ショートショート34:鏡よ鏡
「鏡よ鏡、世界で一番美しい女の子はだれ?」
「それはもちろん私の持ち主、美空さまでございます」
山本美空は鏡の答えに満足し、頷いた。
三年近く続けている日課だった。
問えば答えるその銀の手鏡は、誕生日プレゼントに祖母からもらった魔法の手鏡だった。美空は毎朝自分の美しさを鏡に問い「世界で一番美しい」と答えてもらう。そうすることで自己肯定感を高めている。
事実、美空は美しい。
血と努力の両方が手を組むことで成り立っている奇跡の造形。ダイヤモンドよりもまばゆい瞳に、シルクよりもきめ細かい肌、絹糸のように細くなめらかな髪の毛、小さな鼻、細い唇。
しかしその美しさが彼女を幸福に導いているかと問われれば、必ずしもそうとは言い切れない。
美空は美しい。良くも、悪くも。
彼女をひと目見た男はたとえ自分に妻や恋人がいようとも美空の虜になってしまう。美空を手に入れたいと願わない男はおそらくこの世にはいない。
それゆえに美空は相手の男の妻や恋人から頻繁に恨みを買う。何も悪いことをしていないのにただにこやかにそこに存在しているだけで疎まれる。息を吐くたびに敵が増える。
そんな美空には幼い頃から仲良くしている友だちがいる。
友だちはお世辞にも美しいとは言えない。二人が並び立てば月とスッポンという例えすらもおこがましい。真珠と鼻くそ、孔雀とホビロン。それくらいの乖離がある。
友人は一度、第三者からこう問われたことがある。
「美空ちゃんの隣にいて恥ずかしくないの?」
友人は笑顔で返した。
「一周回って恥ずかしくない」
友人にとって美空は美しすぎて比べることさえおこがましい存在なのだった。
美空はその日、友人とショッピングに行く約束をしていた。
ベッドから出ると手鏡に向かって問いかける。
「鏡よ鏡、世界で一番美しい女の子はだれ?」
「それはもちろん美空さまでございます」
いつも通りの答えに頷く美空。
朝食を済ませ、身支度を整え、美空は友人との待ち合わせ場所に向かった。
服を見て、化粧品を見て、お茶をして、二人は楽しい時間を過ごした。
充実した一日も終わりに近づき、そろそろ帰ろうかという頃合いになって、友人が通行人の男とトラブルになった。
道を塞いでいただのいきなり睨みつけてきただのと、要するに向こうが難癖をつけてきた形だった。美空が間に入っても男の怒りは収まらず、埒が明かないから警察を呼ぼうとしたその時、男が手にしていたカバンの中から何かを取り出した。
それは透明の液体が入ったペットボトルだった。男は震える手でキャップを開け、洗い息とともに中身を友人に向けて浴びせかけた。
美空はそのとき最近SNSやテレビで話題の「無差別酸攻撃事件」を思い出していた。若い女性が見ず知らずの男から硫酸を浴びせかけられるという事件が、町で多発していたのだ。
男が手にしたペットボトルの中身と美空の記憶とが結びついた。咄嗟に彼女は友人を突き飛ばし、自らを透明な液体の前に晒した。
ひやりと冷たい感覚が顔を覆った。濡れた前髪が額に貼り付いて、直後、焼けるような冷たさが顔全体を襲った。
◯
酸で焼けただれた美空の顔には、腹の皮膚を移植することが決まった。
人生で初めての手術を経て、美空の顔から包帯を外す日がやってきた。
病室の鏡で自分の顔を見た美空は、発狂しそうになった。
知らない顔だった。見たことない顔だった。自分のものとは思えない醜い顔だった。ホラー映画の怪物みたいだった。うがい用の陶器のマグを鏡に叩きつけ、ボールペンを顔に刺そうとした。こんな醜い顔が私のものであるはずがない。あってはならない。嘘だ。全部ウソだ。きっとこれはドッキリ用の偽の皮膚で、剥がせばそのしたにはいつもどおりの美しい自分の顔が
医者と看護師と両親が数人がかりで抑えにかかり、どうにか美空は顔にボールペンを突き刺さずに済んだ。病院の床で静かに涙を流す美空の頬に、歪に走った黒インクの線。母は代わり果てた娘の魂の慟哭の跡を指でなぞりながら、嗚咽した。
厳重な監視下のもと、面会謝絶の数ヶ月が過ぎた。
病室からは鏡は愚か水や鏡面加工の施された一切の物品が排除されていた。しかし美空は自分の顔が見たかった。見ればまた発狂できる。発狂すれば今度こそ自分の皮膚を自分で剥がせる。素面のままでは無理だ。理性を失わなければ。そう思って何かに取り憑かれたように私物のバッグを漁っていた美空は、バッグの奥底に例の魔法の手鏡を見つけた。
これしかない。
美空は鏡を手にしてそこに映る知らない自分の顔を見た。そして呪うような声で、習慣的に例の質問をした。
「鏡よ鏡、世界で一番美しい女の子はだれ?」
「それはもちろん美空さまでございます」
鏡はいつもと同じように答えた。
くたばれと思った。
割れてしまえと願った。
美空が鏡を頭上高く振り上げれば、鏡は声色一つ変えずに続けた。
「この世界で一番美しい女の子は美空様を除いてほかにおりません」
鏡は言う。
「友人のために全てをなげうってその身を差し出す覚悟、その美しさ。紛れもなく美空様がこの世界で最も美しい女の子でございます」
美空は振り上げた鏡をゆっくりと手元に引き寄せた。
そして声を押し殺して泣いた。
泣きながら、もう久しく姿を見ていない友人に会いたいと思った。
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