牡丹トンネル
契約者が「こっからそこの道行ったら支所まで近道だから」と教えてくれた通りに車を走らせているが、今猛烈に後悔している。
契約を今日の日付にするためには、15:00までに入金処理と入力処理を済ませなければならない。本所まで戻っている暇がないので、最短距離にある支所で作業を行おうとしているのだが、山道だし暗いし狭いし、何より怖い。
そして、この先には灯りもついていない、名もないトンネルがあったはずだ。
地元の人たちが生活に使っている現役のトンネルなのだが、なにしろ不気味で、ホラー映画のロケにも使われたらしい。
このまま行くと、どうしたってそのトンネルを通らなければならず、しかし、いつまで走っても国道への横道は現れない。
そうして件のトンネルが現れた。
14時を過ぎた。
本日付でどうしたって契約を上げなければならない。
一気に抜けるぞ、と決心してライトをつけ、トンネルに入った。
ハンドルを必死で握り、CDはサザンを大音量にして、外の光が差し込み、さあもう少しで抜けるぞというところで、サザンの音が消えた。
思わずブレーキを踏んだ途端、エンストを起こし、車は止まった。
キーを回しても、エンジンはかからない。
携帯をみると、なぜか電源が落ちている。
どこからどう考えても、これはガチだ。
携帯の電源をアホみたいに押し続けたが、電源は入らない。
キーをまわしてアクセルを踏んでも、やっぱりエンジンはかからない。
確か、このトンネルを出たら上司の家はあるし、少し上に出ると4月には牡丹祭で有名なあのお寺があるし、その先に行くと郵便局があったはず。
キーを抜き、カバンと携帯を持って、勇敢にも扉を開けて外に出た。
ひんやりと冷たい空気は、冬が長い地域の3月だという以外の理由だろう。
光がみえるのに、出口までは歩いていると妙に遠くて、でも、とにかく外に出たくて早足で進んだ。
外に出ると、世の中はこんなに明るかったのかと、ようやっと人心地がつき、民家も向こうに見えて余裕が出た。
「電話を借りて、支所の誰かに迎えに来てもらおう」
郵便局はどこだったかな、ときょろりと向こうをみると、牡丹が一面に咲いている。湧いて出たかのように、牡丹が広がっていた。
牡丹寺はここではないし、誰かの庭だろうか。
ピンクに黄色に白。色とりどりの牡丹は、めまいがするほど香り立ち、あまりにも見事だ。
牡丹寺が近いから、株分けでもして植えたのだろうか。
ふと視線を感じると、黄色い長靴を履いた女の子が不思議そうにこちらを見ていた。
近所じゃ見ない顔だから、誰だろうと思ったのだろう。不審者にならない程度に、笑いかけてみた。
すると女の子は、ぱあっとうれしそうに笑い、そして小さく手を振って、向こうへ駆けて行ってしまった。
この辺りの子かと思いながら、なんとなくその子の入った方へ歩いて行くと、目の前にはさっき出てきたトンネルがあった。
なぜだ、と思うことは意識的にやめた。
トンネルの中をみると、さっき降りてきた車はお利口に停まっている。ポケットにはキーが入っている。携帯がこんなときに再起動したらしく、片方のポケットでバイブが鳴って飛び上がった。
極力落ち着いて車まで歩き、極力落ち着いてシートベルトを締め、意を決してキーを挿し回すと、何事もなかったようにエンジンがかかり、同時に大音量のサザンがかかった。
途端にアクセルを踏み込みトンネルを飛び出し、転げ落ちるように国道への横道を降り、支所へとタイヤを鳴らして横付けし、走り込んだ。
支所長が目を丸くして、
「なんだそんなに。あ、トイレか」
「いえ違います、入金」
「は?もう手続きの時間は終わったぞ」
壁にかかる時計をみると、16:30を過ぎている。あのトンネルで2時間以上もいたということになる。いや、どう考えても15分程度だろう。牡丹に2時間も見惚れていたのか。
「さっき子供がいて」
「おう。この辺りは保育園がないから、じいばあが子供見てんだよ」
「いや、あのトンネルに何か、」
「たまにハクビシンが出るからな。気をつけないと」
「それじゃない」
「で、何しに来たんだ。さぼりか」
「や、入金だけど、なんか勘違いしてた」
そうだろう。時計を見間違えたのだろう。エンジンの調子がおかしかったのだろう。携帯のバッテリーがイカれていたのだろう。壊れかけのオーディオラジオだったのだろう。
支所内では通常に業務が進んでいて、時間外の客もいて、いつもと同じ光景だ。
落ち着いてきたので、「やっぱりさぼりか」などと言われながら、勝手にコーヒーを淹れて一息ついた。
「さっき、あのトンネル通ってきたんだけど、随分きれいに牡丹を植えてるお宅をみつけて。見事だったなあ」
「牡丹?」
「うん。牡丹寺くらいに綺麗でしたよ。牡丹満開」
「お前、今3月だよ。雪降るかもしれなくて、まだ桜も咲いてないのに、なんで牡丹が咲いてんだよ」
それから4月になり、隣の隣の町に移動となり、部署が変わったので支所へ入金業務に行くこともなくなった。
あのトンネルを抜けたところにある、夢みたいに綺麗すぎる牡丹を、確かめにいくことができないままでいる。