駄というわけではなかった」と思うようになってきました。
クリエイターの端くれとして生きている身として日々感じるのは「良い作品から学ぶことより、悪い作品から学ぶことの方が多い」というものです。
良い作品に巡り合うと創作意欲が湧きます。「自分もこういう作品が書きたい」「この作品のこの演出良かった、この展開素敵だった」とあれこれ分析します。でもそれってあんまり再現性がないなと思います。良い作品というのは総合評価であって、部分を切り出したところで、あんまり意味はないと思いませんか。完璧に組み上がったパズルから1ピースを取り出して「このピースの色使いサイコー」「このピース美しい!真似しよう」と意気込むようなものです。
一方で悪い作品を見て読んで聞いて「どうしてこの作品は面白くないんだろう」と考えることの方がはるかに学びになると思います。あくまで経験則ですが。
創作が上手くなるための1番はとにかく量を生み出すことだとは耳タコですよね。巧拙なんて気にせず、とにかく手を動かす。それは間違いないと思います。(まあ別に僕はクリエイターとして大成している人間ではないので、この「間違いないと思います」にどれだけの説得力があるかは推して知るべしですが)
ただ生み出すって重労働です。作りたいと思った時点で一握り、その中から実際に作り始められる人はさらにその一握り、完成させられる人になるとほとんどいない…みたいな話もよくあります。1つの作品を生み出すのはそれだけ大変なんです。
でも手軽に「生み出す」を体験する方法があります。それが悪い作品を摂取して「どこが悪かったのか」「どうすれば面白くなるのか」を考えて勝手にブラッシュアップすることです。出来の悪い作品というのは絵柄が揃っていないピースのようなもの。揃っていないピースを自分の中で補い、正しい(と思う)ピースをはめなおす。そうして自分の中で作品をリメイクしてみる。これは1つの創作体験と言えるでしょう。
もちろん元は他人の作品なので大々的にどこかに公表することはできませんし、そんなことをする奴がいたら椅子に縛り付けて上下のまぶたを固定して48時間飲まず食わずで映画『逃走中』をひたすら見せますが、自己完結的にやるのであれば自由です。
さて前置きが長くなりましたが、本題に戻りますと映画『逃走中』のクオリティは、泥酔した猿がケツに筆を挟んで綴ったのかと思うくらいに低いものでしたが、それゆえにいろいろと学びがありました。「これをやると作品は面白くなくなるんだなあ」という発見のオンパーレードでした。
映画『逃走中』のざっくり説明
『逃走中』というバラエティ番組がありまして、それにキャラクターとドラマをつけたのが今回の映画です。
『逃走中』は簡単に言えば鬼ごっこ。「ハンター」と呼ばれる、『マトリックス』のエージェント・スミスのジェネリック版みたいな鬼役から指定時間を逃げ切れば賞金がもらえるというものです。番組は2004年に放送開始となり、今年2024年で20周年を迎えます。
映画『逃走中』内はそんな現実の設定が一部リンクした内容です。作品内でも番組は20周年を迎え、それを記念した大会が開かれることになりました。その名も「逃走中 THE MOVIE:TOKYO MISSION」。東京全域を舞台にし、賞金1億円をかけて一般人・芸能人が「ハンター」から逃げるというものです。
そんなゲームにJO1、FANTASTICSのメンバー演じる6人が参加を決めるところから物語は始まります。
※ちなみのここから映画『逃走中』をガンガンネタバレしていきます。もし嫌な人はここで引き返してください。※
6人の内訳は空回りバカ、キレ症の服好き、サイコパス投資家、無個性数学オタク、限界工場経営者、コミュ障金髪。
6人はかつて同じ高校の陸上部で切磋琢磨した仲ですが、最後の大会の直前にコミュ障金髪が失踪し、無個性数学オタクがリレーの代走したことでのバトンパスに失敗して、いい結果が残せずに引退を迎えます。
卒業後別々の道に進んだ6人は今回の『逃走中』で再会を果たすも、いい別れ方ができなかったため気持ちはバラバラ。おまけに20周年記念のゲームは松平健に乗っ取られ、ハンターに捕まれば消滅というデスゲームに姿を変えます。6人は絆を取り戻し、デスゲームを生き延びることができるのか…!というのがざっくりあらすじです。
導入に光るものはありません。ぶっちゃけ『SAO』の劣化版みたいなもんです。
マツケンの見てくれも目深に被った三角フードのせいで茅場晶彦にしか見えません。ただこの導入自体は王道なので、特段批判するほど酷いものでもありません。
ということでここからは個人的に気になったポイントを絞って紹介します。ぶっちゃけ自分で書いてる小説にも当てはまることが多すぎて、悪い点について考えるたびにブーメランを放っているような感覚に陥りしました。
映画『逃走中』のここがどうかしてるぜ
1:主役の6人がいらない
元も子もない話ですが主役の6人がいりません。6人のうちの誰かではなく、全員いらないです。
