「ハルオのヤゴ」
日傘をさして、いつものように俯き加減でトボトボとマンションまで辿り着いて顔を上げたら、隣の部屋に住む小学生のハルオが立っていた。
「あ、ハルオ」
「あ、赤山さん、鍵、鍵、おねがいします。こんにちは」
「ん、こんにちは…」
オートロックを開けながら、ハルオの姿を改めて見た。両手が塞がっていてインターホンも押せなかったらしい。
雨でもないのに長靴を履いて、小さな透明のケースを首から下げ、右手には魚取り用の網、左手には大きくふくらんだスーパーの袋を持っている。ランドセルも背負っているから、学校帰りではあるんだろうけれど…
「それ、何が入ってるの?」
ケースを指さして尋ねると、ハルオは私を見上げながら唇をゆがめ、
「赤山さぁーん…これ、これ重たいんだよぅ…」と、網を握っている手から人差し指だけ伸ばしてケースを指さした。
一度「おばさん」と呼んだのを注意してから、ハルオは表札にある名前通りに私を「赤山さん」と呼んでいる。小学二年生でも読める漢字だからか、それとも親に聞いたのか知らないが。
私は片手でケースを持ち上げ、ハルオの首に掛かったその紐を外してやった。襟元から立ち上る、気持ち悪いくらいのハルオの熱気を指先に感じた。校帽の下に見える髪の毛も、シャワーを浴びたように汗で濡れている。
そのまま一緒にエレベーターに乗ると、
「今日ね、学校のプールからヤゴを救出したんだよ」と、ハルオは誇らしそうに話し出した。水を抜いて上級生がきれいに掃除をする前に、プールで育っていたヤゴを、みんなで助け出したということらしい。
「見て!」と言うから、ケースを持ち上げて覗いてみたら、濁った水の中に動くものがいるのがわかった。はっきりとは見たくもなかった。
そうしているうちにエレベーターは8階に着き、両手のふさがっているハルオのかわりにチャイムを押してやると、しばらくしてハルオの母親がドアを開けた。毎度おなじみの観察するような目でヌルリと私を見る。
「いつもハルオがすみませんね」
はいはい、いつもすみませんですよと、私は腹の中で思う。でも本当に「すまない」のはハルオじゃなく母親の方だ。ヤゴの入ったケースに気がつくといきなり、「ヤゴなんか貰ってきちゃだめって、今朝ちゃんと言ったでしょ!」と、怒鳴ったのだ。
「だって、山田先生が、ヤゴの観察、宿題だって…」
そう説明し始めるハルオを、「いいからもう、汗びっしょりじゃないの! 早く入って、さっさと着替えなさい!」と、母親は玄関に引っ張り込み、ドアを閉めるなり音高くロックした。
そうして私の手には、ヤゴの入ったケースが残ってしまった。
「それで、今度はヤゴなんですね」
ベランダに置いたケースを見て、うちの赤山さんが言った。髭面で頭をぼりぼり掻いているのが演出家の赤山さんで、本当は、私は「赤山さん」じゃない。ハルオの母親もうっすらそのことに気づいているらしく、「隣りは夫婦じゃないらしいわ。どうりで年が離れすぎ」と近所に漏らしてくれている。ご親切に。
「ヤゴは、生きている糸ミミズやアカムシしか食べませんよ」
「そうなの?」
「生きているバッタとかでもいいかもしれないけど、どこで見つけます? 放っておいたら、共食いするかもしれませんね」
いやだ。共食いはいやだ。
「ねぇ、またどこかで逃がしてきてよ」
今までにも、「お母さんにダメといわれたから預かって!」と、ハルオから様々な虫を押しつけられた。モンシロチョウや、アゲハの幼虫(…と、ハルオが信じている青虫)とか、テントウムシ、ダンゴ虫…。そのたびに、赤山さんに捨ててきてもらっていた。
ハルオも、預けただけで満足なのか、あとは見に来ないし、「どうしたの?」と聞かれたら「逃げちゃった」で話は済んだ。逃がしたんじゃなく、逃げちゃったんなら仕方がないのだ。
「でもこれ、ハルオくんの宿題なんですよね?」
そうだ…。今まで通りとはいかない。ハルオはヤゴの「観察」をしなければならないのだ。
次の日、赤山さんは釣具屋で糸ミミズを買ってきた。午後にはハルオがやってきて、「観察日記」を書いた。その次の日は休みだったから、三人でバッタを探しにいった。
赤山さんと、赤山さんのアイジンの私と、赤山さんちの隣のハルオ。なんだかおかしな組み合わせだ。その間、ハルオのパパとママは優雅に二人でお出かけをしていたことだろう。
それから三日たった。赤山さんは撮影でマレーシアに行ってしまった。たぶん、奥さんも連れて…。
私はくさくさして部屋に居る気になれず、友達のところを泊まり歩いた。どこへ行っても、「そうやっていちいち呑んだくれるんなら、いい加減にアイジンなんかやめなさいよ」と嫌がられた。ふん! 私たちの歴史も何も知らないくせにと、その時は思う。けれどひとりになると考えが変わる。
確かにそうなんだ。どう考えたって、いつまでも赤山さんの手の中にいないで、出て行くことを考えるべきなのだ。あのマンションもハルオ母のおかげで住み難くなってきたし…。
でもー…とか、やっぱり…とか考えながら、とりあえず赤山さんに与えられた部屋に戻った私は、ドアを開け、部屋に入ってカーテンを開けて、初めてヤゴのことを思い出した。
慌ててベランダに出てケースを覗くと、そこにはもうヤゴは一匹も見当たらず、代わりに羽のひしゃげたトンボ(のようなもの)が、あった。動かなかった。
蓋なんか、締めておくからだ……!
どうしよう。
学校が終わるのが何時かわからないけれど、やがて、今日もハルオが「観察」にやってくるだろう。
私は、何も直視しないようにしてケースの中身をゴミ袋に開けた。それから部屋の中をぐるぐる歩き回りながら、トンボが飛び立つ様子を懸命に想像し、目に浮かべ、何度も何度もハルオに話して聞かせる「嘘」の情景を練り直し、セリフを練習した。
そのうちにその情景が、だんだん本当のことのように思えてきて、わたしは早くハルオに会いたくてたまらなくなっていた。
「ねぇねぇ、ハルオ、ハルオにも見せたかったな! トンボがね、この小さなケースからね…」と、話すのだ。ハルオをベランダに連れ出して、あの空を指さして!
きっとハルオは目を輝かせて聞いてくれるだろう。
ああ…
ごめんね、ハルオ。
私は大嘘つきだ。
でも、トンボの代わりに、私がちゃんと飛び立つことにするよ。ここには蓋なんかないんだもの。
きみは「赤山さんはどこ?」って聞くかな。そしたら赤山さんがきみに言うね、「逃げちゃった」って。
(おわり)