人よ、絶望の中に生きよ【精神の医者に見せたブログ】
ストレスがたまると人は逆に笑顔になっていくものなんだね。
笑顔というには違うか。目をガン開きにして口角だけ上がっている状態を果たして笑顔と言っていいものか、僕にはちょっと判断が付かない。
さて、幸福とはなんだろうか。
昔なんかで言ったことがあるとは思うが、そのときとは違う考えを僕は抱いていると思うことは断っておく。
僕は無邪気に幸せや自己肯定感などと語るようなブログが嫌いだ。
何故か。――苦しみから目を背けているからだ。
人間らしさとは一体何か。理性的たることか、あるいは道徳的たることか。
僕はその両方とも違うと思っている。
じゃあ僕は何に人間らしさを見出しているか。
「苦痛」である。
苦しみに足掻いてもがいて、その中でささやかな幸福を見出す生き方にこそ、僕は人間らしさを感じるのだ。
幸せとかを語る胡散臭いブログやインフルエンサーは、苦しみから逃れる術を得意げに発信している。あたかもそれが正しいかのように。
やれ「自責をやめろ」だとか「自分を受け入れろ」だとか。
僕はそれを正しいとは思わない。僕は彼らに「人間性」を感じないからだ。
生きていくにはどうしても苦しみはついて回る。どうやったって、現実は苦悩だらけでうまくいかないものだ。
満足な豚より不満足な人間たれ、というのを友人から言われたが、当たらずとも遠からずだと思う。
ただ漫然と目の前の幸福と無意味な生を貪るより信念と尊厳に基づいた生と死、その先の幸福を味わいたい、という意味では間違っていない。
幸せなんて現実的にはあり得ない、などとは言わない。けれど、苦しむことを諦めてただ漫然と生きているだけの生もあり得ないだろう。
生きるには苦しみは不可欠だ。離れられない絶望と逃れられない死。それらを一時忘れるだけならともかく、無視してなかったことにして漫然と暮らしているのが許せないのだ。
人はだれしも、弱さや至らなさを抱えて生きていくものだ。
自分のすべてに満足して生きているような人間が、自分のすべてを愛し生きている人間が、どこにいるだろうか。
自分の受け入れられない部分。誰だって一つや二つ持っていてしかるべきだ。
許せない自分を「許して」「責めるのをやめて」暮らすことは、きっと「苦しみ」から目を背けているに過ぎない。
胡散臭いインフルエンサーの言う眉唾物の「自己肯定」を受け入れられない、それどころか軽蔑すらしている理由はそこにある。
ダメな自分を許して、無視してはならないのである。
自分の「許せない部分」も全部ひっくるめて「自分」なのだ。されど、そんな許せない自分を肯定することは本来できないものだ。
何故なら「許せない自分」を「許さない自分」も「自分」なのだから。
許せないものを許さない。自己矛盾を抱えて、自分を責め、苦しみ、ありのまま生きる。僕はそういった一種の自己許容こそが本来の「自己肯定」だと思う。
故に、苦しむことを諦め、目の前の苦痛から目を背けて生きることに懐疑的であり、嫌悪感を抱くのだ。
大人になっても子供じみた理想論を恥ずかしげもなく口にするような人間を総じて信用したくない。しかもそういった子どものような人間が世の中にとっては都合がいいのか「模範」とされてるような節があるのが一番気に食わない。夢や希望より絶望を語れ、人間よ。