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緑の色がつく主人公を、何の色もついていなかった村井優が櫻舞う中で表現するー10th「僕は僕を好きになれない」MV解禁 毎日note neo EX 2024年10月5日付
今回は初めて、ストリーミングでの音源解禁時に、Stationheadから入って聴いてみた。
かなりリピートもしてくれたので、何回か聴くうちに曲の輪郭がとてもよく見えてはきた。
でも見えてきて、余計に不思議に思ったというか、ちゃんと歌詞が見たくなった部分はあった。
その歌詞が映し出され、さらに繊細な映像美で織り成されるMVが、本当に秀逸だった。Buddiesの評価がすこぶる高い。
村井優のスキルと迫力が如何なく発揮されているだけでなく、おそらく映像のこだわりの部分でセンター以外のメンバーもとても存在感を出している。
とても評価は高い楽曲であるが、個人的に気になったことをチャプター化した。
曲の世界、表題曲との繋がり。そこにあるのは
10th表題曲「I want tomorrow to come」の主人公、非常に内向きな「僕」の姿であった。
そこに垣間見れるのは、孤独というワード。
明かりをつけたまま眠る、という行動の奥底に眠るのは、もし目覚めなかったらという、孤独のまま人生の終焉を迎えることへの恐怖心であった。
そんな山下瞳月センター曲に対し、村井優センターのBACKS曲「僕は僕が好きになれない」の主人公が描く世界。
人の心にその扉はある
誰も知らない秘密の入り口だ
自分がどんな風に見られてるか?
そっと鏡に映してみたりする
みんなに嫌われないように
取り繕うとして
醜いものを隠してる
愚かな見栄の世界
僕は僕を好きにはなれない
後ろめたい生き方をしてる
何を失おうと もっと正直だったら
二重人格なんかにはならなかった
外からどう見られているか、みんなに嫌われないように生きる。
それは何のためかというと、明らかに孤独を恐れてのこと。周りから誰もいなくなることを恐れてのこと。
ただその生き方を、後ろめたいと表現している。
本当はそんなふうに生きたくはない。何を失っても正直でいたかった。本当は。
でもそれができないほど、孤独は怖い。
…もしかすると、やはり。
IWTCの主人公と同一人物なのではないか?
もちろん、同一人物である決定的な証左はない。けれど、そんな自分の中に抱える、自分のことが好きになれない部分に葛藤する姿は、この2曲の主人公に共通するものである。
扉を開ける鍵はどこにある?
ノックされたっていないふりするだけ
同じ言動で目立たない存在でいればいい
主張をすればするほど
仲間が離れてく
僕は僕を嫌いでいいのか?
生きる意味もわからなくなった
誰とも比較せず自分に自信を持てたら
もっと毎日がしあわせに思えるのに…
この主人公が考え違いをしているなと感じるのは、「嫌われないこと」と「好かれること」は同義ではない、ということを忘れているのか、知らないのかわからないけれど、そこから目を背けてしまっていることだ。
自分の周囲から人がいなくならないでほしいと願うなら、逆に当たり障りのない主張とか、何を考えているかわからない、どっちつかずで状況に合わせようとブレまくる意見しか言えない人なんかそばにいてほしくない。
そもそもはっきりした主張をすると嫌われる、という考えからして、どこに根拠があるのかという感じ。
自分の考えを表明して、それで離れていくような人ならそれでいい、くらいのスタンスでいいのに。
そんな人にすらそばにいてもらいたいのかと。
実は私はずっとそういう生き方をしてきたので、確かに敵も多かったような気がする。SNSを始めてもそのスタンスは変わらないし、それを賛同してくださる方も多い代わりに、否定的にみている人も少なからずいると思う。
でも、それで何かを変えようと思ったことはない。
まあそれはいいのだけれど、ここから浮かび上がってくる人物像は、生き方を暗中模索し続ける姿であり、それはまさに欅坂の主人公である「僕」の姿そのものだ。
IWTCのときも欅坂の主人公感は強く感じたけれど、このBACKS曲が世に放たれたことによって、山下瞳月センター曲と村井優センター曲でワンパッケージになっている、もしくは二層構造になっているように見える。
この2曲の主人公、違いももちろんある。
