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ショートショート92-①:ブンリシコウ

「よし、消そう」

 僕は一時間ほど迷った挙げ句、文書ファイルのゴミ箱ボタンにカーソルを持っていった。画面をにらみ、人差し指を高く上げ、思い切って右の右ボタンをクリックする。

――この文書は変更されています。保存しますか?

 警告文が表示される。僕はまたここでも悩む。五秒の空白。結局は『いいえ』をクリックした。こうして僕が一ヶ月かけて書いた文章は跡形もなく消滅した。

 書いていたのは今月末、つまりは九月末に新人賞へ応募するはずだった小説。書いている途中から「何が面白いんだこれは?」と疑問を抱くようになり、タイピングの速度は目に見えて遅くなり、完成まで残りおよそ三割となった今日、ついに力尽きた。

 締切は九月三十日の二十三時五十九分。現在九月二十七日の午後三時二十分なので、残りは四日と数時間しかない。それであと四万字を書けというのはかなり無理な話だ。

「消したのか?」

「消した」

 全てを諦めて自室の床に寝転がった僕に向かって、ルームメイトの湯川が声を掛けてきた。視界の中に逆さまに映る湯川はノートPCの前で、その長い髪を掻き上げた。

「これ、どうだ?」

「どれ?」

「理系文学賞」

「理系文学賞?」

 耳慣れない単語に僕は思わず訊き返す。起き上がり、ずれた眼鏡を直し、湯川の肩越しにPCの画面を覗き込んだ。

『第八回星宮進一郎賞~理系的発想から始まる文学賞~
 □一般部門
  ・対象:制限なし
  ・テーマ:理系的発想力に基づいた、読む人の心を刺激する物語
  ・規定字数:一万字
  ・応募〆切:二○二○年九月三十日(水)二十四時○○分』

「なんだこれ?」

「さっきいろいろネットを徘徊してたら偶然見つけた。お前にピッタリだなと思って」

「僕にピッタリって」

「だって消したんだろ、今まで書いてたやつ。応募出来る作品も応募する先もなくなったんだろ」

「まあそうだけど」

「だからこれだよ。規定字数は一万字、〆切は三十日の二三時五九分」

「これに応募しろってこと?」

「別に強制じゃないがな」

「確かに短編なら今からでも間に合うかも知れないけど……けどこの理系的発想力ってなに?」

「試しに過去の受賞作を読んでみれば?」

 湯川はそう言って椅子から立ち上がり、ノートPCの前を僕に譲ってくれた。

「読めるの?」

「電子書籍で無料で配信されてる」

「そこがもう理系っぽいな」

 僕は感心しつつ、湯川に教えられた通りに電子書籍ビューアを開いてみる。すでに彼がダウンロードした受賞作品集が本棚の欄に並んでいた。試しに前回のグランプリを読み始めた。しかし数ページ読んだだけで愕然とさせられた。

「これって……」

 十五分ほどで最初の作品を読み終え、そのまま次の作品を読み始める。何本か読んでみたところで僕は確信を得て、呆れたような声音で湯川に言った。

「これって、全部SFじゃん。しかも結構ハードな」

「まあそうかもな」

「SFはこれまでに書いたことはないし、読んだことだってあんまりないよ」

「だから?」

「だから?」

 腕を組み、何事もない風に言い返してくる湯川。僕も思わず同じ単語で訊き返してしまう。

「だから……だから、僕には無理だよ。この賞の応募原稿を書くのは。タイムマシンとか宇宙とかロボットとか、そういうのは僕にはよく分かんないよ」

「タイムマシンとか宇宙とかロボットとかを書かなきゃいいんじゃないのか?」

 湯川は髪の先を指で摘み、窘めるみたいに言う。

「これは理系的発想力が求められている文学賞だろ」

「これは理系的発想力が求められている文学賞だね」

「お前が挙げたのは理系的『知識』だ」

「はい?」

「タイムマシンとか宇宙とかロボットは理系的な『知識』でしかない。この賞で求められているのは理系的『発想』。理系的な『知識』は必須ではないと俺は考える。なぜならどこにも理系的『知識』を用いて作品を書け、とは書いていないからだ」

