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2021年3月11日から、また10年を生きる

// この記事は東日本大震災のことを含みます。

2011年3月11日。もうすぐ10年か。
高専5年生(20才)の春休み,卒業式も控えていた。わたしは呑気に仙台で靴下を選んでレジを済ませていたっけ。

ゴゴゴゴゴゴ ぐらぐら ゆ〜らゆ〜ら・・・
恐ろしく長い揺れだった。商店街のガラスが割れる音がする、無表情のマネキンも倒れてきた。美容院のケープをしたまま道に出てきている人もいた。ブリーチ中の人大丈夫かな、頭皮。

家は仙台から常磐線で1時間ほどの福島と宮城の県境の町だ。当然電車は動いていない。電話もつながらない。右往左往したが無駄だとわかり、避難所の小学校に行った。

雪が降ってきた。トイレは行列だ。春服で出掛けたから寒い。ストッキングは冷える。あのとき靴下屋で靴下を買わなかったことを後悔した。

相変わらず電話はつながらなかったけど、母とメールで連絡がとれて、避難所の場所も伝えることができた。「家がダメかもしれない。」と。何のことか見当もつかない。「ダメって何?笑」と返した。

18時過ぎくらいだっただろうか。両親が迎えに来てくれた。道路は寸断、信号もついていない。進んでは引き返し通常の3〜4倍かけて来てくれた。感謝だ。
車のラジオで初めて津波がきたことを知った。家がダメというのは、実家が津波に飲まれたということだった。

幸いにも父の営んでいる街場の居酒屋や祖父母の家は無事で、電気・ガス・水道も通っていた。避難生活の始まりだ。

震災前の玄関より
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震災後の玄関より(木と右の岩が目印)


次は何だ、福島原発が危ないという。水蒸気爆発?
家もない。店も開けられない。ペットたちは死んだ。人だけ無事だったんだ。家族で遠くに避難することになった。まずは伊達市にある父方の祖父の家に行った。(原発からもろに風下だったわけだが。)

次の日、もっと遠くへと。
青森にある父の友人の別荘を目指すことになった。山形に立ち寄った際に、父の別の友人が宿を手配してくれていた。詳しい経緯は忘れたが、しばらくここでお世話になることになった。祖父・叔父・叔母/父・母・わたし
/兄・弟で3部屋借りての素泊まりだ。

とりあえず最低限の服を買い、散歩をして、ラーメンを食べた。宿の温泉が気持ちよかった。夜は買ってきた山形の地酒を飲んだ。髙木酒造の「朝日鷹」。とても美味しい酒だ。

毎日がこんな感じだった。お気楽にも聞こえるな(笑)
だが、旅行が楽しいのは帰る場所があるからなのだと気づいた。

いつまで続くのか。この先どうするのか。することも特にない。
それでもお腹は空くし、酒は旨い。山形の人たちは優しい。
体重が減らないわけだ。

結局1週間ほどで家に戻ることになった。まぁ、家はないのだが。
振り返ればとてもわずかな期間だったけれど、あのときは永遠のように感じたし、両親は本当に大変だったことだろう。
父は決めることが得意な人だと思っていた。良い悪いはさて置き、決めるのだ。「今日は焼肉だ」「旅行は北海道だ」など小さなことから「小型犬を飼うぞ」「新しい家を買った」「仕事はやめて居酒屋を始める」など家族に関係のあることまで決めてしまうのだ(母は知っていたのかもしれないが、子供的にはいつも突然決まっていた気がする。)
そんな父がこのときばかりは「どうしたらいいか頭が回らん。浮かばん。」と言っていたのが心に残っている。

その後は仮設住宅に入居し、父の居酒屋で昼にカレー屋を始めてみたりと何だかんだ過ぎていった。本当の意味で落ち着いたのは、中古住宅を買って仮設住宅から引っ越した後くらいかな。プライバシーが守られることの尊さを感じた。

この10年の中で、祖父は亡くなり、叔母は大病をしたけれど、本当にいま生きていることに感謝。

いつかお世話になったあの旅館を訪れてみたい。


2024年7月。マンションのリノベについて記録を残そうと思って、数年ぶりにnoteを開いた。改めて震災は自分の人生でとても大きなことだったなと思った。記録のために公開にしておこう!

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