IWTCの「僕」は、ラストのセクションでちゃんと明日を見据えて生きていこうとはしている。ただし、この曲の主人公は、結局明るい未来が見えないまま曲の終わりを迎えている。
とはいえ、同じ人間の心であっても昨日と今日、今日と明日で揺れ動くことは往往にしてあるので、これをもって別人だと断じることもしたくはない。
仮に同一人物だとして。
気になるのは、この10枚目という節目で、またなぜ欅坂の「僕」を主人公に据えようとしたのか、というここが最も気にはなるのだ。
この両曲をひたすら聴いて、答えを探すしかないのかもしれない。
村井優、無双。その向こう側。
村井優にセンター曲がなかった今までの方がおかしいのであって。
村井優がセンターを務めれば、それこそ強すぎるくらい強い曲になるのは当然であって。
そして遂に誕生したそのセンター曲は、どう考えてもうさぎねこの片割れである山下瞳月センター曲「I want tomorrow to come」とのつながりを感じずにいられない楽曲である、というのは前述のとおり。
つまり、うさぎねこで一人の主人公を別角度から描いたとしか私には思えないのである。
そしてこの曲。
村井優のキレキレぶりは、半端なかった。
もう彼女の持てる力を全て詰め込んだのではないかというMVになっていた。ブレイキンまで入れていた。
まさに無双である。
ところが不思議なこともあって。
この曲の曲調は、おおよそ村井優がバキバキに踊るダンスナンバー、という立ち位置とは少し離れている気がする。その妙な違和感にずっと囚われているような感じ。
主人公の孤独の苦しさを、村井優が一手に引き受けてダンスで表現しているような気さえしてくる。
BACKSに回ったというこの事実を受け止めるとき、もしかしたら彼女の中でこの主人公へのシンパシーが生まれたのかもしれない、と今になって思うことがある。
表題曲選抜発表の後の、村井優のブログ。
ふと表題曲の練習動画を見たとき、私は参加できていないんだと実感してすごく寂しくなりました
かっこよくて本当に素敵で…
参加したかったなと
本当に、本当に悔しいです
何度も落ち込んで
発表があってから色々考えると涙が溢れました
もちろんこれから先も落ち込んでしまうことは沢山あると覚悟しています
ですがそういった思いも全部受け入れて今は前を向いています
これからのBACKS期間は今後の私にとってすごく大切な期間だと思います
チャンスだと思います
私自身、BACKS LIVEも二度参戦して、その熱量をこの肌で感じているので、決して表題の下に位置するものではない、ということは胸を張って言える。
ただここでは、村井優の中に、表題曲メンバーに選抜されなかったという悔しさが存在した、という事実のみを取り上げたい。
挫折、というと言葉が強くなってしまうし私はそうは思っていないけれど、自分の願いが叶わなかったという事実だけを取り上げるなら、村井優はそう器用ではないのかもしれない。孤独を恐れる主人公にも通じるものがあるかもしれない。でもしっかりと前を向く柔軟さも持ち合わせている。
彼女はこの曲を自身のセンター曲として渡されたとき、最初に何を思ったのだろう。
欅坂の主人公は、正直一筋縄では接することのできない曲者だ。
心に闇を抱えてここまできた人間だ。
心を氷のように分厚く覆い、誰の言葉もなかなかその氷を溶かせないほど。
そんな主人公を歌ってきたのが、櫻坂の源流だ。
一方で村井優は、そんな欅坂の主人公と交わる機会のなかった人。
目の前にそんな闇を抱える人がいたら、彼女はどうするだろう。
そこから出てきたこのMV。
彼女は、そんな主人公と、ダンスで「会話」しているように感じた。
だからあの曲調で、あれだけキレキレの動きなのではないかと。
もちろんそこに乗せられる想いは、自分の境遇に重ねられるものもあるはず。シンパシーもあるに違いない。
わかる。あなたの想い、伝わってくる。
でもね。
私はこう生きてみたいんだ。
こんな生き方はどうかな。
そんな問いかけを、彼女は「僕」にしていたのかもしれない。
一期生が目についたその理由
これはほぼ100%個人的なものの見方、というより、やはり私の中で流れている、欅坂を入口としてグループを見てきた者のDNAが為せる業だとしか思えないのだけれど。
歌詞の世界がどう聞いても櫻坂のそれというよりは、欅坂のそれとしか思えない。そして、私はそれを肯定したいところがある。
