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余地よち

 誰かの文章を読んでいるときに、「あ、この景色は前に見たことがある」と思うことがある。もちろん、出てきたのが東京タワーや浅草寺、あるいは新宿御苑やディズニーランドなら、そりゃあ見覚えもあって当然なのだが、そういう「決まった場所や建物」のことではない。書いた人が歩いているちょっとした街角や、住んでいるアパートの作りや裏道といった、どこにでもある景色の中に、それを感じる。つまり「本当に見たことがある」のではなくて、私自身が「前にも想像したことがある景色」ということだろうか。
  
「想像」とはいえ、全く何もないところから思い浮かべるばかりではないだろう。これまで自分が実際に行って目で見たり、映像で見たりしたもののエッセンスを集めて思い描いていることが多いのではないかと思う。……ということは、「見たことがある」と思うのは、私の想像力が乏しくて、アパートと言えば木造のあれ、みたいに決まった回路しか持っていないということだろうか。

 ……なんて言ってしまったら身も蓋もないのだが。

 場所が明言されていて、何もかもが仔細に描写されていれば、文章から正しい景色が分かる。写真があればなおさらだ。それが悪いということはもちろんないが、「見たことがある」という自分に心地の良い設定はかき消され、「いやいや、あなたが思い浮かべたそういうアパートじゃなくてですね、これこれこうの……」と、訂正されたような気にはなる。

 そうやって舞台のセットが変わると、それまで思い描いていた物語の質まで変わる……という大袈裟なことはないし、知ったことが新たなエッセンスになることもある。とはいえ、んんー、それは知らなくてもよかったなーということが稀にあるのも確かだ。

 実際に目に見えているのは文字の羅列なのに、ポワンとその人のいる情景が浮かんで、想像がまた別の想像を呼ぶ。そういう「想像の余地」というか「お任せ」みたいなものを、私は結構たいせつに思っているのかもしれない。