舞踊家の哲学
よしあしびきの山めぐり
市川櫻香
「コップに氷が入っています」
「氷が溶けると何になると思いますか」
能楽笛方藤田流十一世宗家藤田六郎兵衛師が子供たちを
前にこんな質問をしたそうです。
藤田六郎兵衛 「ふつうはみんな「水になる」と答える
でしょう、でもね、一人の女の子が『春になる』と答え
てくれたんだよ、僕は、そんな子供達を育てたいと思っ
ている」
この話が本当にあった話なのか、または、芸術のあり方
を投げかけるための寓話であったのか、先生が旅立たれ
た今ではわかりません。しかし、ここに藤田先生の心を
想像することができます。
お能は、人は、自然の中のひとつであり一体となし
ている。すべて創造の過程である。そしてそれらを
美しい幽玄の世界にしました。
あちらとこちらの境を感じさせない、幽玄の世界は
現代の《鋳型》に入れ考えなければ、この世に存在
させ共存する事も可能です。それにより、時間も場所
も自由に行き交う何にでも成ることができます。
藤田先生の質問は、藤田先生の持っている「幽玄」の
世界観が、ひとりの女の子の想像力を誘ったわけです。
女の子に「形から心へ」向かわせる何かが藤田先生と
女の子の間に生まれたように思います。氷が溶けて水
になることは間違いはないのですが、それを見ている
自分では不充分です。自分が氷だったとしたらと考え
る何かがあったといえるのです。その何かを表現する
文字、言葉がありません。それを幽玄ともまた、心想
とも言えるのですがもっと最もな文字や言葉が必要に
思います。
私も、よく想像の種を書き連ねています。
ここに書いてみましょう。
『夏は暑さを、無邪気に紙芝居を見るように過ごし
秋は刻々と変わる空もように心も落ち着かなくゆらぐ。
ゆらぎに呼応し皆それぞれに物思いする。ある人は
胸の鼓動が馬の音に聞こえ、走る馬の鼓動なのか、追い
かけてくる馬のひづめの音を聞いているのか、これは何
か知らせなのかと不安がり、何代も前の先祖の心拍かも
しれないと思う。次の夜半には、虫の音に心をやわらげ
月に話しかける。冬は、凍てつく深夜に奇妙な鳥の声を
聞き、頼政と鵺を重ね、いそいで義仲と兼平の最期を読
み返す。みな花のかたちをたどると胸をなでおろす』
日本の芸能には、能も歌舞伎も草木の精が人の姿を借りて
現れる曲も多く伝承されています。歌舞伎「積恋雪関扉」
に見る古木の桜の精が「ひらひら」「みえず、みえずみ」
「かげろう姿」と精が形に現れ、また消えていくゆらぎ
の言葉の多さ、現れまた消える様子を身体に徐々に観じ
られ想像へ、身体が少し溶けていく、そのような効果を
持っていると言えます。
師、十二代目市川團十郎は
『色は空、空は色との 時なき世へ』と辞世の句を遺され
ました。團十郎先生は、生前「自己の体内の細胞に生かさ
れている」とご病気のことを仰られました。闘病のなか
死と向き合う時間を、つきすすみ、乗り越え、時間や空間
のない世界へ向かわれていたように思います。
それは肉体を離れ「自然」とひとつになられたのでしょう。
お能に「山姥」という曲があります。
内容は、山姥の山めぐりの曲舞(くせまい)を得手として
世に知られる百万山姥(ひゃくまやまんば)という女性芸
能者が、伴の者を従え善光寺詣でに向かう途上、にわかに
日が暮れて途方にくれる。そこに山奥に棲む山姥が現れる。
山姥は、仏教の邪正一如の摂理を説いて舞を舞うというも
ので大変深い内容です。※ 邪正一如とは「邪と正は一つの
心から出ている、同一のものである」
仏法と世法、煩悩と悟り、仏と人間、人間と山姥それら
は対極するものではない。超自然的な存在と解され本曲
がのち、近松門左衛門により歌舞伎所作事として坂田金
時の「母」を主体にしこの場が、歌舞伎公演やまた、舞
踊の舞台でも上演されるようになります。
歌舞伎舞踊『山姥』について
《よしあしびきの 山めぐり》という邦楽の語りの前に
「あした、あしたの山めぐり」と(母)山姥の台詞
があります。この台詞は、母がいつも子供に聞かせてい
る。「あした、あした」と母が子に聞かせます。
この「あした」がこの曲の様々を想像させています。
この「あした」は、切実な言葉と言えます。
現世においての母と子の別れを、幼い子に語りかけ
ていくのです。
それから《よしあしびきの山めぐり》と語り出します。
よしあしとは、善と悪であり植物の「よし」と「あし」
に重ね、自然界万物、生きているもの同根、区別無し
とまず伝える。次に歌詞は《四季のながめもいろいろに》
と母が語りますと、深山の景色を子守歌に子を育ててき
た年月を思うのです。
振りは現世との境界を作り、心は、すっと自然の景色
そのものになっているように観じます。
歌詞の通り「山」の自然の様子を四季ごと形と振りに
より現しつつその体からは現世を慈しむような内から
広がる世界が現れていく。
時を意識することなく、振りと共に有りながら現世
包括した大きな何かが目には見えないが現れていく。
曲の最後には、塵となって消えてゆくことを現世の
自分は望んでいるようにも描かれています。
團十郎先生の辞世の
「色は空、空は色との 時なき世へ」
姿は失せても魂は、時も空間も無く、いつでもそば
にいることを思い願い向かう。現世への哀別を遺し。
「母」と「山」と「山姥」は「無形なる清浄」と考
えるとその母の体内から産まれる人間も万物と同根
であり、それは「無形なる清浄」といえるのです。
浄瑠璃による古典舞踊は、語るように踊ると言われ
てきました。しかし、この曲は語るように踊るこ
とができない特別な不思議な曲と言えます。
曲は、最後に《妄執の雲の塵積もって山姥となれり
山また山に山めぐりして》と山姥は姿を消していき
ます。曲には、余韻と余情が意識のないところから
自然にあらわれていくのが理想でしょう。
実は踊りを語ってはならない、実演家が話してはなら
ないといわれてきましたが、私はより多くの人と共感
をしたいと思います。このような思想哲学の深い
曲を、踊り重ねていくことは、身体と心の大切な交感
を言葉や文字で伝えていく為に必要な訓練に感じる。