表のテーマとしては、アイドルを全く知らずにこの世界に飛び込み、櫻坂の色しか知らない村井優が欅坂の世界を表現したらどうなるか、ということだとも思っているけれど、実際にその時代を駆け抜けていった一期生が欅坂の色を自ら教えてくれている、と私には感じられた。
だから、三人が際立つのは当然のことだという思いがある。
卒業するからとか、そうでないとかは全く関係なく、欅坂の色を櫻坂が体現する世界として必要だったという認識である。
かつて小池美波は、あれは確かW-KEYAKI FES.2021.だったか、櫻坂ではなく欅坂の楽曲を求められたことが悔しいと、大きすぎる存在にまだ自分たちは到達していない、そのことを自分が認めてしまっていることも悔しい、という思いを表明した記憶がある。
櫻坂の楽曲が求められるようになりたいと。
そこからさらに3年経って。
間違いなく、櫻坂は大きく成長した。
欅坂ではなく、櫻坂を求められる機会、彼女の思いのとおり間違いなく増えた。
彼女たち一期生から、欅坂という存在が消えることはまずないだろう。
もちろん今の櫻坂もそれと同じくらい大切にしたいに違いない。
改名して、まもなく丸4年を迎える。
一期生も、遂にあと1名となる。
このタイミングで、欅坂の色を前に出してくることは、おそらく必然ではなかったのかなと…
そんな思いで、三人の姿をMVに見ていた。
何度でも繰り返す、アンダーではなくアナザーという概念
7thから再開されたBACKS LIVE。
井上梨名、武元唯衣、石森璃花といったメンバーが座長を務め、それぞれのカラーを打ち出し、その価値を右肩上がりに高めていった。
そこに集まったBuddiesのほとんどは、当然のことながらそんなBACKSメンのファンであっただろうけど、その盛り上がりが本体のLIVEと遜色ない、いやもしかしたら上回っていたかもしれない、と評されるその深淵の部分、彼女たちメンバーも、そのファンをも突き動かした深層心理。
それはやはり、選抜メンに負けない、自分の推しを選抜メンに復帰させたい、という双方の強い強い思いだったと私は考えている。
もしそうだとすると、さらにその裏側にある概念としては、やはり表題選抜の方が上で、BACKSが下のカテゴリである、ということを自ら認めてしまっていることになりはしないか。
もちろんそう考える理由は理解できるのであって、例えば櫻坂の10th、といえばフィーチャーされるのは表題曲であるし、それはある意味当然だ。表題、というくらいなのだから。書籍で言えば表紙なのだから。
そういう意味で翻ると、BACKSは裏表紙、という扱いになってしまうのか。
だとしたら、やはり表紙を飾るメンバーの一員に加わりたい、と考えるのは自然な流れでもある。
でもそれを強く理解したうえで。
BACKSは「アンダー」ではなく「アナザー」であると心から訴えたい。
表題が素晴らしいのは言うまでもない。
顔なのだから。
外向けに櫻坂というのはこういうグループだと訴えるためのメンツなのだから、
でもだからと言って、BACKSが後ろという意味だからと下の扱いを受ける意味があるのか。だとしたらあのMVの素晴らしさをどう説明するのか。
楽曲そのものはもちろん、MVの映像美、こだわりしかない衣装、自分たちの歴史を忘れない姿勢、そしてそれを体現するハイパフォーマンスの連続。
これらが、表題とどう差をつけられるのか。
外に出て行くのが表題だからこちらが上だ、というのなら、BACKSで音楽番組に出ればいい。そこまで価値を押し上げればいい。
櫻坂46であることは間違いないのだから。
この曲をうたコンの生演奏で披露するなんてことがあったら震えるじゃないか。
上下ではなく、横並び。
櫻坂46の「もう一つの顔」。
扱いが低いというのなら、自分たちでその価値をさらに高めていく。
それしかないんだ。
そして実際、BACKSはそうしてきている。
櫻坂のメンバーに優劣をつけるなど、なぜそんなことができようか。
私はこの曲に触れて、その思いをより一層強くした。
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![川島 雅隆(かわしま まさたか)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/45359287/profile_9f03e7d6f83ad2d2d964484d122a0f96.png?width=600&crop=1:1,smart)