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ショートショート | 彼岸花

そこは不気味な世界だった。

生温い風が吹いていて、その中には少しかび臭い匂いが含まれている。

風が通るときの音はまるで誰かの呻き声のようだ。

広い空間が広がっているその足元には、四角く整えられた黒い大理石が敷き詰められている。

崩れかけたブロンズの像を一つ、また一つと過ぎていくと、遠くからピアノの音が聞こえてきた。

ヴィーナスを彷彿とさせる女性がピアノを弾いている。

彼女は白い絹のドレスを一枚まとっているだけだった。

僕が近づいてくるのがわかったのか、隣に座ると、彼女は怪しげな笑みを浮かべてからまた鍵盤に目を移した。

瞬きをしないその目に狂気を感じたが、彼女の透き通る肌や美しい鼻筋、ときどき漂ってくる甘い香りに僕はすっかり心を奪われた。

暗く、おどろおどろしい音色の中には繊細な美しさが時折隠されている。

彼女は最後まで弾くと、まるで少女のような表情を浮かべた。

その目には輝きが宿り、まるで長年探し続けてきたものにやっと出会えた時のような感動と興奮に包まれていた。

僕は、彼女のあとを追った。

腰の長さまである彼女の栗色の髪は、彼女が動くたびに少し揺れた。

彼女は依然として子供のような表情を浮かべ、目に入る全てのものに好奇心を持って興味を示した。

その中には僕も含まれていた。

彼女は急に止まったかと思うと、僕を近くでまじまじと見つめ、僕の生態を研究しているようだった。

満足したときにはまた少しニコッとして、スキップをしながら先へと進む。

気が付くと、そこには古代からの建造物が並んでいた。

沈みかけた太陽が建物に長い影を落としている。

彼女は水の音のする方へと走った。

そこには美しい泉があり、その中央には女性の像が建っている。

よく見ると、それは彼女そのもののようであった。

「君なの?」と声をかけると、彼女は僕の言っていることがわからないのか、少し顔を傾けたあと何もなかったかのように泉の水を触りはじめた。

彼女はまず人差し指で水に触り、今度は両手を全て入れた。

自分の姿が映し出されていることに気が付くと、彼女は嬉しくなったのか何度も自分の姿をそこに見た。

泉から離れたかと思うと、急にまた思い出したかのように泉へ駆け寄り自分の姿をそこに確認するのだ。

僕が近くにあった花を彼女にやると、彼女はそれを物珍しそうに見たあと、自分の髪にさしてみた。

よほど気に入ったのだろう。

今度は自らその花を摘み、手で持ったり髪にさしたりを繰り返している。

太陽はもうだいぶ傾いてしまった。

僕はしばらく赤く沈む太陽を集中して見ていた。

「あれは太陽でしょ?」

と、不意に彼女は慣れない言葉を発した。

「うん、そうだよ。」

と返すと、彼女はやっぱりそうなのねという風にうなずいた。

「赤いのね」

「うん、赤いね」

その太陽は、僕が知っているよりもよほど赤かった。

「昔、ある人が私に太陽という言葉を教えたの。

朝の太陽と、昼の太陽と、夕方の太陽。

どれも大きくて私は好きだけど、一番好きなのは夕方の太陽だとあの人は言ったわ。

あの人も、夕方の太陽が一番好きなんですって。

ここが、苦しくなるでしょう。

赤い太陽を見ると苦しくなるの。

このあたり。」

と言って、彼女は自分の胸に両手を当てながら話し続けた。

「ある人が、赤いという言葉も教えてくれたの。

夕方の太陽は赤くなるでしょう。

朝は白い太陽も、夕方になると赤くなるの。

あれは何色?

と私が聞いたら、

あれは赤だね。

と答えたわ。

あの色は赤でしょう?

私は赤が一番好きなの。

このあたりが苦しくなるんだもの。

このあたりを締め付けられるような感じがするの。

なぜかしらね。

赤いものを見て苦しくなるなんて。

なぜかしらね。

それが好きだなんて。」

彼女はまた元に戻ったのか、赤い太陽に向かって踊り出した。

手には真っ赤な彼岸花を持っている。

よく見ると、その彼岸花からは赤い血のようなものが垂れているではないか。

あたりは再び暗くなった。

黒い大理石のようなものが敷き詰めらたそのあたりには、彼女が落としていった赤い彼岸花が燃えるように咲き乱れていった。

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