映画『逃走中』内で始まる「デスゲーム」はクリアするにあたって2つのボタンが用意されています。1つは「逃げ切りボタン」。これは押すとその時点でゲームが終了となり、生き残っていた参加者全員で賞金100億円(※デスゲーム開催にあたって増額されました)を山分けできるというもの。もう1つは「リセットボタン」。これを押すと全てをリセットできるというものです。ゲームの途中で消滅してしまった参加者も生き返らせることができるというわけです。
映画のラストでは生き残ったキャラクターがラスボス・松平健を前にこの2つのどちらを押すか選択を迫られるというものです。金を手にいれるための「逃げ切りボタン」か、それとも死んでいった参加者たちを元に戻す「リセットボタン」か。どっちを選ぶのか。究極の選択…!みたいな演出です。
で、その選択を迫られるのは空回りバカでもなく、キレ症の服好きでもなく、サイコパス投資家でもなく、無個性数学オタクでもなく、限界工場経営者でもなく、コミュ障金髪でもなくかっぺのガキです。
一番いいところを主人公でもなんでもない、脇役のかっぺのガキが持っていきます。
伝えそびれていましたが映画『逃走中』には主役の6人と行動をする姉弟が出てきます。何の取り柄もない女子高生と、喋れない男子小学生からなる姉弟です。
姉弟はどっか田舎から東京に越してきたのですが、弟は言葉から方言訛りが抜けず、それをバカにされたのがトラウマになって喋れなくなたっという背景を持っています。なのでゲーム中はボタンを押すと録音した音声で最低限の返答ができる装置を身につけ、それで周囲の人間とコミュニケーションをとります。ボタンの種類は8つくらいありますが、基本的に「うるさい」と「大丈夫」しか使いません。
そんな弟もといかっぺのガキが、ラスボス松平健からの究極の選択に直面して初めて言葉を発し、ゴリゴリ訛りで「みんなば返せ!」と力強く宣言する──まあ何がやりたいのかわかりますし、感動的なシーンになる可能性は秘めている演出です。喋れないキャラクターが喋れるようになる。わかりやすい成長です。
でも、君が?????ラスボス相手に????主役の6人は????主役じゃなくて脇役がラスボスを倒すの?????
そんな作品あります????????
(ちなみに僕は最近、ラスボスを主人公じゃなくて脇役が倒すという作品を書いたことがあり、書き手としてはそこまで違和感がある内容じゃないと思っていたのですが、第三者が同じことをやっているのを俯瞰して見るとクソつまんねーし冷めるんだなって気がつけました。学び)
しかも松平健は小学生に「金はいいぞ。100億円だぞ。欲しいだろ」「権力だって手に入る。いいぞ権力は」などと説きます。
金はまだしも権力なんて、小学生要らなくないですか?それより普通に死んだ人たち蘇らせたくないですか?100億円だって額デカすぎて使い道わからないし、普通に死んだ人たち蘇らせたいと思いますよね?小学生だったら。
僕なんて小学生の頃はうまい棒と遊戯王カードのことしか考えてなかったので、1万円でもバカみたいな大金でした。100万円と100億円の違い、多分あんまり分かってなかったと思います。そんな価値観の相手に100億円ぶらさげたって、意味わかんないと思います。
てことはかっぺのガキの選択は言わずもがな1つで、金が手に入る「逃げ切りボタン」ではなく「リセットボタン」です。
「そりゃそうやろ」というわかりきった着地に至るのに、数分近くかかっていました。
映画『逃走中』はこういうシーンの連続です。わかりきったオチのための前振りが数分、長いと10分単位で続きます。本当に時間の無駄というかテンポが悪いというか、終始茶番です。
ちなみにラスボスの松平健ですが、正体は謎のままです。人類にお灸を据えるために『逃走中』を乗っ取ったことだけが最後に明かされますが、なんで乗っ取る先が『逃走中』だったのかは謎です。政府とか自衛隊じゃダメだったのか。せめてフジテレビくらい狙っておいた方が良かったんじゃないかと思います。そして宇宙人だか未来人だかみたいな匂わせもしてくるのですが、だったらなおさらもっとでかいとこ狙えよと思います。なんでいちバラエティ番組から人類への攻撃を始めようとしてるんだよ。無理だろ。
2:どこからともなく現れる拳銃
上で映画『逃走中』はテンポが悪いと申しましたが、逆にテンポが良すぎるというか説明をすっ飛ばしすぎなシーンも多々あります。
中盤で元陸上部の1人であるサイコパス投資家は、金目当ての悪徳ファー女に絆されて、彼女と行動を共にすることになります。
ファー女は他の参加者を平気で蹴落とす、まあデスゲームものによくいる厄介者キャラです。こういうキャラクターがいると一見楽そうなゲームの難易度が跳ね上がったりしてスリリングになるのですが、特に場をかき乱すことなく退場します。(かき乱すにはかき乱すんですが、主人公たちにはほぼなんの影響もないです)
そんなファー女の退場にあたってのキーアイテムが、見出しにつけた「どこからともなく現れる拳銃」です。
これはサイコパス投資家がゲームの途中でファー女に渡すアイテムです。ご丁寧に紙袋にまで包んで用意していますが、『逃走中』の参加者は基本的に手ぶら。とてもじゃないですが紙袋はポケットに入るサイズでもありません。なのにいきなり現れます。どこに隠し持ってたの??????