「けどこれ読むとさ」

 僕は『応募条件欄』の下に記載されている『何を書けばいいか迷っている方へ』というボタンをクリックした。別のページを飛び、物語の作り方について解説するコラムが表示される。

「『その1:興味のある理系の研究や技術を選びましょう』『その2:未来を想像して下さい。研究や技術はどう進歩しているでしょうか』『その3:その未来の」

「よく読め」

 湯川は僕を押し退けるようにしてページの下部を指差す。

「『これはあくまでひとつのアプローチです』って書いてあるだろ。だから別にそこに書いてあるやり方をそっくり真似する必要はない」

「とはいってもさ」

 僕は再び画面を電子書籍ビューアに切り換える。

「一通り受賞作を見た感じ、ぜんぶSFだよ。人の意識をデータ化する話とか、人間を植物化する話とか、ほら、これなんか論文形式だよ」

「だから?」

「だから?」

 湯川が訊き返し、僕も訊き返す。

「だから理系的知識は暗黙の了解なんだよ。だってこれまで理系的知識が用いられてない作品はないんだから」

「根拠に乏しいな」

 湯川は僕の主張をあっさりと切り捨てた。

「そもそもな、常識を疑うっていうのも理系的発想力の一つだと思うぞ。科学の出発点はそこにある。なぜりんごは木から落ちるのか、なぜ風呂に入ると水位が上がるのか。そういう当たり前の現象を疑ったことが後の発見に繋がったんだ。だから『常識から外れるから僕にはこの章に向けた原稿が書けない』ってのは言い訳だ。もちろん常識から外れることをするのがすべて良いわけじゃない。人を殺しちゃいけないという常識から逸脱して許されるか? 許されないだろ?」

「まあそうだけど」

「常識から外れたことをして、それを事実と論理で万人に納得させる。その過程こそ理系的発想や理系的思考だと俺は考えるが、どうだ?」

「それっぽい」

 僕は言った。

「けどやっぱり……いや……」

「お前はついさっき唯一の原稿を消去しただろ? 今月末の新人賞に応募するはずだった原稿を。なんで捨てたかは知らんが」

「あんまり面白くなかったから……」

「けどまあ、捨てたという事実は今となっては覆せない。プロ作家を目指しているお前が現在切ることのできるカードは三枚。当初狙っていた新人賞に向けて今から改めて作品を書くか、この星宮進一郎賞に向けた作品を書くか、あるいは諦めるかだ。当初狙ってた方の規定字数は?」

「一〇万字以上だね」

「〆切まではあと三日と六時間ほどか。一時間前までに書き上げると仮定して……一時間で何文字くらい書ける?」

「本気で頑張れば五○○○字は書けると思う。けど普段は三○○○字くらい」

「なら間をとって四〇〇〇字。大学の講義を休んで睡眠時間も三時間まで削る。風呂には入らない。飯とトイレの時間を加味すると、執筆に使える時間はだいたい七〇時間くらいか。一時間に四〇〇〇字書けるなら……二八万字、か。まあ、二作品は書けるが」

「死ぬって」

「だろうな」

「それに作品を書く前にプロットが必要だよ。いわゆる物語の設計図。それを作るのに一日は必要だ。だから執筆に使える時間はどんなに多く見積もっても四六時間くらいしかない。そして僕には集中や気分やその他人間的感情があるからね。ぶっちゃけというか、常識的に考えて無理だよ。三日と少しで一〇万字以上の作品を書くのは」

「だろうな」

 湯川は当然とばかりに頷き、側にあったベッドに腰を下ろした。

「だから実質的にお前が切れるカードは二枚しかない。そして一時間で四〇〇〇字書けるなら、一万字は二・五時間ほどで書きあげることが可能だ。あくまで計算上は。ただ、借りにイレギュラーな事態が発生したとしてもこれは無理な話じゃないと思う。だからお前はこの『星宮進一郎賞』というカードを切るべきなんだよ。むしろこの状況下で『諦める』というカードを切るのは限りなく悪手に近い。自ら可能性を潰すことにほかならないからな」