しかもその拳銃、実は本物ではなく、トリガーを引くと銃口から花が飛び出すといういわゆるジョークグッズ。なんでそんなもの持ってるの?????
普通の拳銃なら100歩譲ってわかります。たとえばサイコパス投資家がゲームの運営と内通してて武器を与えられていたとか、なんらかの理由で護身用に持ち歩いていたとか、リアリティは皆無ですが理屈はわかります。
でもジョークグッズの拳銃を持ち歩いてるのは意味がわかりません。街中で辻斬りみたいにマジックショーでもやるつもりだったのでしょうか?
拳銃はあくまで一例で、他にも意味不明なアイテムが登場します。
USBメモリです。
クライマックスでいいとこ取りするかっぺのガキに勇気を与えるアイテムとして、USBメモリが登場します。これはキレ症の服好きがかっぺのガキに託すものなのですが、中身はビデオレター。キレ症の服好きからかっぺのガキに向けた熱いメッセージが込められているものです。
しかし令和のこの時代にビジネスパーソンでもないただの短気で服が好きなだけの学生がUSBなんか持ち歩くんでしょうか???てかビジネスパーソンだってUSBなんか持ち歩かないです。
まあレポートに必要なデータを保管する方法と考えたらあり得ない話ではないです。でもキレ症の服好きは、特に切羽詰まった場面でもないのにUSBを丸ごとかっぺのガキに渡します。仮にレポートが入っているUSBだとしたら渡すわけがないので、きっとマジでただのUSBです。ビデオレターが入ってるだけの。しかもビデオレターはゲームの最中に仕込んだものなので、元は空の新品です。新品なら「買い物帰り」と考えたらまあわからなくはないですが、「逃走中」に参加する前にUSBメモリ買いに行きますかね…?
古今東西物語の中には無数のアイテムが登場しますが、それを意味あるものとして活用するのであればちゃんと伏線を貼り、それが登場するにふさわしい理由づけが必要だなと強く思わされました。でないとただのご都合展開にしかなりません。
3:すべてを無にするエンディング
上記の1に書いた通り、映画『逃走中』はかっぺのガキがクライマックスで金よりみんなの命を選んで「リセットボタン」を押すことで全てが丸く収まります。世界は「デスゲーム」以前、それどころか当初予定されていた「逃走中 THE MOVIE:TOKYO MISSION」が始まる前にまで巻き戻ります。
ということは元陸上部の6人は再会する前。時間がリセットされているのであれば彼らがデスゲームを通じてかつての絆を取り戻したという事実もなくなっているはずなので(余談ですが元陸上部の6人は「デスゲーム」を通じて和解し、高校時代の絆を取り戻します。ラストのいいとこは全部かっぺのガキが持っていったのでマジで余談なのですが一応)、高校卒業後のバラバラの関係性のはずです。
が、なぜか6人は仲直りしています。あらゆるわだかまりが解消された状態で、高校時代みたいに仲良く円陣を組んで元気よく走り出して本編終了です。ゲームの記憶が残ってるとかもなさそうでした。
は????????????????????????????????
ゲームやらずに絆取り戻してるなら、ゲームやる意味なくない?????
映画『逃走中』が1時間半かけてやった全てを無にする謎のエンディングです。
そしてさらに恐ろしいのはこのエンディングの後。
河原をかっぺのガキが友達と歩いているシーンが描かれます。喋るのがトラウマになっていたかっぺのガキに友達ができているのは、この映画で唯一の心温まるシーンです。(ただこいつもゲームやらずにトラウマ解消している)
が、そんなかっぺのガキを遠くから見つめる謎の男が映ります。「ハンター」にも似たサングラス姿。指先でコインを弾きながら、意味深な笑みを浮かべる男のアップで映画は幕を閉じます。
え。
続編やる気??????????????????????????
こっわ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!
<了>
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