「それはかなりもっともらしく聞こえるけど」

 断言する湯川に僕はため息を吐いた。

「理系文学って題打つ賞に理系知識なしで挑むのは、銃を持たずにクマを討とうとしているようなものだよ」

「クマで喩える意味が分からないし、喩え方が違う。クマで喩えるなら、銃は持っていないが弓や罠を持っている状態だ、今のお前は」

「いやあ……なんだかなあ」

 僕は背もたれに体重を掛けて天井を仰ぐ。湯川の主張はよく分かる。

 論理的にも物理的にも彼の提案がベストなのだろうということは頭では理解出来ている。しかし本能の部分が、感情の部分が、それを拒もうとしていた。『理系文学』を謳う賞にに理系的知識を一切使わず、言うなれば『ド文系』で斬りかかろうというのだから馬鹿らしいことこの上ない。

「……けど、どうせなら僕が持ってる少ない理系的知識をどうにか練り上げて書くよ。その方がまだ可能性がある」

「いや、その方が可能性がない」

「なんでさ」

「よく考えてみろ。過去の受賞作はどれもゴリゴリに理系の知識と理論を固めて書かれている。きっと作者たちは昔からSFや科学に慣れ親しみ、興味を持ってきたんだろうさ。そんな彼らが練り上げた設定や物語に、お前の薄っぺらな理系的知識が勝てると思うか」

「そりゃ……確かに勝ち目は薄いけど」

「仮に今から図書館なり本屋なりに行って何かこれだと思う一分野に関する本を読み切ることが出来たとして、そこで得た知識を噛み砕いて小説という形にすることができるか? たぶん、出来ない」

「ならそこは湯川が補ってくれればいいんじゃない? 湯川がアイデア担当、僕が執筆担当。そうすればそれなりに理系的な小説になると思うよ」

 僕は椅子を回して湯川の本棚に目を向けた。彼の本棚は僕のものに比べると冊数が少ない。大抵の作品は電子端末で読んでいるからだ。おまけに水色の背表紙ばかりだ。

 湯川は書かないが読む。SFは湯川の領分だ。

「論外だ」

 湯川は首を横に振った。

「俺は小説なんて書いたことがないからアイデアの出し方も分からないし、そもそも俺に聞くのも本を読むのも同じことだ。俺がいくら知識やアイデアを出したところで、それをお前が物語に出来なければ意味がないんだから」

「返す言葉がありません。というかこの賞はもう僕向けの賞じゃない気がする」

「いや、よく考えてみろ。これはSFの賞じゃないし何かの研究発表の場でもない。理系『文学』賞だ。『文学』賞なんだよ。だったらこれはお前の領域でもあるはず。そしてジャンルは短編、ショートショートだ。公式が作品作りのアドバイスとなるコラムを掲載していることからも、初心者向けの賞だと言える。確かにお前は『理系』という面では劣っているかも知れないが、『文学』という面で見れば間違いなく頭一つ抜きんでているはずだ。発想さえ理系的にすれば、受賞の可能性は十分にある」

「じゃあその唯一にして最大の問題点である理系的発想ってなにさ」

 僕は訊ねた。

「そりゃ思いつくのは幾つかあるが、最大の特長は『ありえない世界をもっともらしく描く』だろうな。『もっともらしく』ってのが重要だ。既知の知識や研究、手法、データなどをいろいろ組み合わせて物語に説得力を持たせる。『感情』や『偶然』を可能な限り廃し、事実と論理を強調して物語を展開させる。それが理系的発想、理系的思考を持った小説だと思う」

「それっぽい」

 僕は呟き、顎に手を当てて考える。

 湯川の言うことはもっともらしい。必要なのは理系的『発想』であり理系的『知識』ではない。それは賞の応募条件からも確かだ。そして理系文学賞は研究発表の場ではなくあくまで文学賞。だから挑む価値は十分にある。筋は間違っていないと思う。

 僕は一分ほど考え、やがて決断を下した。

「……まあほかに選択肢もないし、やってみるよ」

「その意気だ」

 どのみち僕に残されたカードは『星宮進一郎賞』か『諦める』しかないのだ。ならば前者を切るべきなのは当然だった。

 時計を見る。現在時刻は九月二十六日の午後四時。猶予はあと三日と六時間。七八時間をフルに使えないとしても、十分に現実的な期限設定だった。

 僕は湯川のラップトップから自分のラップトップへと戻り、腕を捲ってキーボードに指を添える。

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